ライブ配信おたすけ隊誕生秘話
創業以来8年間、
映像制作事業、一筋で通してきた。
今日ここに語るのは、そんな「一筋」という甘美な響きを投げ捨て、オリジナルの公式サイトまで作り込んでリリースした新事業
「ライブ配信おたすけ隊」はいかにして生まれたのかという話である。
あるいは小規模事業者がコロナ禍の2ヶ月で新事業をいかに生み出すかという1つの事例として読んでもらえたら幸いです。
第一章:すべては一目惚れから始まった
すべての始まりは、この1つの機械から始まる。
「V1-HD」というスイッチャーだ。
ライブ配信をやるとかVJをやるとか、
そういうことは一切考えずに、ただこのスイッチャーに惚れた。
写真奥に見えるT字バーというレバーを押し引きしてみたかった。
これをAmazonで買ったのが2019年11月23日のことである。
自らへの勤労感謝の意を込めて何の迷いもなく購入した。
コロナのコの字も知らない平和な時代の秋の話だ。
その頃はライブ配信の依頼があっても
ほぼノールックパスで専門家を紹介していた。
もちろんマージンもとらない。
ただフォローもしない(というかできない)。
ライブ配信は僕にとって近くて遠い存在だった。
第二章:たった一人の熱狂
2020年1月下旬。
マニラで海外ロケを終えたあたりから
ぼちぼち「コロナがやばいんじゃないか」という雰囲気が漂い始めた。
それでも東急ハンズで5枚入り超快適マスクが購入制限なく買えたギリ平和な時代の話だ。
そして2月くらいにライブ配信に精通する友人に何気なく尋ねてみた。
「今度、ライブ配信の勉強会を開いてくれないかな?」
彼は快諾してくれて、実際に開催されたのが3月25日だった。
この勉強会でライブ配信できるところまではわかった。
ただ「リスクも多分にある」こともわかった。
やってもないのに冷や汗を感じた。
そのなかで人一倍、興味を示していたのが、
ナチュパラ でも最年少の若手のホープの一人、くつみがき君だ。
「大ヒットはたった一人の熱狂から始まる」
と幻冬舎の社長は言っていた。
もちろん他のスタッフも興味を持っていた人はいたと思うが、
僕の目からみて彼が人一倍熱狂しているように見えた。
この時、彼を中心に新事業ができるかもしれないと思った。
いや、正確には「あの時、そう思ったような気がする」だ。人は過去を都合よく編集する生き物だから。
第三章:緊急事態宣言の片隅で
志村けんさんの訃報が飛び込んできたのはその4日後。
日本全体の空気が一気に深刻化していくのを肌で感じた。
そんな時、1通のメールが届く。
昔、僕が通っていたビジネススクールの先生で、
一橋大学、法政大学でも教授を務める米倉先生からのメールだった。勉強会からわずか1週間後。
絶妙なタイミングというのは人をその気にさせるものである。
できるかどうかは分からないが、まず乗っかってみた。このメールが新事業スタートの出発点となった。
そして緊急事態宣言が発令されたのが4月7日。
その日、別の友人からも音楽コンサートをライブ配信したいと相談を受ける。
その頃から僕の部屋はライブ配信基地へと化した。
ネットで調べたり、友人に何度も質問を投げかけては自分で試してみるということを繰り返した。
初心者すぎて成長率が圧倒的に高いので、それも学ぶ意欲につながった。
「必要こそ発明の母」
と言ったのはイギリスの作家・ジョナサン・スウィフト。お客様から求められる内容を実現させるためのより良い手段を日夜研究。
緊急事態宣言でロケも相次ぎ中止になる中、
4月18日にライブ配信デビュー戦を迎える。
第四章:ライブ配信おたすけ隊デビュー
中目黒の正覚寺というお寺で、雅楽のライブ配信を行った。
ライブ配信中、僕はずっとインカムでカメラマンさんに指示を出しながら、
自分が次に見たい画をスイッチングしながら見せて行った。
念願のT字バーを何度も上げ下げしたことは言うまでもない。
そして、やりながら気づいた。スイッチングとは編集であると。
人生の1/3を費やしてきた(あくまで体感値)編集脳がここで生きた。
視聴者が今この瞬間に観たいと思う画と、僕が観せたいと思う画を、バランスを取りながらスイッチしていく。それはそのまま視聴者へとリアルタイムで届けられる。ミスをしても届けられるリスクも隣り合わせで、その緊張と高揚と終わった後の解放感は今までに味わったことのない喜びだった。
いつもなら撮影終わりでキャストは打ち上げられても制作スタッフはそこからがいよいよ本勝負みたいなところがある。けど、ライブ配信はキャストと一緒に解放感を共有できる。
そして4月24日には米倉先生のビジネススクールの入校式も無事に配信した。
評判も上々で、このビジネススクールの配信をきっかけに2社のお客様から依頼がきた。
そして、その後も、何度かライブ配信を重ねる中で、毎回のようにトラブルに見舞われて、ギリギリ乗り越えながら気づいた。
これは、多くの人が苦労するはずで、
だからこそ、サービスになる、と。
そして、コロナ禍で急増するライブ配信のニーズに対して、圧倒的に供給者が足りなくなると直感した。
もちろんライブ配信専業者と争うつもりはない。
むしろこの大変な仕事を専業でやれる人にはリスペクトしかない。実際にヒマナイヌさんという昔お世話になったライブ配信の大先輩のオンラインサロンに入って今とても勉強させていただいている。
第五章:デザインの魔法
「ライブ配信おたすけ隊」のネーミングは僕の思いつきだ。ど直球すぎてセンスが問われるが、
ナチュラルパラドクスというど変化球の社名をずっとこしらえてきたので、たまにはサービス名称でサービス内容が分かるものにしたかった。
そして長年、ナチュパラをずっと支えてくれているデザイナーの馬場 としのりくんにロゴとメインビジュアルをお願いした。
5月4日、緊急事態宣言がようやく終わりを告げる
その直前にこのデザインは生まれた。
はじめてスイッチャーに出会った時の衝撃のように僕はこのデザインに一目惚れした。
そして、この時、思った。
「このデザインで、どこまで行けるか、どこまでやれるか試してみたい」
デザインには人の背中を押す力がある。
勇気の一歩を踏み出す力を与えられることがある。
具体的なサービス内容や価格表はこのデザインの後に考えた。正直なところ、それさえも僕にとっては重要ではなかった。
このデザインとともに、新事業を歩んでみたいという一心だったのだ。
これから多くの人が目にするかもしれないデザインを2番目に目撃した人間として嬉しくて仕方なかった。(1番目はもちろんデザイナー本人)
第六章:善は急げ
僕がデザインに熱狂していたその日、緊急事態宣言の延長が発表された。
ライブ配信の相談は最初の2件から次々に口コミで広がっていった。
主に2種類のお客さんがいた。
「ライブ配信を丸ごとお任せしたい」
「ライブ配信を自分たちでやりたい」
ちょうど半々くらいの割合でニーズがあった。よくあるニーズをそのままサービスラインナップにしようと決めた。実践しながら市場調査をやっているような気分だった。
あとはいつ公にリリースをしようかとタイミングに悩んでいた。
「コロナが落ち着いてからがいいのではないか」
「緊急事態宣言中は顰蹙を買うのではないか」
と思っていた時に、ナチュパラ の新メンバーの小田さんに相談をした。
元旅行会社で営業をやっていた生粋の明るい3児のママさんは、
「宇都宮さん、良いことは早くやらなきゃ!」
と全部の悩みを吹き飛ばすくらいの明るいトーンで言われて、ハッとした。
コロナの影響で苦しんでいる人はたくさんいる。
音楽ライブ配信をしたときも、アーティストに人に
「自分たちのアイデンティティを喪失しそうになっていた。
こういう場を与えられて久しぶりに演奏できて嬉しい」
と言ってもらえた。
視聴者や参加者からもチャットなどで感想が羅列されて満足度が即時見える化されるのもライブ配信の醍醐味だ。それを見ると本当にやって良かったと思えた。
小田さんの後押しもあり、彼女とのオンライン会議の10分後にはSNSで告知した。
結果的には多くの人にシェアしてもらって、
驚くほど多くの仕事につながった。あのタイミングでリリースして良かったと思う。あの時、多くの人が困っていたのだ。
結果的に勉強会から2ヶ月で新規事業は生まれた。
「兵は神速を尊ぶ」という三国志の言葉を思い出した。
WEBディレクターの日野 優介くんが素敵な公式サイトをつくってくれたし、
お願いしたすべての企業が実績としてホームページへのロゴ掲載をOKしてくれた。
またJ-WAVEでも取り上げていただいた。取り上げられたというより『STEP ONE』という番組でJWAVEリスナーさん応援企画として「番組内であなたのPRを手伝います」と言ってたのですぐに応募しただけだ。ありがたいことに採用された。チャンスは実は身近なところにある。それを見逃さないようにアンテナを立てることの大切さを思い出した。
出演後はロゴ掲載もオッケーをいただいた。すごく心優しい人たちだ。産まれたてのサービスに愛情を注ぐような気持ちで少しずつホームページの見栄えを整えていった。
そして、僕は久しぶりに原点を思いかえすことができた。
僕は映像制作が目的ではなく、映像で人を元気にすることが目的なのだと。
その意味ではライブ配信も映像制作も手段の1つであって、それは両方それぞれに楽しいのだと。
新規事業を立ち上げるという元サラリーマンとしての性分も活きたので楽しかった。
またある時、長年の盟友である劇団フルタ丸のライブ配信をお手伝いしたが、
機材トラブルにより配信が途中で止まってしまったことがある。
その時は本当に劇団の皆さんや関係者の方々に申し訳ない気持ちだったし、
努力ではどうにもならない領域がある以上一時はやめようかとも本気で考えた。
しかし主宰のフルタ君が「また一緒にいつかリベンジしよう」と言ってくれて、
それが本当に嬉しかったし、実際に次回に向けてもう動き出している。あの頃よりはるかに機材は強化されたし、ノウハウも溜まった。万が一またトラブルが起きても、今ならもっと冷静に上手くやれる自信がある。
僕にできることは100%の保証ではない。
100%の成功を目指して準備をするということと、
万が一失敗やトラブルが起きても、
冷静に対処するためのシミュレーションをしておくことだ。
成功も失敗も、全部、次の糧にしていきたい。
そしてそこでの学びや気づきをこのnoteでもシェアしていきたいと思います。
第七章:新規事業を生み出す9の秘訣
最後に小規模事業者がコロナ禍の2ヶ月で新規事業をいかに生み出すかという観点で読まれていた方のためにまとめを記しておきたい。
①新事業を始める最初のきっかけは何でもいい。
→僕の場合はスイッチャーのT字バーだった。
②趣味レベルを事業レベルに変えるために、まずその道の専門家に教えを乞う。お金を払ってでも勉強会を実施する。
③たまたま来たチャンスにはとりあえず乗っかってみる。まず受注してから、できる方法を考える。
④心の底から愛着が持てるような「ネーミング」と「ロゴ(キービジュアル)」と「ホームページ(LP)」の3点セットを早めにつくってしまう。
⑤今までの強みを活かして初期コストを抑えて始める。僕らの場合は映像制作をずっとやってきたからこそ機材もあったし、編集脳がスイッチングに応用できるということもわかった。あなたがこれまで心血を注いだものを、少しだけ視点を広げることで別フィールドに活かせものがあるかも!?
⑥一つ一つの仕事を丁寧にやれば、自然と次のお客様に出会える。
⑦良いと思うことは周囲の目を気にせず、爆速でやる。兵は神速を尊ぶ。
⑧使えそうなチャンスは見逃さない
→J-WAVE出演やロゴ掲載の許可どり
⑨つらい失敗をしても、また立ち上がって課題を修正する。→失敗を次の仕事に活かす。リカバリ力も大事。
以上、秘訣というほどのことではありませんでしたが、これからもライブ配信おたすけ隊をよろしくお願いします!
(長文お付き合いくださり、ありがとうございました。現在もまだコロナは深刻化しています。みなさんのご健康を心から祈念しております)
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