心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その50

 元奨励会員の筒美が、将棋指しになれなかった自分の人生を振り返り思い出すことを書いています。
※ 最初から読みたい方は、心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだすから読むことをおすすめします。 
※ ひとつ前の話→心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その49

 父の死

 学校に勤め始めて6年目の冬、父が亡くなった。
 直接の死因は情けないことによく覚えていないのだが、死ぬ数年前から脳梗塞及び糖尿病で闘病生活を送っていた。
 お葬式は自宅で行い、親戚以外は呼ばなかった。それは母の方針で、理由ははっきりとは言わなかったが、父があまり出世しなかったので仕事関係の人を呼ぶと肩身が狭い思いをすると考えたのかもしれない。最後くらい、そういったことは脇に置いておいて同期の仲間たちと一緒にいさせてやりたいような気もするが、喪主は母なのだから、その方針に従うしかない。
 実家の一室にお坊さんに来てもらい、お経を読んでもらった。
 正面には花と父の写真が飾ってあり、母は少し青ざめた顔をしてそれを見つめていた。
 自分も他にすることがなく、しばし写真を見た。写真ではあるが、こんなにじっくりと自分の父親の顔を見たのはその時が初めてだったかもしれない。顔が細く、頬がくぼんでいて神経質そうな印象ではあるが、端正な顔立ちの様子のいい紳士という風情だ。が、どうも線が細そうで、あれでは人生楽しめなかったのではないだろかという気がした。今は、浮世の苦しみのない天国で楽しく遊んでいるのだろうか。
 白黒で影が目立つ写真だった。その写真の父の顔は、闇を見つめているような虚無的・黙示録的な雰囲気があった。自分が高校生の時に、スコップを持って隣の家の屋根に乗り「君は釘を打つのが趣味かね」と言いながら屋根にスコップを打ちつけていた時にも虚無的な印象を受けたが、こうして死後に写真で見る印象も似ている。
 写真なので断言できないが、両目の焦点が多少ずれているようだ。やはり右目と左目で違うものを見ているのではないか。理想と現実、戦前と戦後、戦前の軍国主義教育と戦後の民主主義教育、官僚と政治家、何と何を見ているのだろうか。
 父は学生時代に上級公務員試験に受かり、昭和28年に通産省に入った。この年は、旧制高校と新制高校の出身者が同時に公務員試験を受けた年だったので、受験者も採用も多かったそうである。母の話だと、新制大学出身者の方が出世しているそうだ。旧制大学出身者は、戦前の軍国主義的な教育で植え付けられた考え方に引きずられてどうもうまく適応できない場合が多かった、とのことである。
 母は、下らない証券マンにだまされるような世間知らずなところがあり、また、まだ中学生だった自分を相手に年金の話を一方的にしゃべり続けたりするような一つの視点でしか物事を見られないところもあるが、こういうところの着眼点は別に変ではない。やはり一方的にバカ呼ばわりするべきではないのだろうか。父は旧制大学及び旧制高校出身であり、確かにあまり出世していなくて、通産省は課長で辞めた。上級試験合格者だと課長には全員なれて、約半数は審議官以上になるので、上級試験に受かり中央官庁に採用された人の中では出世しなかった方らしい。「旧制大学出身者がうまく適応できない」というのは、少なくとも一つの仮説として考える余地はそれなりにある。ただし、28年に旧制大学出身で中央公務員に採用された人の中には、大蔵事務次官になった吉野良彦のような人もいて、事実と整合性があるかどうかはやや疑問なのであるが、ものの見方としては、あってもいい視点だと思う。
 父は、別に戦争に行って戦死したり肉体的に傷を負ったりしたわけではないが、広い意味でとらえれば戦争の犠牲者と言えないこともない。実際、右翼の街宣車が軍歌を流しているのを聞いて、父がなんとも言えない嫌な顔をしてイライラしているのを何度か目にしたことがあった。
 妹と弟もじっと正座していた。
 自分も正座してお坊さんの声を聞きながら、父のことを想い出していた。

 とにかく、同じフレーズを連呼するのが好きな人で、それがどうも好きになれなかった。
 父のことで真っ先に思い出すのは、自分の高校時代に、「君は釘を打つのが趣味かね」と叫びながら隣の家の屋根の上でスコップをズデンズデンと屋根に打ちつけていた姿である。
「酔っぱらって頭がおかしくなっていたんだな」と簡単に決めつけ安易に通り過ぎるのが無難な向き合い方なのかもしれないが、何のためにあんなことをしていたんだろうかと考えてみることも大切なのではないか。もちろん父とは言え他人のことなので、考えてみてもよくわからないのだが。  
 仕事が中央公務員という固い仕事で、家でも一家の大黒柱であり子ども3人の父親で、なかなか大変だったのだろうか。神経質で線が細い感じの人だったので、ストレスやプレッシャーに弱かったのかもしれない。そういう月並みなことしか思いつかないので、やっぱり考えてみてもあんまり意味がなかっただろうか。それとも、意味がないことがわかったところに意味があるのだろうか。
 薄汚れた灰色の下着姿で隣の家の屋根にスコップを打ち付ける父の姿を思い出すと、「元奨くん」みたいに怒りがこみ上げてくることもあり、それなりにメッセージ性があると思うこともあり、滑稽だと思うこともあり、可哀そうだと思ったり哀れだと思ったりすることもあり、意外とあそこに救いがあるのではないかと思うこともあり、あの光景を思い浮かべた時に自分の心に生ずるものは、時と場合によってさまざまである。ということは、自分の心というものはぐにゃぐにゃとした一筋縄ではいかない軟体動物のようなものなのだろう。
 それ以外でも、「大山升田ふーぬぼれんなふーぬぼれんな。大山升田みたいになれるわけヌアーイじゃないか。大山升田ふーぬぼれんな。大山升田ふーぬぼれんな…」という同一フレーズ連呼を聞かされた。
 でも、中学時代に自分の奨励会退会を言い出した時は、少なくとも10以上の理由なり言い方なりを挙げて一生懸命話をしていた。数え方にもよるが、両親合わせて20個くらいの理由なり言い方なりが示され、父が少なくとも半分以上のことは言っていたと思うので、数にこだわる必要もないのだが10以上はあっただろう。
 どうも総花的で、何がポイントなのか、何が一番の反対理由なのか、一番本質的なことはなんなのかがよくわからなかったし、対話が成立しそうになると非論理的な同一フレーズ連呼を行ってそれをつぶそうとする傾向があった。でも、あれだけいろいろなことを思いつくのは、やはり一生懸命だったのだと思う。
 父の方から見るならば、息子のことを考えて一生懸命にやっているのに、どうしてこんなに嫌がられるのかな。不思議だなあ。というところだったのかもしれない。
 反省点としては、亡くなってしまってから振り返って考えても遅いのだが、奨励会のことに限らず、もう少し話し合いが成立するためにはどうすればいいのか、何をどのように話し合うと対話が成立するのか、という方法論を重視するとよかったと思う。中学生や高校生が大人に対して、「ここは、内容も大事だけど、まずは、どうすれば対話が成立するのか、この場面で何をどのように話し合うのがいいのか、方法論を重視しましょう」なんて言って、受け入れられるかどうかは、なかなか難しいところなのだが、できる限り言ってみるべきだった。父相手にそういう言い方はなかなく通用しにくいと思うが、言わないよりは言った方がよかったと思う。
 小学生の頃も「ロケットふわふわ、ゴミふわふわ。ロケットふわふわゴミふわふわ」という、同一フレーズ連呼を聞いた。
 言われた時は子ども心に、「大人なのに変なしゃべり方だな」と思ったが、今考えてみるとなかなか味のあるしゃべりだったような気もする。
「デンデン意味ヌアーイじゃないか。意味ヌアーイじゃないか。えっキミイ。デンデン意味ヌアーイじゃないか」
 という連呼もよく聞いた。
 その前、小学校の入学式の時には、母と二人で来てくれた。
 多くの子どもたちは、両親のどちらか一人しか来ていなかったが、自分は両親二人とも来てくれて嬉しかった。
 さらにその前の幼稚園の頃は、自宅の応接間で相撲をとったことがあった。
 最初は優勢だったが、土俵際に追い詰めると突然「ふおーいふおーい」という奇声を発して俄然強くなり、あっという間に逆転負けしてしまったが、なんだかうれしかった。
 もっと前の出来事。それは、3歳の頃だったようだ。
 これも、たぶん応接間で起きたことなのだろう。当時そこに敷いてあったじゅうたんの濃い赤色を思い出す。
 足を持ったのがたぶん父で、背中をたたいていたのが母だったのだろう。
逆さにつるされて背中をぼんぼんたたかれると、嫌な臭いの液体がお腹から口の方に下りて来た、さらに叩かれると、さらにたくさんの液体が降りて来る。むせるような嫌な臭いが鼻についた。
 そして茶色の液体を吐き出した。
 でも念には念を入れる意味で、さらに逆さのまま背中を叩かれた。
 そしてさらに吐いたが、もう茶色ではなく透明な液体だったので、ようやく逆さづりから解放された。
 誤ってタバコを食べてしまったのを吐かされた場面である。
あれは、適切かつ素早い措置だった。苦しかったが、両親の愛を感じたいい思い出である。
 中学時代の奨励会に反対していた時もこの時も、父が信念に基づいて一生懸命だったという点では同じなのだが、自分の受けた印象は正反対である。そこが、親子関係に限らず人間関係の難しいところなのだろう。

 気がつくと読経が続いていたが、しばらくして声が途切れ、最後に「チーン」というしみじみとした音が響いて終わった。

※ 次の話→心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その51

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