心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その58

 元奨励会員の筒美が、将棋指しになれなかった自分の人生を振り返り思い出すことを書いています。
※ 最初から読みたい方は、心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだすから読むことをおすすめします。 
※ ひとつ前の話→心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その57

 離任式
 約1年半後のその日も、朝五時半頃起きて、6時に家を出た。
 3月なのでもう暗くない。
 電車に乗ると、『将棋の子』という本を読み始めた。
 この本は、学生時代のところでも書いたが、自分が将棋を指したこともある成田英二さんという元奨励会員のことが大きく取り上げられている。成田さんのお母様が亡くなる時期のことが出てきたり、北海道の風景やばんえい競馬の様子などが出てきたりして泣かせる本なのだが、中心的なテーマは成田さんの奨励会での挫折だ。だから、自分のことと重ね合わせて読むこともできる。
 こういう本を過剰な思いを抱かずに読めるということは、「将棋くん」も「元奨くん」もかなりおとなしくなったということだろう。考えてみると自分が奨励会を退会したのはもう40年以上も前のことなので、当然と言えば当然のことではある。でも、こうして自分の心の中で距離がとれてくるまでに40年以上かかっているのだから、やはり「将棋は魔物」なのだ。

 JRI線に乗った。
 遠距離通勤だが、ここまで来ればあと40分くらいで学校に着く。
 今日は、離任式が行われる日だ。
 離任式というのは、異動する先生や退職する先生が修了式の後に、体育館のステージの上から生徒に向かって話をする行事だ。話というよりは別れの挨拶と言うべきか。自分は異動でもなく普通の意味での退職でもなくて、産休・育休代替の任期満了だが、同じような扱いで体育館のステージの上から生徒に向かって何か話をすることになるだろう。
 別に授業をするわけではないので何を話してもいいのだが、全校の生徒が聞いているのだからちょっとした生徒の印象に残ることが言いたい。でも、無理してすごそうなことや偉そうなことを言うと逆効果なので、基本的には自分に言いたいことを言って、生徒がどう受け取るかは生徒次第、というふうに行くしかない。と思う。
 最後だから自分のことを話したい。その方が生徒だって面白いだろう。でも、高校時代に映画に熱中した話や小・中学校の頃将棋クラブに通った話などは今一のような気がする。
 あれやこれや何を言おうかと考えたが、やはりあの話しかないかな。小学校の頃の話。たまに授業中に話すとわりあい受けがいい。
 などと考えているうちに、いつの間にか終点のI駅で電車が停止した。

 体育館には全校の生徒が集まっている。と言っても3年は卒業式を終えてもういないので、全校生徒の人数は1・2年だけの約400人。あまり大きな高校ではないが、それでもそれだけの人数が集まっているのを見るとちょっとした群衆である。自分を含めてこの3月いっぱいでこの学校を去る7人の先生が舞台の上の椅子に座わり、一人ずつ立ち上がりマイクを握って話をした。
 国語の先生が自分の心境を読む俳句を読んだり、定年退職になる先生が昨今の政治的状況を憂うる言葉を述べたり、若い先生がこの学校で一生懸命教えて大変だったけど楽しくて勉強になったという話をしたり、それぞれが率直で個人的かつ個性的な感想を述べ、いよいよ自分の番になった。
 やはりあの話かな。と思いながら立ち上がり、司会の副校長先生からマイクを受け取った。
「ぼくは、こういう時になると話したくなることが一つある。それは、小学校5年生の時のことだ…」
 ここで、一部の生徒たちは笑顔になった。彼らは、自分が授業をしているクラスの生徒たちだ。おそらく、どんな話が始まるかわかっていて、それにある意味期待しているのだろう。
「…当時自分のクラスには仲がいい男の子3人組がいて、自分もその一員だった。3人で時々変なことをやって先生に怒られたり、クラスのみんなから笑われていたりしていたんだ…」
 笑顔の生徒が増えてきた。
「…、その頃3人で時々気違い踊りというのをやっていて、誰が一番気違いじみているか踊り比べをしてみようということになった。それで、教室の中でやるのも少しは恥ずかしいという気持ちがあり、昼休みに3人で体育館の裏に行ったんだ。…」
 さらに笑顔の生徒が増えて来て、笑い始めている生徒もちらほら。
「…そこで、3人とも、『わー、気違い、気違い』なんて言いながらそれぞれ変な踊りを始めたんだ。…」
 そこで自分は、その場でスキップみたいな足の動きをしながら手を顔の横でぶらぶらさせ、舌を出しながら目を見開いて顔を右に倒したり左に倒したりする変な踊りをしつつ、『気違い、気違い』と叫んだ。
 生徒たちは、大爆笑。手を叩きながら笑っている生徒も少なからずいる。さすがにこれだけの人数が笑い始めるとなかなか壮観だ。
 その時、舞台下の端の方から、腰をかがめて大きな赤い字で何か書いてある紙を持った男の子が、真ん中の方に出てきた。それは生徒会役員の子で、紙には「巻いて下さい」と書いてあった。少し急ごう。笑いが収まってきたので、自分は話を続けた。
「どうしてそんなことを思い出すんだろうと不思議に思うんだけど、今でも時々小学校5年生の時に、友だちと3人で体育館の裏に行った時のことをなぜか思い出す。どうしてずいぶんと昔のそんな変なことを思い出すんだろうかと不思議に思うのだけど、どういうわけだか思いだす。そこで、自分の頭脳だか心だかの中に、変なことを変なタイミングで思い出させる変な自分がいることに気がつく。…」
 さっきまで大笑いしていた生徒たちが、わりと熱心に自分の話を聴いてくれている。なかなかいい傾向だ。
「…自分の心の中には、いろいろな変な人間が蠢いている。わけがわからないこと、自分勝手なこと、自己中心的なこと、まさに気違いみたいなこと、どうしようもないようなこと、荒唐無稽なこと、全然意味がない変なこと、等々いろいろとへんてこりんなことを考えている自分がいる。でも、それを、うっとうしいからと言って勝手に殺すことはできない。無視するべきでもない。殺そうとしたり無視したりすれば暴れ出してかえって困ったことになる。暴れ出さないように、よく話を聴いてあげるしかない。もしかしたら、意外と面白いことを言うかもしれない。心の中で蠢いている変な自分たちをコントロールしたり統率したりすることはできない。だからと言って、それが悪いことだとは言えない。意外とそれはそれで意外性があって面白いことなのかもしれない。…」
 話しながら、これは形の上では生徒に向かって言っているけど本当は自分に対して言っているんだな。きっとそうだ。と思えてくる。でも、意外とその方が生徒は話をよく聞いてくれるし受けがよくなる場合が多い。高校生によくわかる言い方を一生懸命工夫して話すよりも、単に声を出しながら自分頭の中整理しているだけ、という方が、生徒が熱心に聞いてくれたりする。目の前の人がどのようにして自分の頭の中を整理しているのか。という内面的なドキュメンタリーが、生徒にとって面白いのだろうか。
 最近、タモリとNHKを独立した有働アナが対談をしていて、タモリは「自分の面白いと思うことをテレビに出てもやる。それで視聴者が喜んでくれればうれしいし、すべってもいいじゃないかと思う」、有働アナは「自分は視聴者が何を望んでいるのかを考えてしゃべる」という趣旨のことをそれぞれ述べていたらしい。自分はもちろんタモリのような天才でもなんでもないが、タイプとしてはタモリの方なのだろうか。
「…人生が思い通りにならないのは当たり前のことかもしれないが、自分の心の中だって思い通りにはならない。自分の心の中には自分ではコントロールできない変な奴らがいろいろと蠢いている。でもそれはそれで味があって面白いと思った方がいい。人の心は、玉虫色の光を放つ得体のしれない不思議で不気味な底なし沼だ。何が住んでいるのか、何が出てくるのか自分でもわからない。だけど、水を汲みだして中を全部見ようとしたら沼が死んでしまう。わからないものはわからないとあきらめて生きていくしかない。でもそれはそれで意外性があって面白い」
 ここでマイクを置いた。
 生徒たちは自分の気違い踊りを見てよく笑ってくれたが、意外とその後の話も、よく聴いてくれた。
 後で、他の教員3人くらいに「筒美先生の話は『面白くてためになる』」みたいなことを言われて嬉しかった。
 そう言えば、この学校では将棋の話をしたことがなく、自分が昔奨励会にいたとかアマチュア名人戦で全国3位になったなんていうことを知っている人は一人もいない。
 ということは、この学校に来て、将棋盤の前以外にも自分の居場所が見つかったのだろうか。今日の自分の話をよく聴いてくれた生徒の様子を思い出してみるとどうもそんな気もする。生徒たちと共に過ごす場所が自分の居場所なのだろうか。
 もう奨励会を辞めて40年以上になるので、もういいかげんどこかに居場所が見つからなければ困るのだが、それがやっと見つかったのかもしれない。長かった「将棋盤のない場所に居場所を求めてさまよう旅」が終わったのだろうか。だとすれば、今後の人生はどうなるのか。また別の旅が始まるのか。今後の人生は旅ではなくなり、旅人ではなく定住者になるのか。それは時間が経ってみないとわからないが、一区切りついたような気はする。
 この学校は任期満了なので、次の学校に行かなければいけない。
 次の学校も自分の居場所になってくれるだろうか。
 そんなことを想っていたら、どこかからか父の「ふーぬぼれんな、ふーぬぼれんな」という声が聞こえてきた。ような気がした。そして、母の「私たちはね、叔母さんに養ってもらっているんじゃないからね」、父の「ロケットふわふわごみふわふわ、デンデン意味ヌアーイじゃないか」等々のセリフも頭に浮かんだ。 
 でも、もう大丈夫だ。そんな声が頭の中で聞こえてきても平気だ。そういった前は「嫌だなあ」と思っていたセリフを思い出しても別に嫌な気分になったりしない。今ではもう、怒りも恐怖も悔しさも哀しみもこみ上げてこない。そう言えば、以前そんなことを言う人がいたなあ、懐かしいな、と思うだけだ。主観的な妄想や情念が枯れて来たのだろうか。月日が経つというのはこういうことなのだろうか。年をとるとこうなるのだろうか。生きやすくなったとも言えるが、寂しいことでもある。「将棋くん」や「元奨くん」はいなくなったのか。それとも、自分の心の片隅のどこか目立たない場所にひっそりと隠れているのだろうか。声が聞こえないと妙に気になる。
 離任式が終わり、生徒及び教職員が体育館から引き揚げていく。
 顔見知りの生徒たちが通りかかり、「先生、最後にもう一度気違い踊りをやって下さい」と言うので、少しだけ気違い踊りの変なポーズをとったところ、大喜びで笑い出した。 
 「そんなに面白いのかな。面白い生徒たちだな」と言うとそばにいた若い女の先生が「変ですよ、変。あの子たちは本当に変」と楽しそうに言う。
 確かにそうかもしれないが、そうすると生徒たちに笑われている自分が一番変なのかもしれない。そう思いつつにやにやとにやけながら、体育館を後にした。

※ 次の話→心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その59

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