心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その34

 元奨励会員の筒美が、将棋指しになれなかった自分の人生を振り返り思い出すことを書いています。

※ 関連動画:小池重明さんと天狗クラブの思い出
※ 最初から読みたい方は、心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだすから読むことをおすすめします。 
※ ひとつ前の話→心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その33

 成田君
 奨励会員の成田君も、その鈴木英春亭の研究会に来ていた。プロ棋士の高橋道雄さんが来ていて、仲がいいので誘われてくるようになったのかもしれない。
 将棋の対局が終わり、みんなでテレビを見ていた時、「『暴れん坊将軍』を観ようよ。『暴れん坊将軍』は面白いよ」と言っていたのがなぜか印象に残っている。性格がよくて楽しい若者だった。
 成田君は、自分が高校2年の頃新宿将棋センターで1局だけ指したことがあった。鈴木英春の研究会で出会ったのはそれからかなり経った約7年後だったが、どうもその頃からあまり上達していないイメージだった。
 『将棋の子』という作家の大崎善生氏が書いたノンフィクションに成田君のことが出ていて、「中終盤は悪力があるが序盤が荒っぽく、それを本人が治そうとしない」という趣旨の内容が書いてあったが、その印象は自分も同じだった。
 その研究会には、序盤がうまい人が二人いた。
 一人は主催者の鈴木英春さんで、自分なりのアイディアに基づき新戦法を編み出すのが好きで、アマチュアなのに将棋の序盤作戦の著作を出した。
 もう一人は、その頃タイトルをとったりして活躍していたプロ棋士の高橋道雄さんで、矢倉などの当時よく指されていた流行の将棋をよく研究し、基本図的な局面に関して自分なりの結論を考えて対局に臨む、という感じだった。
 タイプは違うのだが、両者とも奨励会員にとっては非常に参考になる将棋に対する見方・研究方法だと思う。
 だが成田君は、せっかく研究会に来てそういう人たちに出会い実際に対局しているのに、それを模倣したり自分の勉強方法の参考にしたりしている様子はなかった。
 役に立ちそうなことはできるだけたくさんとり入れて一刻も早く4段に上がらないといけない状況なのに何をやっているんだろうか。もったいないなあ。と自分は歯がゆく感じていた。
 自分が親の反対で奨励会を続けられなかった人なので、そういうことを思ったのだろう、という気もしたが、『将棋の子』にも同じようなことが書いてあった。

 学生名人戦とアマチュア名人戦の地区代表になる
 大学3年の時、学生名人戦の関東予選で、それまではベスト8くらいのことが多かったがその時だけは優勝でき、全国大会に出られることになった。
 全国大会でも勝ち進んだが、優勝はできず準決勝で新井田基信さんに敗れベスト4。その大会では新井田さんが優勝して学生名人になった。
 新井田さんは北海道出身の早稲田大学の学生で、早稲田大学を卒業後北海道にもどり、自分で学習塾を経営しながら北海道将棋連盟事務局長として地元の将棋界に貢献していたが、48歳で亡くなられてしまった。ご冥福をお祈りしたい。
 大学4年になるといよいよ就職活動をしなければいけない時期になったのだが、全然就職する気になれず将棋ばかりやっていた。
 大学に入る時に浪人したにもかかわらず、1年留年しようと思っていて、自分のこころの中では「将棋くん」や「元奨くん」が元気に活躍していた。
 その頃は、小池さんなどアマプロ戦でプロに勝つアマチュアが出て来て、自分もアマチュアの大会で活躍してアマプロ戦に出場し、プロに勝って実力が認められプロ棋士になれないものかという考えに取りつかれ、時間のある時は将棋の研究ばかりしている困った大学4年生だった。
 勉強方法は、プロ棋士の棋譜を並べる、序盤の研究をする、詰将棋を解く、前述の鈴木英春さんの研究会などで指す、等だった。
 プロの棋譜を並べる時は、次の一手を隠して「自分だったらこう指す」という手を考えながら、並べていた。自分が考えた手とプロが指した手が違う時には、どうして違うのかできるだけ考えるようにした。考えてみると、「確かにプロがその手を選んだ理由はある」ということがわかり勉強になることもあった。
 序盤の研究にもかなり力を入れていた。
 自分がよく指す戦法は、将棋雑誌で解説などが出ているとそこだけ切り取ってルーズリーフに貼り、自分の考えを書き込んだりした。特に、対振り飛車の左美濃戦法をよく研究していて、この戦型に関してはわりあい序盤で有利になるようになった。
 詰将棋や研究会などもそれなりにやっていた。
 そうして将棋中心の生活を送っていたら、確かにその効果は表れた。
 アマチュア名人戦の東京大会で優勝し、全国大会に進むことができた。
 全国大会でも勝ち進んだが、田尻隆司さんに負けてこれまたベスト4だった。
 その大会は田尻さんが優勝し、アマ名人になった。
田尻さんは、将棋ばかり指していたせいで2年留年しその当時は大学生だったが、その後大学を卒業して将棋部が強いリコーに入社した。
 この頃の学生棋界は、他のことはよくわからないが将棋に関しては才能豊かな人がそろっていて、小中学校の頃に奨励会に入りちゃんと道を踏み外さずに努力していたら一流棋士になっただろうと思われる人が多かった。
 田尻さんは、社会人になってからも将棋をやめず職団戦などで活躍して、社会人になってからもう一度アマ名人になった。

※ 次の話→心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その35

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