伊吹亜門×羽生飛鳥×戸田義長 交換日記「歴史本格ミステリ探訪」第6回:戸田義長(その2)
東京創元社出身の時代ミステリ作家3名による交換日記(リレーエッセイ)です。毎月1回、月末に更新されます。【編集部】
8月 戸田義長(その2)
7月に掲載された羽生飛鳥先生第2回の中で、羽生先生が「京都には2回しか行ったことがない」と述べられていました。それを読んだ時、私は思わずホッと胸を撫で下ろしました。
というのも、6月掲載の伊吹亜門先生第2回において、私が『虹の涯』を執筆する際に中山道を実際に歩いたか否かという主旨の質問を投げ掛けられていたからです。
「参ったなあ。全く行ったことがない、全部本を読んだだけの耳学問で書いたとは言いづらいな」と内心で冷や汗をかいていたのですが、羽生先生も専ら資料に依拠して執筆なさっていると知って、取材旅行には行かないタイプも珍しくはないのかもしれぬと安堵した次第です。
実は事情があって、中山道に限らず泊りがけの旅行を4半世紀以上もしておらず、自分が体験した旅の見聞を記すことが困難です。その代わりというわけでもありませんが、江戸時代の旅に関する興味深いエピソードをいくつか紹介いたします。
江戸幕府が整備した五街道のうち最も往来が盛んだった東海道、そしてその風景を生き生きと描き出した歌川広重『東海道五拾三次』を題材にして本稿を記したいと思います。
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江戸時代の旅は「暮六つ泊まり七つ立ち」が基本とされていました。民謡『お江戸日本橋』の一番でも、「お江戸日本橋 七つ立ち 初のぼり 行列そろえて あれわいさのさ こちゃ高輪 夜明て提灯消す こちゃえ こちゃえ」と歌われています。
江戸時代には不定時法が採用されていたため季節によって異なるのですが、「七つ」とは概ね午前4時頃のこと。つまり夜明けを待たず暗いうちに出発するのが原則で、日本橋から約6km離れた高輪大木戸に着く頃に夜が明けて提灯の火を消したのです。高輪大木戸は江戸の南の玄関口で、現在もわずかですが石垣が残されています。精巧な日本地図を作製したことで知られる伊能忠敬は、ここを全国測量の基点としました。
一日の旅を終えて宿入りするのが「暮六つ」、すなわち午後6時頃。江戸を出発した旅人の多くが最初の宿泊地とした宿場は、保土ヶ谷宿もしくは戸塚宿でした。保土ヶ谷宿は日本橋からは7里9丁(約32km)、戸塚宿は9里半(約41km)の距離にあります。
街道沿いの旅宿には、留女と呼ばれる女性が多数いました。自分が勤める宿に泊めさせようと、路上で旅人を無理矢理引き留めたのです。十返舎一九著『東海道中膝栗毛』の中で、弥次郎兵衛は次のように詠んでいます。
《おとまりは よい程谷と とめ女 戸塚前ては はなさざりけり》
旅費節約のため先を急ぐ旅人を戸塚宿に獲られまいと、一つ手前の保土ヶ谷宿ではこんな強引な客引きが行われていたというわけです。
〈画像1〉は『東海道五拾三次』に描かれた留女です。荷物を引っ張られたため首が締められて、旅人が悲鳴を上げています。場所は保土ヶ谷宿ではなく三河国の御油宿ですが、留女の奮闘ぶり(?)がどのようなものだったかおわかりいただけると思います。
それにしても、フルマラソンに近い距離を普通の町人が一日中歩き通したのだから驚かされます。しかも、それが連日のことなのです。
東海道の旅には、一般的に徒歩で13日から15日前後を要していました。江戸日本橋から京都三条大橋までの距離は約490km。14日で割ると、1日平均約35kmも歩く計算になります。現代人とは全く比較にならないほど、江戸時代の人々は健脚でした。
実はある作品を執筆する際、この江戸人の歩行スピードに関連して頭を悩ませた経験があります。この程度の距離なら江戸人はかなり短時間で歩けたはずだが、そのとおりに書くと「早過ぎるのではないか」との声が読者から寄せられるかもしれないと危惧したのです。アリバイ崩しというわけではなく、直接ストーリーを左右する箇所ではなかったので、結局は現代人の歩行スピードに合わせて話を進めたのですが……
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東海道には、大きな難所が二つありました。一つは箱根、そしてもう一つが大井川です。
箱根宿は東海道五十三次の中で最も高所にあり、その標高は約730m。前後の小田原宿・三島宿との距離も長く、険阻な山道の連続でした。
後に唱歌『箱根八里』で《箱根の山は天下の険》と歌われた峩々たる山並みを、広重は〈画像2〉のとおり活写しています(いささか誇張気味ではありますが)。
箱根のもう一つの特徴が、関所の存在でした。江戸幕府は「入鉄砲出女」を関所で厳しく取り締まったと、日本史の授業で教えられたことを御記憶の方も多いでしょう。関所破りは重罪であり、死罪(磔)の厳罰が課されると定められていました。
しかし、実態はいささか異なっていたようです。記録に残された箱根での関所破りは、わずか5件(6名)のみ。関所破りがあると役人の落ち度にされ、近隣村も山狩りの手伝いなど面倒な羽目になります。そのため関所破りをあえて黙認していたらしく、関所制度は相当に形骸化していました。
ちなみに箱根関所を題材にしたミステリには、岡本綺堂著『半七捕物帳』の中に「山祝いの夜」という短編があります。通行手形を持たない見知らぬ男から頼まれた武士が、男を臨時の家臣ということにして関所を通過させてやったのですが、男が人を殺してしまい……というストーリーです。
大井川が難所とされた理由は、大井川には橋が架けられていないだけではなく、渡船も許されていなかったことにありました。通行はすべて川越し人足による徒歩渡りに頼るしかなかったのです。
雨が降るとたちまち増水し、水位が増すごとに川越しの料金が跳ね上がりました。しかも規定の水位を超えると川止めとなり、水位が下がるまで川止めは何日間も続きました。川止めは年間に10回程度あり、最長で何と28日間という記録が残っています。
大井川に橋が架けられなかった理由は、これまで軍事的な理由、つまり江戸の防衛のためと言われてきましたが、現在この定説には異議が唱えられています。実のところ、主たる理由の一つは川越し人足の就職先の確保だったようです。
川越し人足は最盛期には1000人もいたと言われ、大井川両岸の島田宿と金谷宿にとっては非常に大きな産業でした。幕府もその権益を保護せざるを得なかったわけで、実際明治になって大井川に橋が架けられると川越し人足たちは直ちに職を失い、島田・金谷宿は閑古鳥が鳴くこととなりました。
現在発生しつつある、AIの発達やDX化の進展により労働者の雇用が失われてしまう事態と同様と言えるでしょうか。
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ところで、『東海道五拾三次』に描かれた風景を広重は直接自分の目で見たわけではなかった、広重は実際には東海道を旅したことなどなかったのだ、という説があるのを御存じでしょうか。
広重は本名を安藤重右衛門と言い、定火消同心の家柄の武士でした。従来は、広重は幕府の「八朔御馬進献」という行事に加わって京都まで旅し、その時の見聞をもとに『東海道五拾三次』を描いたとされてきました。しかし、その定説に疑問の声が上がっているのです。
その根拠の一つが、〈画像3〉に描かれている京都の三条大橋。広重は橋脚を木製として描いています。しかし、広重が生きた時代から200年以上も前の1590年に、豊臣政権五奉行の一人・増田長盛によって三条大橋の橋脚は石製に作り変えられていました。広重が実物を見てスケッチしたのであればこんなミスを犯すはずがないというわけです。
この説によれば、広重は『東海道名所図会』や『伊勢参宮名所図会』などの先行作品の絵を写して『東海道五拾三次』を描いた、と推定されています。
はたして真相がどうだったのかを判断するだけの知識も能力も、私は持ち合わせていません。けれども、もしも広重という偉大な先人が東海道を旅することなく『東海道五拾三次』を完成させたのであれば、私が中山道を旅することなく『虹の涯』を書き上げたのも許されるはず――と強引に纏めて、本稿を終えたいと思います。
【連載バックナンバー】
3月 伊吹亜門(その1)
4月 羽生飛鳥(その1)
5月 戸田義長(その1)
6月 伊吹亜門(その2)
7月 羽生飛鳥(その2)
■伊吹亜門(いぶき・あもん)
1991年愛知県生まれ。同志社大学卒。2015年「監獄舎の殺人」で第12回ミステリーズ!新人賞を受賞、18年に同作を連作化した『刀と傘』でデビュー。翌年、同書で第19回本格ミステリ大賞を受賞。他の著書に『雨と短銃』『幻月と探偵』『京都陰陽寮謎解き滅妖帖』『焔と雪 京都探偵物語』『帝国妖人伝』がある。
■戸田義長(とだ・よしなが)
1963年東京都生まれ。早稲田大学卒。2017年、第27回鮎川哲也賞に投じた『恋牡丹』が最終候補作となる。同回は、今村昌弘『屍人荘の殺人』が受賞作、一本木透『だから殺せなかった』が優秀賞となり、『恋牡丹』は第三席であった。『恋牡丹』を大幅に改稿し、2018年デビュー。同じ同心親子を描いたシリーズ第2弾『雪旅籠』も好評を博す。その他の著作に『虹の涯』がある。江戸文化歴史検定1級。
■羽生飛鳥(はにゅう・あすか)
1982年神奈川県生まれ。上智大学卒。2018年「屍実盛」で第15回ミステリーズ!新人賞を受賞。2021年同作を収録した『蝶として死す 平家物語推理抄』でデビュー。同年、同作は第4回細谷正充賞を受賞した。他の著作に『揺籃の都 平家物語推理抄』『『吾妻鏡』にみる ここがヘンだよ!鎌倉武士』『歌人探偵定家 百人一首推理抄』がある。また、児童文学作家としても活躍している(齊藤飛鳥名義)。