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小山正「SF不思議図書館」第8回:知らない作家を探したり読んだり~忘れられたSF作家ジョン・グローグの世界 その2 名作か? 怪作か?~



1 第1長編を古本屋で発見!

 前回に引き続き、英国のSF作家ジョン・グローグ(1896-1981)を取り上げる。
 これまでの概要を簡単にまとめると――。

①グローグは欧米で、家具・建築・工業デザイン等における歴史研究の第一人者として知られる。その一方で、一九三〇年代を中心に風刺の効いたSFを書いた。だが、彼がSF作家だったことは、ほぼ忘れられている。
②思索に富む彼のSFは、マニアや研究家の間で評価が高い。
③しかし、そのすべてが絶版かつ稀覯本。今では手に入りにくい。

 入手困難だと余計に読みたくなるのが、天邪鬼なSFファンの性だ。かくして私は、グローグのSFを求めて、欧米のリアル古本屋やインターネット古書店をコツコツと行脚/リサーチした。
 そしてある日、ついに見つけたのだ! 国際的なネット古書販売網ABE Booksに、第一長篇Tomorrow's Yesterdayに加えて、初期短篇二十作を一冊にした作品集First One and Twenty(処女作と二十の作品)(英国ジョージ・アレン&アンウィン刊・1946・未訳)が出品されたのである。売り主はアメリカの古本屋。ダストジャケット付き&送料込みで五十ドル強。早速購入したのはいうまでもない。

First One and Twenty表紙

 この本は、グローグが過去に発表した小説を再編集したオムニバス集で、第一長篇がまるまる収録されている。短篇の再録もうれしい。これでようやく彼の作品に触れることができる。
 Tomorrow's Yesterdayが英国で刊行された一九三二年は、迫り来る暗い時代を予感させる空気が立ちこめていた。
 一九二九年の世界恐慌は経済を狂わせ、しかも世界各地で内戦や紛争が勃発。英国の政治家ウィンストン・チャーチルは回想録で、略奪と破壊が始まった一九三一~三三年を、豊かな大地を食べ尽くす昆虫に喩えて、「いなごの年」と名付けた(『第二次世界大戦1』1948-1954・河出文庫)。しかし、一九三五年以降に猛威を振うファシズム・全体主義・軍国主義の台頭を予感する人は少なく、多くは破壊的な世界大戦が再び起こるとは思っていない。
 思想・信条も多様化していた。広がりつつある共産主義・社会主義に期待と反発が入り乱れ、また、混沌とした世情からの現実逃避を求めて、人々は娯楽に走った。かくして文化・芸術といった産業が爛熟してゆく。
 Tomorrow's Yesterdayが世に出た一九三二年に刊行された文学作品を挙げると、米国でウィリアム・フォークナーが長篇『八月の光』を、アースキン・コードウェルが長篇『タバコロード』を、英国ではグレアム・グリーンが長篇『スタンブール特急』を上梓している。
 大衆文学では、ミステリ・怪奇幻想・SFの各ジャンルが勢いづいてきた。ミステリでは、一九三一年に米国でダシール・ハメットがハードボイルド長篇『ガラスの鍵』を発表。一九三二年にはエラリー・クイーンが長篇『エジプト十字架の謎』『Xの悲劇』『Yの悲劇』を連続刊行。同じ年に英国のアガサ・クリスティは長篇『邪悪の家』と短篇集『ミス・マープルと13の謎』を出版した。
 米国では手軽に読めるパルプ・マガジンが人気で、世界初のSF雑誌〈アメージング・ストーリーズ〉の後を追って一九三〇年には〈アスタウンディング・ストーリーズ〉が創刊された。ロバート・E・ハワードが〈英雄コナン〉シリーズの第一作「不死鳥の剣」(1932)を書いたのもこの時期である。また、英国の作家ではオラフ・ステープルドンが長篇未来史『最後にして最初の人類』(1930)を刊行。さらにオルダス・ハックスリーが長篇『すばらしい新世界』(1932)を発表している。
 映像世界も賑やかだ。映画は音声トラックに技術革新が起き、サイレントからトーキーへの変化もあって制作数が増加、各国で一大産業と化した。特にドイツは一九二〇年代の表現主義の隆盛もあり、映画館が増え、繁栄を極めた。フリッツ・ラング監督のSF映画『メトロポリス』(1927)やミステリ映画『M』(1931)などの伝説的傑作が作られたのもこの頃である。
 アメリカではハワード・ホークス監督の映画『暗黒街の顔役』(1932)や、マルクス兄弟の映画『御冗談でショ』(1932)が公開されている。日本では小津安二郎が映画『生れてはみたけれど』(1932)を監督。活字も映像も実に豊穣なのだ。
 長篇Tomorrow's Yesterdayはそんな時代に執筆された。前述したFirst One and Twentyは、全二百三十ページの単行本。その内の百七頁をTomorrow's Yesterdayが占めている。長篇としては短めで全七章からなる。
 第一章タイトルは「トランペット」。開幕のファンファーレ、ということだろう。では早速この長篇を読み進めてみたい――。

2 長篇Tomorrow's Yesterdayの世界

 舞台は一九三〇年代らしきロンドン。ピカデリー広場にオープンする劇場〈ニュー・センチュリー・シアター(新世紀劇場)〉の宣伝方法をめぐって物語は始まる。
 劇場はステンレス合金とガラスに覆われた塔のような建築物。スタイリッシュで崇高な風情は、周囲のジョージア様式の建物とも不思議に馴染んでいた。
 劇場オーナーであるドイツの映画会社は、オープンにあたって新聞に告知を載せようと、大手広告代理店ハミルトン・トロット社に依頼する。同社の担当は三十歳のジュリアン・ブライス。従来の広告のあり方に不満を抱いていた彼は、お披露目となる新作映画の上映を、〈ス二ーク・プレビュー方式〉で行うと告知した。
〈スニーク・プレビュー〉とは、観客に前もって内容を知らせずに映画等を上映、その作品の良し悪しを客に先入観なく判断してもらうという、実在するマーケティング手法である。映画史の本によると、一九三〇年代に始まったというから、この本が刊行された一九三二年の時点では、斬新な試みであった。
 かくして新聞の宣伝欄に風変わりな広告が載った。映画タイトル・出演者情報・内容は一切無く、記される情報は上映時間・場所、そして「好奇心と知性があれば、ぜひ」というキャッチコピーのみ。案の定、告知は物議を醸す。宣伝会社内では、「それで人が映画を観に来るのか?」と喧々諤々となった。
 消費者を騙すような大仰な広告が蔓延る、当時の現状に対して、ブライスはこう言い放つ。
「物を売ることが重要だなんて、信じられない。真剣にクリエイティブな仕事をしている者は、『買え! 買え! 買え!』なんて叫ぶのは、くだらないことだと分かってるさ」
 広告業界に一石を投じたブライスは、斬新なデザインの〈ニュー・センチュリー・シアター〉を作った建築家ランバートと、昨今の風潮を語り合った。
 ランバートは言う。「最近の建築物は、将来のことを考えていない」。さらに彼はこう語った。
「この劇場を作れたのはドイツの映画人がチャンスをくれたからだ。二十世紀の建築業界は、ビジネスと投資が主体の経済主導のせいで、独創的な建築デザインを生もうという精神が蝕まれてしまった。こうした変化は、いずれ起きる革命や戦争にも繫がって、文明そのものを崩壊させてしまうだろう」
 ランバートの妻ネイラーもブライスを応援した。彼女は十九世紀後半のウィリアム・モリスの時代から続く、職人的なモノ造りの技法を好む人間だった。
 過度な商業主義が蔓延し、それが逆に閉塞状況を生む一九三〇年代にあって、モノ造りとは何か? という本質を常に考えるランバート夫妻。ブライスは彼らと交流することで、こう確信する。「創造的な仕事をする全員が、戦わなければならない」

☆     ☆     ☆

 ――とまあ、物語は広告&映画が舞台の業界物として始まる。
 主人公ブライスが抱く、商業主義にまみれた広告・映画・カルチャーへの不満は、当時も今もさほどズレた考えとは思えない。
 そもそも英国では、この小説が書かれた頃、バーナード・ショーやフェビアン協会などが、行き過ぎた資本主義に反駁し、そこから生まれた格差や貧困を無くすための穏健な「民主社会主義思想」が誕生した。
 すでに一九〇四〜〇五年に、ドイツの社会学者マックス・ウェーバーは論考『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で、倫理観を失いつつある資本主義の暴走をいち早く憂いている。一九三〇年代には、ウェーバーの警告も虚しく、商業主義の暴走がより顕著となっていた。
 でも、まだSF味は感じられない。続きを読んでみよう―――。

☆     ☆     ☆

 章が変わって、タイトルは「映画」。劇場は〈スニーク・プレビュー〉当日を迎える。風変わりな広告が呼び水となって、予約席は満員になった。やがて観客を前に、謎の映画の上映が始まる。
 作品名はTomorrow's Yesterday(明日の昨日)。
 続いて、「3-Dimensional Colour Projectionでの上映」という表記が出る(これは、一九五〇年前後に流行した飛び出す映画や、立体用のメガネをかけて観る「3D映画」ではなくて、どうやらドイツ映画の優れた技術を用いた「リアルに見えるほど現実に近い高精度の画質」という意味と思われる)。
 やがて登場人物一覧が映し出され、それがフェードアウトすると画面中に霧が漂い、ビッグベンの鐘や街と車の雑踏音が聞こえてくる。画面はとある部屋をクローズアップし、出演者のものらしき者のこんな声が聞こえてくる。
「これは意義ある実験である。私たちはどの時代にも行くことができる。しかも透明な存在で、誰にも見えず、声も聞こえない。私たちは不思議な存在なのです」
 声の主はひょろりと背の高い二体の生き物だった(身長はともに一メートル八十センチ以上)。髪は無く、頬は凹み、メタル風のガードルを付けている以外は裸。性別は不明だが、胸のない女性のような容姿で、手足を除いて筋肉質。耳が人間よりも尖っていて、胸には直径十五センチのディスクのような白い名札を着けている。そこには「8番」と「3番」という数字が記されていた(画像参照)。

Tomorrow's Yesterday本文より

3 時空を翔る猫人間たち

 実は彼らは――猫が人間のように進化したキャット・ヒューマノイド「8」と「3」なのだ。彼らの具体的な容姿は、初版本ダストジャケットにイラストが載っている(画像参照)。ただし、彼らが何者かはこの段階では明かされない。
 なお、彼ら猫人間には不思議な能力があるらしく、過去と未来と現在を自由に行き来することが出来て、人間社会を観察するのが役割らしい(――ということが、読み進めるにつれて分かってくる)。おお、ようやくSFっぽくなってきたぞ。

Tomorrow's Yesterday初版本表紙

 また、この長篇は、作中作である映画の上映シーンが始まった時から、通常の小説の書き方ではなく、登場人物の名前が明記され、その右にセリフが書かれるというシナリオ形式で進行する。最初は小説のスタイルで始まり、途中から映像作品に移行、最後は再び小説に戻る――という入れ子構造なのだ。
 さて、映画Tomorrow's Yesterdayで猫人間たちが最初に観察するのは、広告会社の会長とクライアントたちのミーティング場面である。作品と同じ頃のものと思われる会議室に関係者が集まり、女性用下着のキャンペーンを巡って予算の使い方や費用対効果、キャッチコピーの方向性等を議論していた。議事録を女性が速記している。
 しかし、「会議は踊る」状態の討議に、猫人間たちは当惑する。
 8は言う。「理解するのは困難だ。彼らの思考は何の意味もない」
 3が答える。「不思議な生き物ですね。そうか、彼らは性別の違いがあったのを忘れていたよ。あれが男性だな」
 8も言う「女性もいますね(速記係を指差して)」
 透明な存在の8と3が注視する中で、広告マンたちの会議は続いた。費用を下げる新しい宣伝法や、アメリカ流の手法がダメだ、といった話題が論じられる一方、広告会社の役員リチャードは、下着モデルとなる女性の宣材写真を、イヤらしい目線で眺めていた。
 猫人間8と3は、そうした空疎な議論や下品な振る舞いに疑問を抱く。
 さっそく彼らは時空を移動。リチャードの夜の私生活を覗いてみることにした。
 案の定――彼はモデルの女性を寝室に招き、ベッドをともにしていた。
 8と3は、リチャードには押さえることのできない性的な欲望と衝動があると考える。こうした性癖を持つ彼が、将来どのような老後を迎えるのかを確認すべく、8と3は再び時空をジャンプ。三十五年後の一九六〇年代にタイムトラベルする。
 そこでは初老のリチャードが、息子ハリーと険悪な雰囲気で話し合っていた。リチャードは広告業で成功し裕福ではあったが、ある問題を抱えていた。ハリーが何人もの女性と短期間の婚姻を繰り返し、男性本位の一夫多妻を許容する生き方を唱え、その生活資金の捻出をリチャードに迫っていたのだ。
 リチャードは息子の奔放な生活を嘆き、キリスト教徒として学んだ教えを振り返って言う。「私は謙虚に神の道に従った。不道徳ではなかった」
 それを見て8と3は嘆息する。「壊れている。腐った果実のようだ」
 8と3は、リチャードを含む人間たちの行動原理を探らねばならない、と考える。そして、リチャードが信じる宗教の根幹を探るべく、キリスト教が誕生したばかりの古代ローマ帝国時代にタイムトラベルする。映像は再び遠い過去へと遡ってゆく。
 時空を旅して8と3が着いたのは、紀元1世紀の中東だった。イスラエルでユダヤを治める領主ヘロデと、ローマから遣わされた総督ピラトが現れ、ローマ軍兵士や黒人奴隷、役人たち等とともに、生まれたばかりの宗教であるキリスト教について語り合っていた――。

☆     ☆     ☆

 とまあ、大雑把に紹介してきたが、小説はここまでで約半分。折り返し点を迎える。
 ただし、このローマ帝国時代のシーンは、ローマ人とユダヤ人の行動原理・思想、また、キリストの教えについて不勉強な私には、理解が容易ではなかった。キリスト処刑の事情を踏まえた、ヘロデとピラトを含むローマ帝国兵士たちとの形而上学的・神学的な会話に、グローグが込めた意図を英語の原文から正しく読解できたかどうかは、自信がない。
 とはいえ、そこで討議されている内容と、その情景を眺める8と3のリアクションを簡単にまとめると、次のような流れとなる。

1 処刑されたキリストは、人間が併せ持つ二つの側面を明らかにした。つまり、人は官能的な欲望と、管理・効率を目指す資質を併せ持っており、それが行動原理なのだと主張した。しかし、その指摘はかつてない人間観だった。
2 8と3は「間違っているかもしれないけれど」と言いつつ、このように考察する。「その二点を指摘したことで、人間は欲望と快楽が誘う『偽善の迷宮』に囚われることが明らかになった」
3 8と3はさらに問う。「キリストの指摘は、人々が愚行から目を覚まし、希望を抱くようになる、という点において、有効だったのだろうか? それとも、そうした指摘を無視し、人間は罪を犯し続け、悔い改めないままで、未来を歩んだのだろうか?」

☆     ☆     ☆

 このパートは難解だ。正解のない複雑な問答が次々に展開する。8と3はキリスト教的視点から、人間とはいかなる存在であるか? を探りつつ、我欲の呪縛から逃れられない愚かさを指摘する。8と3が見抜いた人間の行動原理――それは、当時グローグ自身が抱いていた現代人に対する危惧なのだろう。
 そして8と3は、人類のさらなる未来についても想いをはせる。

4 人類滅亡への道

 8と3は人間の行く末を見るために、再び時空を翔けて未来へと向かった。
 彼らが到着したのは一九九七年。しかしそこは、第一世界大戦を超える大規模な戦乱が起き始める暗黒時代だった――。
 とある小さな国と経済連盟との間で生じた商業上の衝突をきっかけに、火種が拡大。各国間で戦争が勃発する。ソビエト連邦と中国との間で交戦が始まり、ソ連は次にアメリカを標的とした。
 ソ連の長距離爆撃機が、カナダに事前通告なくバンクーバー上空を通過。カルフォルニア州を襲撃し、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ハリウッドが戦禍を被る。特にハリウッドはプロパガンダ制作の拠点だったために、徹底的に破壊された。
 米国大統領アイザック・シュタインは全国民にメッセージを発した。しかし時は遅く、直後に大統領は暗殺される。
 紛争は他国にも広がった。フランス、ポーランド、イタリアが参戦。中でもフランスは湾岸警備のための緊急措置として、アルジェリア経由で、セネガル軍に援助を願い、三個師団を配置してもらった。
 各国の戦局はさらに悪化する。ドイツがソ連に同調すれば、フランスはドイツに宣戦布告するだろうし、イギリスはドイツ諸国の支援を約束するだろう。
 英国政府は化学兵器の改造を命じ、フランスと断絶。国際連盟も機能しなくなった。
 その頃、社会学者ジェレミー・ラヴデールという人物が、このような警告を発した。「今後は死、飢餓、病気、蛮行、これらすべてが順番に起こるだろう。戦争は数時間で終わるだろうが、死ななかった者は飢えで苦しみ、廃墟の中でジャガイモ畑を耕す貧しい農民として一生を終えるだろう」
 8と3は、人類の非力と計画の無さに唖然とする。
 そして彼らは次に、国家が壊滅した四百年後のイギリスを訪れる。そこには戦禍を生き残った〈リッチモンド族〉が、中世さながらの貧しい生活を送っていた。そこは二十世紀の科学技術のノウハウが失われ、近代的な機器や道具がすべて忘れられた有史以前のような暗黒社会だった――。
 やがて〈リッチモンド族〉は、物を運ぶのに便利な車輪(wheel)の実用性を再発見する。彼らはその〈強さと力〉を讃えて、原始宗教の神の如く〈車輪〉を拝む奇妙な集団と化していた。しかも彼らの世界は性的に荒廃し、欲望と殺戮と暴力が支配していた。
 8と3は愕然として、こう言い放つ。
「元に戻るには千年か二千年はかかるだろう。いや、三百万年先の未来から来た私たちは、結果的に人類が退行することを知ってしまったのだ」

☆     ☆     ☆

 いやはや、これはもう小松左京のショート・ショート「ホクサイの世界」を彷彿とさせる、不気味なディストピアだ。
 このように極端に退行した文明社会が描かれた後、作中作の映画はクライマックスを迎える。8と3を含む猫人間たちと、人類の末路を予言したラヴデール教授が再登場し、意見交換を行うのだ。
 ラヴデールは気がつくと、猫人間たちが生きる三百万年後の地球に招かれていた。そこはドーム型の空間で、白いガラスの円形の台の上に8と3を含む十人の猫人間たちが待っていた。
 ラヴデールは猫人間から、「自分たちは宇宙に記録されたあなた(ラヴデール)の人生データにサイキック波を通じて接触し、対面を可能にさせたのだ」と聞かされる。そして猫人間たちはラヴデールに対して、なぜ自分たちが誕生したのかを語り始めた。
 愚かで利己的・好色だった人類が滅び、生き残った猫たちは脳を進化させた。猫は人間と性欲の質が違うこともあって、五十万年かけて性差が消滅。やがて生殖を科学的にコントロールすることで、人類が知ることのなかった「自由」を獲得した。
 宇宙にも乗り出して、植民地文化も広めた。やがて、原子波と思考波を精神的に操ることで時間と空間を思うままに行き来できるようになった。
 そんなある時、猫人間は遙か昔の地球に、人間という滅んだ種族がいたことを知る。彼らは、その種族の行動原理を探ることで、普遍的な教訓を学べるのではないかと考え、人類の謎を探る時間の旅に出たのだ。
 そんな猫人間の告白を聞き、ラヴデールは思う。「猫人類が知った人類滅亡の逸話を、はたして今現在の人類は教訓として受け入れるだろうか? それとも拒否するのだろうか? いや、むしろ人類は自分たちの未来に憤慨し、他の生物の知恵で再興されることを拒否するばかりか、見ないことにするのではなかろうか?」
 猫人間はラヴデールに無慈悲に告げる。
「教訓から学ぶことが最後のチャンスなのですよ」
 その直後、舞台が輝き始める。8と3が金色の炎のような光に包まれ、それが収まると映画の画面はゆっくりとフェイドアウト。映画は〈終わり〉となる――。

☆     ☆     ☆

 作中作の映画Tomorrow's Yesterdayの上映は終了し、劇場の幕が下りた。ただし、小説パートはまだ続き、映画の反響と人々のその後の動向が明らかになる。
〈スニーク・プレビュー〉はお開きとなり、観客は家路に着いた。しかし映画の内容をめぐって、広告に携わった人々と観客から一斉に不満や怒りが爆発した。
「猫の扱いがひどい」
「神を信じないナンセンスだ」
「八流のH・G・ウェルズである」
「この作品は内部告発だ」
「最初の広告会社のシーンは、現実とそっくりで不愉快」
〈スニーク・プレビュー〉を担当したブライスは、協力者のランバート夫人からこんな感想をもらった。
「大戦争が起こっても、人々は農村生活や工芸に歓びを見出すでしょう」
 一方、新聞の論調は辛辣を極めた。
「最初から最後までプロパガンダ。背後にロシアの資金があることは間違いない。内務省は対策を講じるべきだ」
「広告業という偉大で名誉ある職業について誤解が多い。価値のない有害な作品」
「キリスト教徒と女性を侮辱している。猫から進化した性別も魂もない生き物が人間に取って代わるというのは、麻薬接種者の狂った妄想だ。神が人間を、自分の姿に似せて作ったという美しい教えを敬う人々にとって、極めて不快だった」
 とにかく評判は惨憺たるものだった。
 が、しかし——。そうした罵詈雑言の一方で、世界からはきな臭いニュースが次々に飛び込んでくる。
 国際貿易や関税を巡る対立。経済的な利害にともなう世界各地の紛争や衝突。暗殺や殺人。やがて聞こえてきたのは、現実の「国家非常事態宣言」だった――。
 オフィスにいるブライスたちは、ついに現実が映画Tomorrow's Yesterdayと酷似した世界状況に陥ったことを知る――。

5 ステーブルフォードの評価

 最後は駆け足の紹介になってしまったが、小説はここで終わる。
 苦く救いのない幕切れだが、これはグローグの皮肉なのだろうと、私は思う。
 猫人間たちが登場する作中作の映画の風刺精神は、それを劇場で観ていた観客たち――彼らもまた風刺された登場人物たちだ――にとっても理解できるものではなかった、という二重のオチである。なんとも自虐的なサタイアなのだ。
 タイトルのTomorrow's Yesterdayは、単純に訳せば「明日の昨日」という意味で、ふと思い出すのが、SF‐TVドラマ〈宇宙大作戦(スタートレック)〉(1966-69)の第二十二話の原題 "Tomorrow Is Yesterday"(邦題「宇宙暦元年7・21」)である。エンタープライズ号とクルーが、一九六九年のアメリカにタイムスリップする時間SFで、未来の源を過去に求めるというエピソードだ。
 実は英語には、「明日の昨日、昨日の明日ってなーに?」"Tomorrow's yesterday. Yesterday's tomorrow. What is it?" という謎々があって、その答えは「今日」である。今日の源は過去にあり、また、今日は未来に通じる。〈宇宙大作戦〉の "Tomorrow Is Yesterday" も、グローグのTomorrow's Yesterdayも、どちらもシンプルながら、含蓄があるフレーズといえるだろう。
 私は英国の小説が大好きなので、グローグが描く会話や語り口に、この国らしいユーモアや生真面目さ、そしてリアルさを感じることができた。また、「英国人が好きなのは、セックス、バイオレンス、そしてティーである」と誰かが述べていたけれど、Tomorrow's Yesterdayにはそうした猥雑で下劣な面を、お茶を飲みながら揶揄するような意地の悪さも感じることができた。
 入れ子構造のアイデアも凝っている。作中作が映像作品である点も、私好みだ。しかも摩訶不思議な猫SF! かつ時間SFでもある点も大いに楽しめた。
 とはいえ、昨今のSF――二十一世紀の先端SFと比べると、古さは否めない。でも、扱われている世界事情や経済問題等は、二〇二四年の今とあまり変わらないと思うのだ。
 ふと思う。昨今はグローバリズムや新自由主義・加速主義が跋扈し、超資本主義の暴走と混迷はますます激しくなった。併せて地球的規模の自然破壊と貧困と格差が広がりつつある。Tomorrow's Yesterdayは九十年ほど前の書籍だが、そこで描かれる数々のエピソードは、「脱成長経済」までもが唱えられる近年にあって、それを予見した皮肉のように思えてならない。
 では、グローグ研究の偉大な先人ブライアン・ステーブルフォードの評価はどうだろうか? 彼は評論 "The Future Between the Wars: The Speculative Fiction"(一九八〇年刊行のSF研究誌Foundation第二十号掲載。一九九五年刊行のボルゴプレス社の単行本Algebraic Fantasies and Realistic Romancesに再録)の中で、グローグの思弁性に着目して、こんな主旨のことを述べている。

長篇Tomorrow's Yesterdayが、現代のスペキュレイティブ・フィクションの中で際立っている理由は、その語り口にある。風刺の質が高く、それがグローグ独自のものなのだ。H・G・ウェルズは鋭い風刺を描くのは得意ではなく、例えば彼の長篇Boon(1915・未訳)とCamford Visitation(1937・未訳)では、風刺性を最大限に駆使しているけれど、それでもやはり筆致が重かった。一方Tomorrow's Yesterdayには、優れた風刺劇にとって大切な、軽妙で上品な表現が工夫されている。こうした質の高い風刺の技は――特に深刻なテーマと関連するものでは――イギリスのスペキュレイティブ・フィクションにはあまり見られないものだった。(中略)Tomorrow's Yesterdayは革新的な作品として際立っており、一九五〇年代のアメリカのSF、特に雑誌〈ギャラクシー〉に発表されたような風刺やブラック・コメディーに似ている。また、深刻な問題をアイロニカルに扱うという点で思いつくのは、鋭く思弁的で現代的な作品を書いたアイルランドの風刺作家アイマル・オダフィーEimar O'Duffyの長篇The Spacious Adventures of the Man in the Street(大通りの男の大いなる冒険)(1928・未訳)くらいである。

 おお、大絶賛だなあ。ステーブルフォードの名著発掘の歓びが伝わってくる。
 ちなみに、グローグと比較されているウェルズは、一般的にはSF作家と知られているけれど、『タイム・マシン』『宇宙戦争』『透明人間』等の科学小説は、十九世紀末の英国階級社会や帝国主義の矛盾を告発する社会派要素も内包していた。また、彼のSFではない普通小説の長編『トーノバンゲイ』は、偽薬を巡る騒動を描くことで医学界を批判する辛辣な作品だった。文明批評家としても一世を風靡したウェルズだが、ステーブルフォードにしてみれば、ウェルズの筆致はグローグよりも風刺の描き方が重苦しかったのだろう。
 ステーブルフォードによると、世界大戦の描写はウェルズの長篇戦争小説『空中戦』The War in the Air(1908・邦訳は東京泰文堂他)の、また、壊滅後の街の描写はジャック・ロンドンの長篇『赤死病』The Scarlet Plague(1912・邦訳は白水社他)の影響のもとに書かれたものだという。また、グローグはオラフ・ステープルドンと親交があったそうで、「架空の世界について、刺激的な議論を交わした大切な友人だった」と語っているという。確かに『最後にして最初の人類』(1930)からの影響は計りしれないだろう。

The War in the Air表紙
『空中戦』表紙

 ウェルズやロンドンの小説、そして一九三〇~四〇年代の優れた思弁的なSF作品群――ステープルドンの長篇『最後にして最初の人類』『スターメイカー』(1937)やジョージ・オーウェルの『一九八四年』(1949)などの長大で重厚な作品群に比べると、Tomorrow's Yesterdayは小粒な印象は否めない。しかし、一九三〇年代の広告やメディアのやり口を皮肉ったり、謎の猫人間を登場させたり、時間SFとしても派手だし、戦争SFの要素やその後のディストピア描写まで盛り込んでいるのだから、それなりにアイデア満載の楽しいSFに仕上がっていると思う。
 ステーブルフォードによれば、Tomorrow's Yesterdayを刊行時に読んだステープルドンは、
「猫には人類の後継者を生み出す進化の可能性は、ないよ」
 と感想を伝えたという。まあ、ステープルドンにしてみたら、猫の進化などはどうでもよいのかもしれない。でも私としては、猫SFというだけで、大いに捨てがたい逸品なのですよ。
 でもやはり――と思う。第一長篇Tomorrow's Yesterdayだけで、グローグの小説世界を判断するのは無理がある。実は先日、私は第二長篇The New Pleasureをやっと手に入れることができた。なので、次回もグローグを語らせていただきたい。
 また、作品集First One and Twentyの後半に載っている短篇群についても簡単に触れてみたい。
 そして、グローグに関する大きな謎――『最新版SFガイドマップ 作家名鑑編 上《A~L》』のグローグの項目で書かれていたことだが――なぜ彼は第二次世界大戦後、SF作品を書かなくなったのか? という謎についても、分かるかぎりのことを記してみよう。
 というわけで、次回は「忘れられたSF作家グローグの世界」の最終回。日本では一度も活字化されたことがない詳しい著作リストも掲載するので、刮目して待たれよ。

(この項、その3へ続く) 


■小山正(おやま・ただし)
1963年、東京都新宿区生まれ。ミステリ研究家。慶應義塾大学推理小説同好会OB。著書に『ミステリ映画の大海の中で』(アルファベータ)。共著に『英国ミステリ道中ひざくりげ』(光文社)。編著に『越境する本格ミステリ』(扶桑社)、『バカミスの世界』(美術出版社)他。