【創立70周年記念企画】エッセイ「東京創元社、私の一冊」その5:「ずっと聞きたかった、その声」小林エリカ
東京創元社では創立70周年を記念して、全国の書店様で2024年4月と7月、そして11月の3回「創立70周年フェア」を開催します。そのうち7月のフェアでは『創立70周年記念小冊子』という文庫本サイズのブックレットを作成し、配布しました(2024年10月現在、小冊子の配布は終了しております)。
その中で「東京創元社、私の一冊」というテーマで小説家、編集者、声優、ライター、詩人、歌人等、各方面で活躍される総勢15名の皆様に小社で刊行している書籍を1冊お選びいただき、その本にまつわるエッセイを執筆いただきました。Web東京創元社マガジンでは、そのエッセイをおひとりずつご紹介させていただきます。
「ずっと聞きたかった、その声」
小林エリカ(こばやし・えりか/作家、マンガ家)
『マナートの娘たち』ディーマ・アルザヤット/小竹由美子訳(四六判仮フランス装)
この小説が、この世界に存在してくれていて、ありがとう。
そして、この小説を、いま、日本語で、本として、私が手にとって読むことができるという、この喜びよ。
『マナートの娘たち』を読みながら、私は何度もそう考えずにはいられなかった。
シリア、ダマスカスに生まれ、七歳でアメリカに移住し、カリフォルニア州サンノゼで育ったというアラブ系アメリカ人のディーマ・アルザヤット。
とにかく度肝を抜かれたのが、収録短編の「アリゲーター」。
かつてフロリダで実際に起きたシリア・レバノン系移民夫婦のリンチ殺害を基に、実際の新聞記事やYouTube動画などを引用し架空の物語と織り交ぜながら、その子ども、次の世代の子どもたちが辿り着く、現代のアメリカ社会とその闇へまで接続してみせるという、離れ業をやってのけている。私は現実を、社会を、こんな形で克明に浮き彫りにするというその挑戦的な手法と、そうして剥き出しになったものたちに、目を瞠り、慄いた。
表題作の「マナートの娘たち」をはじめ、彼女の作品は、女たちや、老人や子ども、弱い立場に置かれた者たちの、小さな声をすくいあげ、その声を、複雑なことを複雑なまま書き留めようとする、徹底した真摯さに貫かれている。私は、ずっとそんな声を聞きたかったし、だから私は小説が好きだ、という気持ちを何度も確認する。
このところ、戦争も続いているし、ニュースや社会をみまわすと、たとえば、アラブ人とは、移民とは、みたいな疑問も浮かぶだろうし、その答えを即刻知りたい!という気持ちを、私とてわからないでもない今日この頃。
しかしひとりひとりの人間は、その生は、少しも要約なんてできないしまとめられないというあたりまえを突きつけられながら、けれどそれでもこの小説を通して、そんなひとりの生の片鱗に時空を越えて触れることができるかもしれないと信じられる瞬間が、ここにはある。私の中の奥底に眠る既成概念は揺り起こされ打ち砕かれ、私は小さな声たちの力に、どこまでも圧倒される。
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■小林エリカ(こばやし・えりか)
作家、マンガ家。2014年『マダム・キュリーと朝食を』で第151回芥川龍之介賞・第27回三島由紀夫賞の候補となる。著書に『親愛なるキティーたち』『光の子ども』『彼女は鏡の中を覗きこむ』『トリニティ、トリニティ、トリニティ』などがある。最新刊は『女の子たち風船爆弾をつくる』。
本記事は東京創元社編集部編『東京創元社 創立70周年記念小冊子』に掲載されたエッセイ「東京創元社、私の一冊」の一部を転載したものです。
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