【論】ドストエフスキーによる量子論の多世界解釈
ドストエフスキーの『罪と罰』は文学史に燦然と輝く名著であるのは勿論だが、私がこの作品を読んで一番驚いたところは、量子論の『多世界解釈』や『量子の重ね合わせ』のような概念を作品の中で語っている場面だった。『罪と罰』自体が1866年の作品なので、量子論が誕生するより、40年近くも昔の話である。プランクの量子仮説が1900年であり、アインシュタインの光量子仮説が1905年である。つまり、ドストエフスキー自身は量子論という概念を持ち合わせていなかったことは確かだ。
思考に思考を重ね、それを極限まで繰り返すと・・・
ここで述べたいのは思考のずっと先には何があるか、という考察である。『罪と罰』で初めに犯人をバラすように先に答えを言ってしまうと、答えは真理。真理という得体のしれないモノとしか表現する術がない。思考を極めていくと行きついた先では真理が認知できる存在となって現れるのではないだろうか。この『罪と罰』という作品では青年ラスコーリニコフは実在の人間以上の実在性を得ているのではないだろうか。これは思考を極めた先では文学でさえも真理に肉薄するという事実を物語っている。現代人は科学病というか、科学原理主義とでも言えるくらいに科学における絶対的信頼を持っているようだが、そもそも、真理においては学問上の分類などないだろうし、もしかすると実体と非実体との差もない可能性もある。
驚くなかれ、これは『罪と罰』の中で亡霊が病人にだけ現れる理由を語る狂人スヴィドリガイロフのセリフだ。
「亡霊とは、いわば他の世界の小さな断片、他の世界の要素である。健康な人には、むろん、それが見える理由がない。なぜなら健康な人はこの世界の存在である。従って、この秩序の中でこの地上に根を張って生きている。
ところがちょっとでも病気になると、つまりこの世界に根を下ろしている秩序がちょっとでも破壊されると、ただちに他の世界の可能性という断片があらわれはじめる。そして、病気が重病化するにつれて、他の世界の侵食が大きくなり、完全に死ぬとそのまますぐに他の世界に移る」
まさにこれこそ量子論そのものではないでしょうか。最近話題になった漫画『アキラ』のオリンピックに関する現代世界との一致など事例は探せば多々出てくる。その件はまた今度考察します。我々はこの事象を偶然の一致としか、理解する手段を持たない。しかし、これが偶然の一致ではないとしたら・・・。真理に肉薄した作品、いや作者、いや登場人物はいったいどのような地点へ到達しているのか。その極限の思考、思考の果てにおいて実体と非実体の区別がどれほど意味を持つのか。架空の世界と我々の実世界にどのような境界線があるのか、ないのか。それを考えるとこれらの作品はさらに重要度を増すだろうし、芸術というものの考え方や価値や評価、存在意義も変わってくるだろう。
これは学問の次元ではないのだ。こうした考察を繰り返したとき、おそらく我々は思考そのものの意味を知ることになるのではないだろうか。きっとその日は近いだろう。
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