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グノーシス主義を考える(1)

〔第一部〕グノーシス主義とその時代

ユダヤの『旧約聖書』、あの神の正義の書のうちには、ギリシアやインドの文書に比肩すべきものがないほど大規模な人間・事物および言説が存在する。人間の在りし日の姿を示すこの巨怪な残片の前に立って、人々は驚愕と恐怖と畏敬を覚える。〔中略〕(新約聖書のうちには、多くの全く情深い、蒸し暑い貧民員と小心者との臭気が籠っている)。どう見ても一種のロココー趣味であるこの新約聖書を、旧約聖書とともに糊づけしてしまって、「聖書」とし、「典籍そのもの」としたこと、これは恐らく、ヨーロッパの文献界が良心に負うべき最大の破廉恥であり、「精神に背く罪」であろう。(『善悪の彼岸』フリードリッヒ・ニーチェ)/岩波文庫P84~85

善悪の彼岸

 2009年、春秋社から発刊された『グノーシス主義の思想 〈父〉というフィクション』(大田俊寛〔著〕)が2023年、同社「105周年記念復刊」という企画の一環として新装再出版された。これを機に、グノーシスについて再考してみることにした。

グノーシス主義研究の困難性

 『グノーシス主義の思想』(以下「前掲書①」という)は、以下に掲げる文献の読み込みを通じて、グノーシス主義とは何かを明らかにした書だ。大田が示した文献とは、▽発見されているグノーシス思想の原典、▽キリスト教教父によるグノーシス主義を異端として批判した文書、いわゆる教父文献、▽その他関連教典等――となる。教父文献について補足すれば、批判を介して、批判された対象の実態をとりだす手法だ。こう書いてしまうと、同書は文献解釈なのかと思うのだが、ことグノーシス主義の場合、そう簡単ではないと大田はいう。

 グノーシス文書の全般に言いうることだが、その文体はきわめて簡潔で密度の高いものであり、一文書ごとの情報量は大きい。(たとえば)ナグ・ハマディ文書全体の編纂者が誰であったのか、またその編纂意図がどのようなものであったかについては、諸説があるものの、定説となりうる見解には到達していない。また、各テキスト間の関係性も明らかになってはいないため、丁寧に研究してゆけば一生をかけても終わらないほどの内容が、優に含まれている。(「前掲書①」P10)

グノーシス主義の思想

 引用はナグ・ハマディ文書を解説した箇所のものだが、グノーシス主義研究の困難さを知るに十分な記述だと思われる。ようするに、グノーシス主義というのは、だれが、何を意図して創作、編纂したのか特定できない、というのである。

グノーシス主義文献

 前出の文献の具体名と概要を「前掲書①」に従い概観する。

1.『ナグ・ハマディ文書』
 『ヨハネのアポクリフォン』という重要なテキストが含まれている。エジプトのナイル川中流域のナグ・ハマディという町の近郊にて偶然発見される。大田は少なくとも同書においては編纂時期を特定する説明をしていない。ギリシャ語の原文から2世紀以後のエジプト語であるコブト語へと翻訳されたという。
2.『ヘルメス文書』
 紀元後1~4世紀にエジプトで書かれたと推定されるテキストを収集したギリシャ語の文書集。『ポイマンドレース』という名のテキストがグノーシス主義の思想を顕著に示すものと見なされている。
3.その他のコプト語写本
・「マリアによる福音書」
・「ヨハネのアポクリュフォン」
・「イエスの知恵」
・「ペトロ行伝」(ベルリン写本)
・「ピスティス・ソフィア」(ロンドン写本)
・「イエウの二書」
・「原典ユダの福音書」
4.教父文献
 教父文献の性格について大田は、《グノーシス主義の最盛期である3~4世紀は、キリスト教正統教義が最初の輪郭を整える時期でもあった。キリスト教正統教義は、グノーシス主義という「強力」な「異端」と対立・抗争を繰り返す過程において、自らの体系性を獲得していったと考えることもできるだろう(「前掲書①」P11)》と説明している。正統キリスト教側による異端グノーシスに対する批判として、同書では以下の3書が用いられている。
(イ)リヨンのエイレナイオス(AC.130頃~200頃)による『異端反駁』
 グノーシス主義の代表的宗派「ヴァレンティノス派」に属するプトレマイオスの教説を詳細に吟味・批判したもの。併せて、「ヴァレンティノス派」に属するその他の分派や、魔術師シモン(異端は宗派の源流と見なされる)、マルキオン派などの教説にも論じられ、その誤謬を駁すると同時に、正しいキリスト教信仰のあり方について論証が行われる。
(ロ)ローマのヒッポリュトス(170頃~235)による異端反駁
 前出のエイレナイオスの『異端反駁』に依拠していることが認められるものの、より多い33の異端的宗派が取り上げられている。『ナハシュ派の教説』や魔術師シモンの『大いなる開示』、『パルクの書』といった資料も収録されている。《異端的諸宗派の教説は、ギリシャ哲学や自然学からの剽窃、しかもその曲解や誤解から生じたものであるという論理の繰り返し(「前掲書①」P12》による反駁であるという。
(ハ)サラミスのエピファニオス〔注〕(315頃~403)による『薬籠』
 『薬籠』とは異端の毒を消し去るための「薬」が収められた箱のこと。収録された資料のうち、ヴァレンティノス派プトレマイオスの書簡『フローラの手紙』が有名かつ重要である。

〔注〕サラミスという地名はギリシャの島と、キプロス島にあった古代都市の2つがあり、そのどちらかを特定した記述は本書にはない。エピファニオスはパレスチナで生まれたとされる(『ブリタニカ大百科事典』)。

5.マニ教文献
 マニ教とはイラン人のマニ(216~277頃)によって創始された宗教である。ゾロアスター教に由来する二元論的世界観を基調に据えながら、西洋から東洋の各地に渡って伝播する過程で、キリスト教や仏教の教義をその内部に取り込んでいった。特に地中海世界で流通したマニ教の教説はグノーシス主義の影響を色濃く受けたことが想定される。

6.マンダ教文献
 現在もチグリス・ユーフラテス川流域に小規模の団体として存在している宗教であり、しばしば「生き残ったグノーシス教徒」と称される。なんらかの経緯でグノーシス主義の教説をその内部に取り込んだと考えられる。

グノーシス主義台頭の背景

 以上のグノーシス主義研究に関する文献を概観したとき、この思想が支持された時期と地域を筆者なりに想像してみた。
 グノーシス主義はキリスト教がローマ帝国により国教化された392年前後、地中海世界(北アフリカ、ギリシャ・ローマからエジプト・オリエント)に浸透していたこと、そして、今日、正統派キリスト教とされる教派と論争を繰り広げ一定の勢力を保持していたこと、しかしながら、指導者はどこのだれなのか、信者はどこにどれくらいいたのか、教団組織はあったのかなかったのか--といった実態については、「前掲書①」では触れられていない。
 なお、『グノーシス』(筒井賢治〔著〕講談社)によると、グノーシス(派)主義は、2世紀、現在のパレスチナの地に成立したキリスト教の一派だとされ、2世紀ごろはキリスト教が東西に波及し出した時代であり、この一派は多数派教会(のちのカトリック教会)とは異なる独特の解釈を確立していたという。このころのローマ帝国は、成立以来、最安定期の時代だった。グノーシスを直訳すれば「認識」となる。
 グノーシス主義の中心地は、現在のエジプトのアレクサンドリアだった。当地は、アレクサンダー大王が世界最大の帝国(マケドニア)を築いたとき文化の中心地として建都し、自らの名を付した。アレクサンドリアでは、ギリシア文化が継承されたといい、グノーシス主義とギリシャ哲学の結びつきを強調している。このこのとについては後述する。
 いずれにしても、キリスト教グノーシス主義と多数派キリスト教が教義論争を繰り返していた2~3世紀、ユダヤ人の神話・歴史を記した『旧約聖書』と、イエスの一代記を記した『新約聖書』の「聖典セット」が異常な求心力を発揮し、周辺諸民族の神話群を徐々に駆逐し始め、前者は後者に駆逐されたことはまちがいない。その間の事情について、青木健の『古代オリエントの宗教』に習いつつ、筆者なりに整理してみた。

 なぜこのような事態(2~3世紀、ユダヤ人の神話・歴史を記した『旧約聖書』と、イエスの一代記を記した『新約聖書』の「聖典セット」が異常な求心力を発揮し、周辺諸民族の神話群を徐々に駆逐し始めるよう)になったのかは、よくわからない。ユダヤ人の歴史(『旧約聖書』)とイエスの一代記(『新約聖書』)がセット化した時点で、ストーリーの接続には相当の無理があったようにも思える。そのなかでもイエスの一代記の方は、彼を救世主(キリスト)だと認めるかぎりにおいては、普遍性がありそうな気がしないでもない。しかし、その前編である『旧約聖書』に書かれたユダヤ人の歴史となると、エジプト人、ペルシア人、ギリシア人、ローマ人など、ユダヤ人に匹敵する長い歴史を有する人びとにとっては、所詮は他人事に過ぎない。けれども、どういうわけか彼らは自らの神話を忘却し、代わりにユダヤ人の神話と歴史をもって普遍的な人類史だと確信するにいたるのである。(『古代オリエントの宗教』青木健〔著〕講談社現代新書 P9/以下「前掲書②」という)

古代オリエントの宗教

 青木は、オリエントの宗教の変遷について、『新約聖書』+『旧約聖書』という「聖典セット」の発展系及びその部分的否定系と、そうでない伝統的宗教の併存期を経て、やがて、「聖典セット」の発展系の最終体系となるイスラームの成立と土着宗教のそれへの吸収をもって幕を閉じることになる、という結論を引き出している。以下、青木の解説を紹介する。

★「聖典セット」系の宗教
 古代オリエントの宗教を「聖典セット」との関係で整理すると、以下のとおりとなる。
・ユダヤ教→『旧約聖書』
・マンダ教→『マンダ教聖典』
・マルキオーン主義(2世紀)→『新約聖書(※ルカ書とパウロ書簡のみ)』
・原始キリスト教→『旧約聖書』『新約聖書』
・マーニー教→『新約聖書』『マーニー教7聖典』
 以下、イスラームによる『旧約聖書』『新約聖書』『クルアーン(コーラン)』、イスラーム・イスマーイール派(8世紀)による『旧約聖書』『新約聖書』『クルアーン』『イマーム言行録』に至って聖典の変遷が終わる。
 つぎにマルキオーン主義とマーニー教について見ることにする。

★マルキオーン主義
 「前掲書②」によると、2世紀のローマで成立したマルキオーン主義は、「聖書シリーズ」に何かを付け加えるというよりは、『旧約聖書』とイエス伝記のミスマッチを指摘し、前者を切り捨てて後者だけを採ったとされる。『新約聖書』こそがイエスの真意であり、正しいキリスト教であると論じた。これは鮮やかな着想だったようで、これを嚆矢として『新約聖書』の結集がはじまり、エジプトやシリアでは同様の発想に立ったグノーシス主義と呼ばれる諸派が乱立していく。
 さらにマルキオーン主義について、以下(Wikipedia)により)補足する。

 マルキオンは異端とされたために教会による焚書が行われ、著書は現存していない。しかしマルキオンの思想は彼を反駁した神学者たちの資料から逆に推測することが可能である。マルキオンに反駁した神学者としては、ユスティノス、エイレナイオス、テルトゥリアスなどが挙げられる。マルキオンの思想を知るために特に重要なのはテルトゥリアヌスの著作『マルキオン反駁』である。
 反駁者たちの文章から推測されるマルキオンの思想は次のようなものである。まず、イエスはユダヤ教の待ち望んだメシアではなく、まことの神によって派遣されたものである。ユダヤ教の期待するメシア像は政治的リーダーで異邦人を打ち破るという要素が組み込まれていたことがマルキオンには誤りと思えたのだ。また、神が人間のように苦しむはずがないとして、イエスの人間性を否定した。このようにイエスの人間性を単にそのように見えただけだとする考え方を仮現説(ドケティスム)という。
 同時に彼は旧約の神(世界を創造した神・律法神)は、怒りの神、嫉妬する神、不完全な神であり、旧約の神がつくった世界は苦しみにみちた世界であると考えた。一方、イエスの示した神は、旧約の神とは異なるまことの神、いつくしみの神であると唱えている。このことから、マルキオンはキリスト教徒にとって旧約聖書は必要ないと考え、自分たちのグループのために本当に必要な文書のみを選択しようとした。これがキリスト教の歴史における最初の正典編纂作業である。マルキオンは福音書の中でルカによる福音書のみを選択し、新約聖書の諸文書の中から特にパウロの手紙を重視している。マルキオン正典は以下のような文書を含んでいた。ちなみにどちらもオリジナルをそのまま採用したのではなく、マルキオンが手を加えて改変したものであった。このようなマルキオンによる正典の編集への反動として、2世紀以降キリスト教内でも『新約聖書』の正典編纂の動きが推し進められることになった。
 また、マルキオンにはグノーシス主義的な傾きが見られる。マルキオンの思想に見られるように物質の世界を悪とし、それとは別の霊的世界を想定する二元論は、グノーシス主義の特徴を示しており、マルキオン自身がグノーシス主義に含めて考えられることが多い。ただし、キリスト教グノーシス主義諸派の特徴として、創世記の独自な解釈や、啓示に導かれて様々な福音書等を創作する点が挙げられるが、マルキオンは逆であり正典を極端に限定して捉えている。また、認識(グノーシス)ではなく信仰を重視している。このため、グノーシス主義とは区別して考えるべきとする研究者もいる。

Wikipedia

★マンダ教
 また同じ頃に、『新約聖書』を前提とせずに、同じような傾向を示したのが、『旧約聖書』を全否定したヨルダンで成立したマンダ教である。すなわち、『旧約聖書』+『新約聖書』という定式において、『旧約聖書』の代わりに独自の『マンダ教聖典』を立てた。

★マーニー教
 2~3世紀のメソポタミアでは、地中海世界に伝道していた原始キリスト教教会とはまったく違ったグノーシス主義的なキリスト教理解が浸透していた。しかも、地中海世界での原始キリスト教教会がギリシア語によって伝道していたのに対し、内陸シリアより東方ではシリア語が共通語になっていたので、西方と東方における「聖書ストーリー」理解の溝はかなり広がっていた。その東方的キリスト教の土壌のなかから、グノーシス主義諸派さらに知的に洗練し、組織化した自称「真のキリスト教」が出現する。3世紀のマーニー・ハイイェーによるマーニー教(マニ教)である。
 「イエス・キリストの使徒」を名乗る彼は、『旧約聖書』を全否定する一方、『新約聖書』は高く評価し、「聖書ストーリー」としては異例の善悪2つの神を想定するにいたった。しかも、「聖書ストーリー」とは何の関係もないザラスシュトラ・スピターマと仏陀(ブッダ)を預言者として取り込み、さらに自分自身の「預言」を書き著して[...]『新約聖書』+『マーニー教七聖典』を「真のキリスト教」として提示したのである。
 以上のような状況を考慮するならば、4世紀前、グノーシス主義ばかりか、いくつかの異端が一時的にも台頭したことがわかる。その主因は、原始キリスト教が『旧約』と『新約』という異質な聖典をセット化したことに求められるかもしれない。しかし、4世紀になると、「聖書体系」の内部構造を変更するというグノーシス主義的な発想は途絶え、マルキオーン主義、マンダ教も、そして6世紀にはマーニー教も地中海世界では勢力を失っていったのである。

「父」の喪失と新たな「父」の探究

 大田俊寛は「前掲書①」のなかで、グノーシス主義以前の宗教からその解明を試みる。まずはフェステル・ド・クーランジュの『古代都市』から、古代人の始原の宗教のありようを示す。クーランジュによる始原宗教とは、ヨーロッパ人の祖先とされるインド・ヨーロッパ語族(印欧語族、アーリア人)の信仰をさす。アーリア人は中央アジアを原郷とする騎馬民族で、なんらかの理由でヨーロッパ・インドへと移動した部族と、イラン高原にとどまった部族にわかれたとされる。
 古代アーリア人の信仰は祖先崇拝からはじまり、祖先の霊魂を呼び出す媒介として竈(かまど)と聖火があり、それらによって、祖先の魂が墓から呼び出され、かつ、家の中の竈に内在し、祖霊は子孫に五穀豊穣、安寧などをもたらすと考えられた。祖先崇拝とはすなわち、古代宗教が家族宗教であることと同意である。そして家族の中心的な役割を果たしたのが「父」の存在だった。
 アーリア人の家族宗教を執り行う者すなわち司祭は父の役割とされた。家族はいうまでもなく、父・母・子どもで構成される。子供は母から産まれるのであるから、母親が家族の中心となって不思議はない。ところが、クーランジュが研究対象としたアーリア人においては母ではなく父が家族の主権者(男系)であり、最初に生まれた男児に家族宗教の主権が引き継がれる。その理由についてクーランジュは次のように説明する。

 注意しなければならないひとつの特長がある。それは家族宗教が男系にしかつたえられなかったことである。これは、うたがいもなく、男子だけが子孫を生産するという思想に関連していたにちがいない。[….]原始時代の信念では、生殖力は父だけに属すとおもわれていた。父だけが生命の神秘な原質を有し、生命の火花をつたえると信じていた。このふるい思想の結果として、一家の祭祀はつねに男系にだけつたえられ、女は父や夫の仲介によってこれにあずかるにすぎない。死後でさえ、女は祖先崇拝と神殿の儀式において、男子と同じ待遇をあたえられないことが規定されていた。この思想はさらにまた私法や家の構成にも種々の重要な結果をまねいた〔後略〕。(『古代都市』フェステル・ド・クーランジュ〔著〕白水社 P72/以下「前掲書③」という)

古代都市

 「父」が家族宗教の司祭となった理由はなんなのだろうか。常識的には、父=成人男性は体力にすぐれ、外敵から女子供を守ることができる、あるいは、獲物を狩る能力が高いためと解釈されるかもしれないが、そうではなく、あくまでも祭祀の中心すなわち宗教的権威が備わっていたからだという。

 古代家族の成員を結合したものは、血統や感情や体力よりもさらに強力な […] 竈と祖先との信仰である。そしてこの信仰は、全家族を現世生と他界とを通じて一体となるにいたらせた。古代の家族は自然の結合である以上に、宗教的な結合であった。(「前掲書③」P77)

古代都市

 産まれてきた子供は、もともと女性の胎内に宿り、やがて出産する。子供の親は母であることは疑いようがない。にもかかわらず、父のほうが母よりも親権において優先する。そのようなクーランジュの説明を大胆に解釈したのが著者(大田俊寛)である。大田は「前掲書①」において、次のように書いている。

 ・・・母親と子供の関係が誰の目にも明らかであるのに対して、父親と子供の関係は、実はきわめて不確かなものである。しかし […] 宗教の「発明」とは言わば、このような「父の不確かさ」を、融通の利く制度性へと巧みに転化させることであった、と考えらえることができるだろう。
 古代社会の宗教において、父と子の関係を成立させるのは、母子関係のような生物学的事実ではなく、むしろ「宣誓の言葉」という儀礼的行為であった。すなわち、生まれてきた赤子に対して、「これは私の息子(娘)である」と父親が宣言することにより、正式な父子関係が成立するとされたのである。(「前掲書①」P38)

グノーシス主義の思想

 さらに「父」とは何かについて次のように論を発展させる。

 父と子の関係は、「お前は私の息子(娘)である」という儀礼的宣誓、すなわち、パフォーマティブな言語行為によって創設される。これを言い換えれば、そのような言語行為が行われる以前、子供が子供でないのと同様に、父もまた父ではない。父はその子と同じように、言語によって創設されるのである。(「前掲書①」P41)

グノーシス主義の思想

 そして「父」が新しく生まれた子を家族の成員として承認するという権限をもつ者と見なされるのは、家族の「神聖な始祖」から「生命の火花」を継承していると考えられたことによる。前出の通り、竈に火が灯されるとともに始祖の魂は墓から呼び出され現世へと来臨する。「父(パーテル)」と呼ばれるのは、現実の父の権威ではなく、「神聖な始祖」という虚構の人格、虚構の存在者ということになる。現実の父親とは、聖火(竈)のもとで宗教儀礼を主宰する者、あくまでも「父(パーテル)」の代理人=表象にすぎない。
 さて、家族宗教として成立した古代宗教だが、時を重ねるに従い、家族から氏族・支族・部族へとより大きな共同体の形成に応じて変容していき、都市国家(ポリス)の宗教として成立する。それに応じて、家族宗教の信仰の対象であった祖先から、共同体のシンボルとなるような超越的な表象すなわち星辰、自然およびその現象(風、海、雷など)へと変容する。しかし、表面的な宗教的表象が変化してもその根幹は「家族宗教」の原理であった。
 古代地中海世界は都市国家の群立により最盛期を迎えることになるのだが、その繁栄は長く続かず、徐々に衰退と崩壊へと進んでいく。その原因となったのが、都市の成立と同時に生まれた庶民(民衆)である。クーランジュは民衆によるこの動きを「革命」と名づけている。
 クーランジュが想定した古代宗教は前出の通り、アーリア人のものである。彼は古代都市の宗教をアーリア人の子孫の地であるギリシア、ローマ、そしてインドの文献から推論している。
 グノーシス主義は初期キリスト教への批判とそれとの論争で深化された。キリスト教の聖典の一つである『旧約聖書』は言うまでもなく、ユダヤの民の歴史であり、アーリア人のものではない。ユダヤ教における聖書である旧約は、紀元前4世紀までに書かれたヘブライ語およびアラム語の文書群で、全24巻から成り立つ。 紀元前4世紀ごろには、この文書群が、「聖書」つまり統一された1つの書物として認識されるようになった。 現存する最古の写本は紀元前1世紀頃書かれたとされる死海写本に含まれている、とされる。 
 アーリア人が移動を開始したのは紀元前1500年ごろと推定されるが、かれらがユダヤの民と接触し、ユダヤの民の(旧約)聖書の編纂に影響を与えた証拠はない。だから、クーランジュが『古代都市』で想定した「父」と、旧約の「父」とは同一もしくは同質の「父」とは言いがたい。しかし、アーリア人の「父」が古代都市国家が衰退し、「父」が喪失したとき、グノーシス主義を含めた広義のキリスト教がそれまでの「父」の代替として、「新たな父」を探求する試みの対象の一つとして受け入れられた、とする大田俊寛の仮説には説得力がある。

 家族宗教における「父」というフィクションは、漸次的に拡大することによって、都市国家という大きな共同体を成立させた。しかし逆説的にも、その社会において生み出された「民衆」という新しい階級は、個人主義化の促進によって都市国家を弱体化させ、共同体における「父」の姿を喪失させてしまうことになったのである。
 これ以降の古代の歴史では、「父」の形象の喪失によって社会の不安が増大する一方で、「新たな父」を求めるさまざまな思想的探求が行われることになる。そしてこのような探求の試みが、思想史のみならず、文学史や政治史の基本的なモチーフを形成しており、グノーシス主義という現象の発生もまた、このような背景を考慮に入れることなしに理解することはできない。(「前掲書①」P46)

グノーシス主義の思想

 古代都市国家の衰退はローマ帝国の成立をもって決定的になる。そのとき、「父」の形象の喪失を乗り越えることができたのがキリスト教である。冒頭、筆者が青木健が提出した疑問を思い起こしてほしい。繰り返せば、〝なぜこのような事態(2~3世紀、ユダヤ人の神話・歴史を記した『旧約聖書』と、イエスの一代記を記した『新約聖書』の「聖典セット」が異常な求心力を発揮し、周辺諸民族の神話群を徐々に駆逐し始めるように)なったのかは、よくわからない”という問いだった。
 青木は「わからない」と言っているが、大田俊寛のこれまでの記述が、キリスト教が、エジプト人、ペルシア人、ギリシア人、ローマ人などの信仰を集めたことの、またさらにその周辺の蛮族と呼ばれた諸族へと広まったことの、答えになっているようにも思える。

『旧約聖書』における「父」

 『旧約聖書』における「父」すなわち神は、「創世記」第1章に登場する。

はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。[…]神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。 また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。

旧約聖書

 『旧約聖書』における「父」すなわち「神」はヒトをふくめたすべてをつくりあげた神すなわち創造神であり、ヒトは神の姿にあわせて創造されたと書かれている。古代世界はどのように「父」を探求したのだろうか。

多数派キリスト教徒と異教徒の論争

 ピーター・ブラウンになる名著『古代末期の世界 ローマ帝国はなぜ、キリスト教化したか?』は、キリスト教と異教が混在した2~4世紀におけるローマ帝国における宗教的状況を活写している。同書にはこうある。

 西暦170年頃からコンスタンチヌス帝がキリスト教徒になる312年までは、宗教をめぐってさまざまな論争が展開された時期であった。キリスト教徒と異教徒がはじめて論争を展開したのも、この頃のことである。168年頃に異教徒のケルススが『アレーテス・ロゴス(本当の信仰)』と題した反キリスト教文書を書き、それに対して248年に、アレキサンドリアのオリゲネスが反論を書いている。また、グノーシス派の哲学者は、キリスト教に「グノーシス(真の知識)」が存在するか否かを論じているし(170年頃にコブト語で書かれた文書が、上エジプトのナグ・ハマディで発見されている)、エジプトで「ヘルメス・トリスメギストス(偉大なヘルメス神)」が書いたとされている文書は、異教徒による宗教戦争の文書である。(『古代末期の世界 ローマ帝国はなぜ、キリスト教化したか?』ピーター・ブラウン〔著〕P42~43/刀水書房/以下「前掲書④」という)》

古代末期の世界

 しかしそのとき、多数派キリスト教とグノーシス派が論争の主軸を形成したわけではないようだ。ブラウンはこう補足している。

 当時のローマ帝国では、まだ伝統的な異教の考え方が支配的であった。彼らが住んでいた世界は、唯一の至高神によって支配されていると考えられていた。この至高神はすべてに超越した存在であって、至高神がどんな姿をしているかは誰にも判らないとされていた。至高神は、ローマ帝国の諸州を治める総督のような神々として地上に姿を現し、「この世」を支配していたのである。神々は伝統的なオリンポスの神々と同じ姿をしていたが、それは2世紀のローマ人が、まで伝統的なオリンポスの神々をよく知っていたからである。彫像、貨幣、壺など、あらゆるところでオリンポスの神々を見ることができた。(「前掲書④」P43)

古代末期の世界

 ブラウンによると、西暦170年以前、オリンポスの神々が表象する伝統的信仰がローマ帝国で勢力を維持できた主因は、帝国が安定していてローマ人は自分が住む都市の生き方が、そのまま世界中で通用するものと信じられたからだという。すべてが一つに纏まっていて、いかなる意味でも断絶は存在しなかったからだと。
 しかしながら西暦170年以降になると、「新しい風潮」が断絶を生み出すことになる。古代末期、この「新しい風潮」のもとで起きたのが「宗教革命」である。「宗教革命」が進行させたのはローマ人のなかに個人の内面世界を重視する考え方が生まれてきたことによる。

 個人の内面世界が、外部の世界と無関係に存在するようになっていた。それまで繋がっていた内と外の世界は、突然、切り離されたのである。個人を取り巻く外の世界が、個人にとってよそよそしいものになってしまった。伝統的に大切にされてきたものが、どうでもよいものに変わってしまったのである。
 哲学者プロチノスは、つぎのように書いている。「あるとき突然、気づいたことだが、なんの因果で私は精神だけの存在でなく、邪魔になる身体などをもっているのであろう」グノーシス派の哲学者にいわせれば、この世界で我々は無力であった。「どこに逃げていよいのか判らないし、誰かを追いかけようとしても体が動かない。また、追いかけようとしている相手が誰かも判らない。(「前掲書④」P44~45)

古代末期の世界

 こうした内面の迷いに直面してきたローマ人のなかにあって、キリスト教徒だけは、悪魔が支配する世界に放り出されるにしても、あくまでも「神の子」であったという。

 個人の内面世界が独自性を主張するには、同時に孤独な個人を支えてくれる神、「大文字で書かれた単数形の神」が必要になってきたのである。この「大文字で書かれた単数形の神」は、それまでの神々と違って人類全体を一纏めにして面倒をみるのではなく、個別に個人の内面だけ面倒をみてくれる神であった。(「前掲書④」P45)

古代末期の世界

 一方、伝統に忠実であった人々も少なくはなかった。たとえばアリスティデス(紀元2世紀のローマ帝国下に生きたギリシア人弁論家)が頼りにしていたのは、アスクレピウス神(ギリシャ神話に出てくる医学の神)であった。彼も神々を統べるゼウス神が存在することは知っていたが、ゼウス神はアリスティデスにとって縁遠い存在にすぎなかった。

 ところが、「新しい風潮」のもとで必要とされるようになった神は、そうではなかった。伝統的な神々を統べる形で漠然と存在していた至高神が、個人の守護神として直接、個人の目の前に登場してきたのである。たとえば、グノーシス派にとって善を司る神は、もととも目に見えない存在であったが、それが突然、信者の目のまえに姿を現してきたのである。至高神の周辺にあって至高神を隠していた神々が姿を消し、至高神が「大文字で書かれた単数形の神」として姿を現してきたのである。(「前掲書④」P45)

古代末期の世界

 西暦170年以降のローマ人の信仰は、①伝統的なオリンポスに代表される信仰、②キリスト教グノーシス派、③キリスト教多数派--の三派が分立し、至高神が統べる複数の神々を信じる①②か、「大文字の単数形の神」を信ずる③の二択となり、①②が姿を消すことになったと考えられる。

至高神と創造神

 前出の『グノーシス』(筒井賢治〔著〕)では、キリスト教グノーシス(派)主義のなかから、ウァレンティノス派、バシレイデース派、マルキオン派の3思想が紹介されている。グノーシス主義に限らず、そのころ、宇宙(世界)の始原は物語によって説明されることが普通だったといい、とりわけ、宗教においては、天地創造が物語によって説明されたという。天地創造に係る多数派キリスト教の場合、至高神=創造神が、自ら創った人類を罪から救うために、自らの子・イエス・キリストを遣わし、人類に福音を伝えたとされる。
 一方、マルキオン派を除くグノーシスの場合、至高神は、低劣な創造神が創った人類から、その中に取り残されている自分と同質の要素を救い出すために、自らの子・イエス・キリストを遣わして人類に福音を伝えたとされる。
 またマルキオン派の場合は、至高神は、自らと縁もゆかりもない低劣な創造神が造った、自らとは縁もゆかりもない人類を、純粋な愛のゆえに、低劣な創造神の支配下から救い出して自分のもとに受け入れようとし、そのために至高神は自らの子・イエス・キリストを遣わして人類に福音を伝えた、とした。
 マルキオンは他のグノーシス派とは異なるものの、至高神が創造神の上位にあるという構造について共通している。物質(自然を含む)及び肉体が下位に属するという哲学は、プラトンのヒューレー(質料)という概念と似ている。このことを見ても、グノーシスがギリシア哲学の流れを汲んでいることは明白だという。また、マルキオン派は、聖書の正典数を限定し、多数派教会と対立した。
 大雑把に言えば、キリスト教の教えをギリシア哲学ないしプラトン哲学の枠組みで理論的に体系化しようとしたのが、ウァレンティノス派、バシレイデース派となり、また文献伝承にメスを入れるまでして純粋な福音を再現しようとしたのがマルキオン派ということになる。なお、このことについては後述する。
 なお筒井によるグノーシス主義は以下の言説で示される。

  元来、この言葉(=グノーシス)は「キリスト教グノーシス」と同義であり、初期のキリスト教会で広まっていた一部の思想を総称する、キリスト教史ないし「教会史」における専門用語であった。〔中略〕グノーシス(ΓΝΩΣΙ)とは、ただの単語として見るなら、「認識」や「知識」を意味する古代ギリシア語の普通名詞である。ならば、キリスト教グノーシスとは「知る」ということに特に重きをおくキリスト教流派であったのだろうと想像することができるだろう。事実、そう考えても間違いではない。ただし、いったい何を「知る」というのか、この点で一定の方向性があった。
 多くの場合、キリスト教グノーシスにおける「認識」の対象は、イエス・キリストが宣教した神(=至高神)とユダヤ教(旧約聖書)の神(=創造神)は違うということ、創造神の所産であるこの世界は唾棄すべき低質なものであること、人間もまた創造神の作品であるが、その中に、ごく一部だけ、至高神に由来する要素(=「本来的自己」)が含まれているということ、救済とは、その本来的自己がこの世界から解き放たれて至高神のもとに戻ることなのだということ、といった事柄である。このキリスト教グノーシス思想は、時代としては、紀元2世紀の半ばから後半に最盛期を迎えた。〔中略〕
 さて、次に、キリスト教とは直接関係しない領域に目をやると、同じ紀元2世紀の前後、ほかにも似たような思想運動があったことがわかる。これを「非キリスト教グノーシス」と呼ぶわけだが、とすれば、キリスト教/非キリスト教という区別を越えて、総括的に「グノーシス」もしくは「グノーシス主義」と呼ぶべき思潮が古代末期において実在していたのだという結論が出てくることになる。(『グノーシス』/講談社選書メチエ/P6~7/以下「前掲書⑤」という) 

グノーシス

 パレスチナで成立したキリスト教が勢力を増し、西方のローマに至るまでの間、東方(エジプト、シリア、ペルシア・・・)には複数のキリスト教教団が存在していた。たとえばエジプトにいまなお残存する「生誕派」は、現在でも、カトリックとは異なるキリスト教として活動を続けている。これら東方のキリスト教会派の最大にして最強の教派は、グノーシスと対立した多数派教会だった。多数派教会はローマに定着し、やがて欧州を制覇し、世界規模のカトリック教会へと成長し現在に至る。 
 2世紀、グノーシス派は、多数派教会から見れば異端であり、両者は互いに論争を繰り返し宗教として洗練度を増した。論争の結果、勝者は多数派教会(後のカトリック教会)であったことは歴史が証明している。だが、グノーシスとの対立を経なければカトリックの教義の確立はなかった、という見方もできる。 
 第二部では、グノーシス主義の教義について詳論してみたい。(続く)

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