グノーシス主義を考える(1)
〔第一部〕グノーシス主義とその時代
2009年、春秋社から発刊された『グノーシス主義の思想 〈父〉というフィクション』(大田俊寛〔著〕)が2023年、同社「105周年記念復刊」という企画の一環として新装再出版された。これを機に、グノーシスについて再考してみることにした。
グノーシス主義研究の困難性
『グノーシス主義の思想』(以下「前掲書①」という)は、以下に掲げる文献の読み込みを通じて、グノーシス主義とは何かを明らかにした書だ。大田が示した文献とは、▽発見されているグノーシス思想の原典、▽キリスト教教父によるグノーシス主義を異端として批判した文書、いわゆる教父文献、▽その他関連教典等――となる。教父文献について補足すれば、批判を介して、批判された対象の実態をとりだす手法だ。こう書いてしまうと、同書は文献解釈なのかと思うのだが、ことグノーシス主義の場合、そう簡単ではないと大田はいう。
引用はナグ・ハマディ文書を解説した箇所のものだが、グノーシス主義研究の困難さを知るに十分な記述だと思われる。ようするに、グノーシス主義というのは、だれが、何を意図して創作、編纂したのか特定できない、というのである。
グノーシス主義文献
前出の文献の具体名と概要を「前掲書①」に従い概観する。
1.『ナグ・ハマディ文書』
『ヨハネのアポクリフォン』という重要なテキストが含まれている。エジプトのナイル川中流域のナグ・ハマディという町の近郊にて偶然発見される。大田は少なくとも同書においては編纂時期を特定する説明をしていない。ギリシャ語の原文から2世紀以後のエジプト語であるコブト語へと翻訳されたという。
2.『ヘルメス文書』
紀元後1~4世紀にエジプトで書かれたと推定されるテキストを収集したギリシャ語の文書集。『ポイマンドレース』という名のテキストがグノーシス主義の思想を顕著に示すものと見なされている。
3.その他のコプト語写本
・「マリアによる福音書」
・「ヨハネのアポクリュフォン」
・「イエスの知恵」
・「ペトロ行伝」(ベルリン写本)
・「ピスティス・ソフィア」(ロンドン写本)
・「イエウの二書」
・「原典ユダの福音書」
4.教父文献
教父文献の性格について大田は、《グノーシス主義の最盛期である3~4世紀は、キリスト教正統教義が最初の輪郭を整える時期でもあった。キリスト教正統教義は、グノーシス主義という「強力」な「異端」と対立・抗争を繰り返す過程において、自らの体系性を獲得していったと考えることもできるだろう(「前掲書①」P11)》と説明している。正統キリスト教側による異端グノーシスに対する批判として、同書では以下の3書が用いられている。
(イ)リヨンのエイレナイオス(AC.130頃~200頃)による『異端反駁』
グノーシス主義の代表的宗派「ヴァレンティノス派」に属するプトレマイオスの教説を詳細に吟味・批判したもの。併せて、「ヴァレンティノス派」に属するその他の分派や、魔術師シモン(異端は宗派の源流と見なされる)、マルキオン派などの教説にも論じられ、その誤謬を駁すると同時に、正しいキリスト教信仰のあり方について論証が行われる。
(ロ)ローマのヒッポリュトス(170頃~235)による異端反駁
前出のエイレナイオスの『異端反駁』に依拠していることが認められるものの、より多い33の異端的宗派が取り上げられている。『ナハシュ派の教説』や魔術師シモンの『大いなる開示』、『パルクの書』といった資料も収録されている。《異端的諸宗派の教説は、ギリシャ哲学や自然学からの剽窃、しかもその曲解や誤解から生じたものであるという論理の繰り返し(「前掲書①」P12》による反駁であるという。
(ハ)サラミスのエピファニオス〔注〕(315頃~403)による『薬籠』
『薬籠』とは異端の毒を消し去るための「薬」が収められた箱のこと。収録された資料のうち、ヴァレンティノス派プトレマイオスの書簡『フローラの手紙』が有名かつ重要である。
5.マニ教文献
マニ教とはイラン人のマニ(216~277頃)によって創始された宗教である。ゾロアスター教に由来する二元論的世界観を基調に据えながら、西洋から東洋の各地に渡って伝播する過程で、キリスト教や仏教の教義をその内部に取り込んでいった。特に地中海世界で流通したマニ教の教説はグノーシス主義の影響を色濃く受けたことが想定される。
6.マンダ教文献
現在もチグリス・ユーフラテス川流域に小規模の団体として存在している宗教であり、しばしば「生き残ったグノーシス教徒」と称される。なんらかの経緯でグノーシス主義の教説をその内部に取り込んだと考えられる。
グノーシス主義台頭の背景
以上のグノーシス主義研究に関する文献を概観したとき、この思想が支持された時期と地域を筆者なりに想像してみた。
グノーシス主義はキリスト教がローマ帝国により国教化された392年前後、地中海世界(北アフリカ、ギリシャ・ローマからエジプト・オリエント)に浸透していたこと、そして、今日、正統派キリスト教とされる教派と論争を繰り広げ一定の勢力を保持していたこと、しかしながら、指導者はどこのだれなのか、信者はどこにどれくらいいたのか、教団組織はあったのかなかったのか--といった実態については、「前掲書①」では触れられていない。
なお、『グノーシス』(筒井賢治〔著〕講談社)によると、グノーシス(派)主義は、2世紀、現在のパレスチナの地に成立したキリスト教の一派だとされ、2世紀ごろはキリスト教が東西に波及し出した時代であり、この一派は多数派教会(のちのカトリック教会)とは異なる独特の解釈を確立していたという。このころのローマ帝国は、成立以来、最安定期の時代だった。グノーシスを直訳すれば「認識」となる。
グノーシス主義の中心地は、現在のエジプトのアレクサンドリアだった。当地は、アレクサンダー大王が世界最大の帝国(マケドニア)を築いたとき文化の中心地として建都し、自らの名を付した。アレクサンドリアでは、ギリシア文化が継承されたといい、グノーシス主義とギリシャ哲学の結びつきを強調している。このこのとについては後述する。
いずれにしても、キリスト教グノーシス主義と多数派キリスト教が教義論争を繰り返していた2~3世紀、ユダヤ人の神話・歴史を記した『旧約聖書』と、イエスの一代記を記した『新約聖書』の「聖典セット」が異常な求心力を発揮し、周辺諸民族の神話群を徐々に駆逐し始め、前者は後者に駆逐されたことはまちがいない。その間の事情について、青木健の『古代オリエントの宗教』に習いつつ、筆者なりに整理してみた。
青木は、オリエントの宗教の変遷について、『新約聖書』+『旧約聖書』という「聖典セット」の発展系及びその部分的否定系と、そうでない伝統的宗教の併存期を経て、やがて、「聖典セット」の発展系の最終体系となるイスラームの成立と土着宗教のそれへの吸収をもって幕を閉じることになる、という結論を引き出している。以下、青木の解説を紹介する。
★「聖典セット」系の宗教
古代オリエントの宗教を「聖典セット」との関係で整理すると、以下のとおりとなる。
・ユダヤ教→『旧約聖書』
・マンダ教→『マンダ教聖典』
・マルキオーン主義(2世紀)→『新約聖書(※ルカ書とパウロ書簡のみ)』
・原始キリスト教→『旧約聖書』『新約聖書』
・マーニー教→『新約聖書』『マーニー教7聖典』
以下、イスラームによる『旧約聖書』『新約聖書』『クルアーン(コーラン)』、イスラーム・イスマーイール派(8世紀)による『旧約聖書』『新約聖書』『クルアーン』『イマーム言行録』に至って聖典の変遷が終わる。
つぎにマルキオーン主義とマーニー教について見ることにする。
★マルキオーン主義
「前掲書②」によると、2世紀のローマで成立したマルキオーン主義は、「聖書シリーズ」に何かを付け加えるというよりは、『旧約聖書』とイエス伝記のミスマッチを指摘し、前者を切り捨てて後者だけを採ったとされる。『新約聖書』こそがイエスの真意であり、正しいキリスト教であると論じた。これは鮮やかな着想だったようで、これを嚆矢として『新約聖書』の結集がはじまり、エジプトやシリアでは同様の発想に立ったグノーシス主義と呼ばれる諸派が乱立していく。
さらにマルキオーン主義について、以下(Wikipedia)により)補足する。
★マンダ教
また同じ頃に、『新約聖書』を前提とせずに、同じような傾向を示したのが、『旧約聖書』を全否定したヨルダンで成立したマンダ教である。すなわち、『旧約聖書』+『新約聖書』という定式において、『旧約聖書』の代わりに独自の『マンダ教聖典』を立てた。
★マーニー教
2~3世紀のメソポタミアでは、地中海世界に伝道していた原始キリスト教教会とはまったく違ったグノーシス主義的なキリスト教理解が浸透していた。しかも、地中海世界での原始キリスト教教会がギリシア語によって伝道していたのに対し、内陸シリアより東方ではシリア語が共通語になっていたので、西方と東方における「聖書ストーリー」理解の溝はかなり広がっていた。その東方的キリスト教の土壌のなかから、グノーシス主義諸派さらに知的に洗練し、組織化した自称「真のキリスト教」が出現する。3世紀のマーニー・ハイイェーによるマーニー教(マニ教)である。
「イエス・キリストの使徒」を名乗る彼は、『旧約聖書』を全否定する一方、『新約聖書』は高く評価し、「聖書ストーリー」としては異例の善悪2つの神を想定するにいたった。しかも、「聖書ストーリー」とは何の関係もないザラスシュトラ・スピターマと仏陀(ブッダ)を預言者として取り込み、さらに自分自身の「預言」を書き著して[...]『新約聖書』+『マーニー教七聖典』を「真のキリスト教」として提示したのである。
以上のような状況を考慮するならば、4世紀前、グノーシス主義ばかりか、いくつかの異端が一時的にも台頭したことがわかる。その主因は、原始キリスト教が『旧約』と『新約』という異質な聖典をセット化したことに求められるかもしれない。しかし、4世紀になると、「聖書体系」の内部構造を変更するというグノーシス主義的な発想は途絶え、マルキオーン主義、マンダ教も、そして6世紀にはマーニー教も地中海世界では勢力を失っていったのである。
「父」の喪失と新たな「父」の探究
大田俊寛は「前掲書①」のなかで、グノーシス主義以前の宗教からその解明を試みる。まずはフェステル・ド・クーランジュの『古代都市』から、古代人の始原の宗教のありようを示す。クーランジュによる始原宗教とは、ヨーロッパ人の祖先とされるインド・ヨーロッパ語族(印欧語族、アーリア人)の信仰をさす。アーリア人は中央アジアを原郷とする騎馬民族で、なんらかの理由でヨーロッパ・インドへと移動した部族と、イラン高原にとどまった部族にわかれたとされる。
古代アーリア人の信仰は祖先崇拝からはじまり、祖先の霊魂を呼び出す媒介として竈(かまど)と聖火があり、それらによって、祖先の魂が墓から呼び出され、かつ、家の中の竈に内在し、祖霊は子孫に五穀豊穣、安寧などをもたらすと考えられた。祖先崇拝とはすなわち、古代宗教が家族宗教であることと同意である。そして家族の中心的な役割を果たしたのが「父」の存在だった。
アーリア人の家族宗教を執り行う者すなわち司祭は父の役割とされた。家族はいうまでもなく、父・母・子どもで構成される。子供は母から産まれるのであるから、母親が家族の中心となって不思議はない。ところが、クーランジュが研究対象としたアーリア人においては母ではなく父が家族の主権者(男系)であり、最初に生まれた男児に家族宗教の主権が引き継がれる。その理由についてクーランジュは次のように説明する。
「父」が家族宗教の司祭となった理由はなんなのだろうか。常識的には、父=成人男性は体力にすぐれ、外敵から女子供を守ることができる、あるいは、獲物を狩る能力が高いためと解釈されるかもしれないが、そうではなく、あくまでも祭祀の中心すなわち宗教的権威が備わっていたからだという。
産まれてきた子供は、もともと女性の胎内に宿り、やがて出産する。子供の親は母であることは疑いようがない。にもかかわらず、父のほうが母よりも親権において優先する。そのようなクーランジュの説明を大胆に解釈したのが著者(大田俊寛)である。大田は「前掲書①」において、次のように書いている。
さらに「父」とは何かについて次のように論を発展させる。
そして「父」が新しく生まれた子を家族の成員として承認するという権限をもつ者と見なされるのは、家族の「神聖な始祖」から「生命の火花」を継承していると考えられたことによる。前出の通り、竈に火が灯されるとともに始祖の魂は墓から呼び出され現世へと来臨する。「父(パーテル)」と呼ばれるのは、現実の父の権威ではなく、「神聖な始祖」という虚構の人格、虚構の存在者ということになる。現実の父親とは、聖火(竈)のもとで宗教儀礼を主宰する者、あくまでも「父(パーテル)」の代理人=表象にすぎない。
さて、家族宗教として成立した古代宗教だが、時を重ねるに従い、家族から氏族・支族・部族へとより大きな共同体の形成に応じて変容していき、都市国家(ポリス)の宗教として成立する。それに応じて、家族宗教の信仰の対象であった祖先から、共同体のシンボルとなるような超越的な表象すなわち星辰、自然およびその現象(風、海、雷など)へと変容する。しかし、表面的な宗教的表象が変化してもその根幹は「家族宗教」の原理であった。
古代地中海世界は都市国家の群立により最盛期を迎えることになるのだが、その繁栄は長く続かず、徐々に衰退と崩壊へと進んでいく。その原因となったのが、都市の成立と同時に生まれた庶民(民衆)である。クーランジュは民衆によるこの動きを「革命」と名づけている。
クーランジュが想定した古代宗教は前出の通り、アーリア人のものである。彼は古代都市の宗教をアーリア人の子孫の地であるギリシア、ローマ、そしてインドの文献から推論している。
グノーシス主義は初期キリスト教への批判とそれとの論争で深化された。キリスト教の聖典の一つである『旧約聖書』は言うまでもなく、ユダヤの民の歴史であり、アーリア人のものではない。ユダヤ教における聖書である旧約は、紀元前4世紀までに書かれたヘブライ語およびアラム語の文書群で、全24巻から成り立つ。 紀元前4世紀ごろには、この文書群が、「聖書」つまり統一された1つの書物として認識されるようになった。 現存する最古の写本は紀元前1世紀頃書かれたとされる死海写本に含まれている、とされる。
アーリア人が移動を開始したのは紀元前1500年ごろと推定されるが、かれらがユダヤの民と接触し、ユダヤの民の(旧約)聖書の編纂に影響を与えた証拠はない。だから、クーランジュが『古代都市』で想定した「父」と、旧約の「父」とは同一もしくは同質の「父」とは言いがたい。しかし、アーリア人の「父」が古代都市国家が衰退し、「父」が喪失したとき、グノーシス主義を含めた広義のキリスト教がそれまでの「父」の代替として、「新たな父」を探求する試みの対象の一つとして受け入れられた、とする大田俊寛の仮説には説得力がある。
古代都市国家の衰退はローマ帝国の成立をもって決定的になる。そのとき、「父」の形象の喪失を乗り越えることができたのがキリスト教である。冒頭、筆者が青木健が提出した疑問を思い起こしてほしい。繰り返せば、〝なぜこのような事態(2~3世紀、ユダヤ人の神話・歴史を記した『旧約聖書』と、イエスの一代記を記した『新約聖書』の「聖典セット」が異常な求心力を発揮し、周辺諸民族の神話群を徐々に駆逐し始めるように)なったのかは、よくわからない”という問いだった。
青木は「わからない」と言っているが、大田俊寛のこれまでの記述が、キリスト教が、エジプト人、ペルシア人、ギリシア人、ローマ人などの信仰を集めたことの、またさらにその周辺の蛮族と呼ばれた諸族へと広まったことの、答えになっているようにも思える。
『旧約聖書』における「父」
『旧約聖書』における「父」すなわち神は、「創世記」第1章に登場する。
『旧約聖書』における「父」すなわち「神」はヒトをふくめたすべてをつくりあげた神すなわち創造神であり、ヒトは神の姿にあわせて創造されたと書かれている。古代世界はどのように「父」を探求したのだろうか。
多数派キリスト教徒と異教徒の論争
ピーター・ブラウンになる名著『古代末期の世界 ローマ帝国はなぜ、キリスト教化したか?』は、キリスト教と異教が混在した2~4世紀におけるローマ帝国における宗教的状況を活写している。同書にはこうある。
しかしそのとき、多数派キリスト教とグノーシス派が論争の主軸を形成したわけではないようだ。ブラウンはこう補足している。
ブラウンによると、西暦170年以前、オリンポスの神々が表象する伝統的信仰がローマ帝国で勢力を維持できた主因は、帝国が安定していてローマ人は自分が住む都市の生き方が、そのまま世界中で通用するものと信じられたからだという。すべてが一つに纏まっていて、いかなる意味でも断絶は存在しなかったからだと。
しかしながら西暦170年以降になると、「新しい風潮」が断絶を生み出すことになる。古代末期、この「新しい風潮」のもとで起きたのが「宗教革命」である。「宗教革命」が進行させたのはローマ人のなかに個人の内面世界を重視する考え方が生まれてきたことによる。
こうした内面の迷いに直面してきたローマ人のなかにあって、キリスト教徒だけは、悪魔が支配する世界に放り出されるにしても、あくまでも「神の子」であったという。
一方、伝統に忠実であった人々も少なくはなかった。たとえばアリスティデス(紀元2世紀のローマ帝国下に生きたギリシア人弁論家)が頼りにしていたのは、アスクレピウス神(ギリシャ神話に出てくる医学の神)であった。彼も神々を統べるゼウス神が存在することは知っていたが、ゼウス神はアリスティデスにとって縁遠い存在にすぎなかった。
西暦170年以降のローマ人の信仰は、①伝統的なオリンポスに代表される信仰、②キリスト教グノーシス派、③キリスト教多数派--の三派が分立し、至高神が統べる複数の神々を信じる①②か、「大文字の単数形の神」を信ずる③の二択となり、①②が姿を消すことになったと考えられる。
至高神と創造神
前出の『グノーシス』(筒井賢治〔著〕)では、キリスト教グノーシス(派)主義のなかから、ウァレンティノス派、バシレイデース派、マルキオン派の3思想が紹介されている。グノーシス主義に限らず、そのころ、宇宙(世界)の始原は物語によって説明されることが普通だったといい、とりわけ、宗教においては、天地創造が物語によって説明されたという。天地創造に係る多数派キリスト教の場合、至高神=創造神が、自ら創った人類を罪から救うために、自らの子・イエス・キリストを遣わし、人類に福音を伝えたとされる。
一方、マルキオン派を除くグノーシスの場合、至高神は、低劣な創造神が創った人類から、その中に取り残されている自分と同質の要素を救い出すために、自らの子・イエス・キリストを遣わして人類に福音を伝えたとされる。
またマルキオン派の場合は、至高神は、自らと縁もゆかりもない低劣な創造神が造った、自らとは縁もゆかりもない人類を、純粋な愛のゆえに、低劣な創造神の支配下から救い出して自分のもとに受け入れようとし、そのために至高神は自らの子・イエス・キリストを遣わして人類に福音を伝えた、とした。
マルキオンは他のグノーシス派とは異なるものの、至高神が創造神の上位にあるという構造について共通している。物質(自然を含む)及び肉体が下位に属するという哲学は、プラトンのヒューレー(質料)という概念と似ている。このことを見ても、グノーシスがギリシア哲学の流れを汲んでいることは明白だという。また、マルキオン派は、聖書の正典数を限定し、多数派教会と対立した。
大雑把に言えば、キリスト教の教えをギリシア哲学ないしプラトン哲学の枠組みで理論的に体系化しようとしたのが、ウァレンティノス派、バシレイデース派となり、また文献伝承にメスを入れるまでして純粋な福音を再現しようとしたのがマルキオン派ということになる。なお、このことについては後述する。
なお筒井によるグノーシス主義は以下の言説で示される。
パレスチナで成立したキリスト教が勢力を増し、西方のローマに至るまでの間、東方(エジプト、シリア、ペルシア・・・)には複数のキリスト教教団が存在していた。たとえばエジプトにいまなお残存する「生誕派」は、現在でも、カトリックとは異なるキリスト教として活動を続けている。これら東方のキリスト教会派の最大にして最強の教派は、グノーシスと対立した多数派教会だった。多数派教会はローマに定着し、やがて欧州を制覇し、世界規模のカトリック教会へと成長し現在に至る。
2世紀、グノーシス派は、多数派教会から見れば異端であり、両者は互いに論争を繰り返し宗教として洗練度を増した。論争の結果、勝者は多数派教会(後のカトリック教会)であったことは歴史が証明している。だが、グノーシスとの対立を経なければカトリックの教義の確立はなかった、という見方もできる。
第二部では、グノーシス主義の教義について詳論してみたい。(続く)