対比あるいは矛盾の内包と保存について
先日、箱根の「彫刻の森美術館」に家族で行きました。前日から温泉旅館に泊まりのんびりとして出発。昼過ぎにお目当ての展示へ。最終日かつ3連休とはいえ、余裕をもったスペースとそれ程でもない混み具合で作品を見ることが出来た。
舟越桂 森へ行く日
僕は批評家でもコレクターでもない。
そんな僕が感じたものをつらつらと確認する。
そのためこれはアートについての話という訳ではなく、投資の話でもあり、医師の仕事の話でもあり、人の生き方の話でもある。もしかしたら夫婦の話かもしれない。
舟越桂(敬称略)の作品と言えば、誰もが思い浮かべるのが大理石の玉眼持つ木彫りの人型であろう。
彫刻を中心にドローイングがステートメントのように彫刻を説明するかのように展示されていた。
玉眼はどこから見ても視線を合わせることは出来ず、どこか遠くを見つめているような神秘性を持つ。
目は口ほどにものを言う。僕は耳鼻咽喉科医なのでめまいの検査において赤外線フレンツェルという道具で、人の瞳の動きを日常的に観察する。
赤外線フレンツェルとは小さな暗室である。
小さな暗室を顔につけると、その人の瞳は現実世界から突如切り離され、赤外線カメラを通しモニター上にのみ映し出される。
瞳はモニターを通して人体と切り離されたかのようにアップになる。通常はシンと静まりかえったように動かない瞳だが、内耳に障害があれば自然に片方向に流れ、あるところで急速に元に戻ろうと逆方向に動く。
小さな暗室は視線を通したフィードバックを乱し、隠された世界を見せてくれる。細かな病気の話はしないが、目は口ほどにものを言うのはただの事実だ。
瞳はものを見るためにある。そして脳は見たいものに視線をあわすのだ。
どこからも視線があわないとは、その人は目の前にいる私ではない何かを見つめている。しかし何を見つめているかは私には分からない。恐ろしいことに本人もわかっていないのかも知れない。
何かを見るために存在するはずの瞳が、なにもない何処かをじっと見つめている。
僕は同じような神秘があることを知っている。
例えば赤ちゃんだ。うまれたばかりの彼ら彼女らは大人になった僕らのようには世界が見えていない。ただ面白いことに彼らとは明らかに視線が合う。そこには無意識での瞳の本来の役割である「何かを見る」という行為があるのだろう。だからこそ僕らはその純粋さに心から可愛いと感じるのかもしれない。しかし時に虚空を見つめ止まっているときがある。そんな時に不安の種が生じる瞬間がある。古来からオカルトでよくある子どもにしか見えない幽霊などといった話が存在するのも納得できる。
舟越桂の玉眼の力は、瞳の本来の役割を制限することによってうまれているのだと感じた。
その一方で若い具象彫刻作家の瀬戸優(敬称略)のガラスの玉眼は恐ろしいほどに視線を外すことが許されない。野生動物というコンセプトを満たすかのような「生命感」はここから生まれるのかもしれない。生きているものはその瞳で何かを見つめているものだから。これもまた生命の力強さと美しさをストレートに表現する手法として素晴らしい効果を与えている。生きているはずもないテラコッタに躍動する生命を感じる。舟越桂とは真逆の玉眼の使い方だが、実際には同じ道でもあることがわかる。
せっかくなのでもう少し書いておく。
二重に重ねたように角度を変え描いたスフィンクスのドローイングがあった。
右と左では違う方向を見ているのだ。
意図があるのかは不明だが、豊満な乳房に対して、男根を想起させるような力強く長い首も、相反するものの同居をイメージさせるのかもしれない。
遠い手とは右から左にワープであり次元の混在でもある。
不確かな矛盾が完成された形で内包されているため、ある種の神々しさ、天使のような印象を抱いた。(僕はカトリックである)
その先に人型と自然との融合にすすんでいくのも理解できる。
さて少し話をまとめてみよう。
これは矛盾と対比のハナシ
矛盾や相反するものを内包することは、高次元での融合には不可欠であり、自然と人との真の共生である。
少しだけ投資の話にすれば、僕は膨大なデータに基づくファンダメンタル分析や、多数のシステムトレードを自動的に行い続けるbot、ルールベースのデュアルモメンタム、数字をベースとした検証可能な投資スタイルだけではなく、人の感情に基づく裁量トレードもあえて行うようにしている。そしてデュアルモメンタムのリバランスタイミングを裁量でするといったキメイラ化を積極的に続けている。
舟越桂の展示を通して、改めて自分が求める美しさが何かを理解した気がする。
そうそう、妻はこう言ったのを思い出した。
「私は舟越桂の作品は何となく暗くてあんまり好きじゃない」
僕と妻も相反する存在なのに深く重なっている。
この話も矛盾を内包しているがゆえに、1つの次元からしか見なければ何を表しているかを理解できずに、不安や嫌悪感すら感じる人もいるかもしれない。しかし見える人には己自身の話をされていることに気付くはずだと知ってもいる。
僕はハードルを置いた。
飛び越えるのは貴方だ。
貴方に飛び越えて貰いたいからハードルを置いた。
なんの話かわからなくていい。
わからないのに行動するのも美しい矛盾だから。
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