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すーんとする読書

さすがに今「文学研究をやっています」と言い張っているくらいだから、小さい頃からそれなりに本は読んできた。しかし一般の文学研究者、文学研究志望者に比べれば、おそらくその数は圧倒的に少ない。純文学に至っては逃げ出したくなるくらい無知である。それでも私の人生を変えてきた本というのはいくつかあるので、その話をしようと思う。

本を読み始めたのは早かった。小学校2年生の段階で、すでにエンデの『モモ』を読破して、それを母親に褒められたのがとても嬉しかった記憶がある。「まだ小さいのに、こんなに長くて難しい本が読めるのね」と母親以外の大人にも声をかけてもらって得意な気持ちになっていた。

そのころ、読書はお風呂と決まっていた。なにも親から決められていたわけではないが、外遊びをして夕方家に帰ってくるとすでに母親がお風呂で読書をしていて、その反対側にちゃぽんとつかってタオルで汗をふきふき本を読むのが楽しかった。エンデほど難しいものでなくても、『ぼくは王さま』シリーズやその他多くの児童書を初めて私が読んだのは、たいていお風呂の中だ。図書館の本には悪いことをした。

本を読むことに「救われる」ようになったのはもう少し後、中学3年生のころ。
そのころ私は、決して不登校と呼ばれるほどではなかったけれど、とつぜん学校の欠席日数が増えた。月1~2で必ず布団から出られなくなっていた。今思えば、家庭環境が悪すぎて精神的なSOSを出している状態だったのだと思う。そして、学校を休むたびに、私は同じ本を繰り返し読んだ。それが江國香織の『きらきらひかる』と木村拓哉の『開放区』だった。

江國香織の甘ったるくて暖かい言葉と、木村拓哉のまっすぐで真剣な言葉を、私は繰り返し繰り返し読んだ。この2冊に関しては、本当に100回くらい読んだのではないだろうか。布団にもぐったまま、彼らの言葉を吸収し、私は「大丈夫、世界は明るい」と自分を慰めた。

特に江國香織の本はその後も片っ端から読んだ。その中でとても記憶に残っているのが、『流しのしたの骨』の一節だ。その登場人物(誰だったかも覚えていない)は、雨の日に家の中にいて外の空気を感じることを「すーんとする」と表現した。私はこの表現が大好きになった。「しゅん」でも「しーん」でも「すーっと」でもなく、「すーんとする」。そのもの悲しさと安心感の同居する感覚は、まさに私が学校を休んで布団にもぐりながら本を読んでいたときの気持ちだった。たとえ、外に雨が降っていなくても。

江國香織のことは好きすぎて、高校2年生の授業であった作家研究(一人の作家を選んでリサーチして発表をする課題)の時に、先生の反対を押し切って研究対象の作家に選んだこともある。その発表が、ある意味私の「文学研究」に対する基本姿勢を作っているのかもしれない。要旨は忘れてしまったけど、私なりに満足のいく出来で、とても暑苦しい発表をしたのは覚えている。
その他にも高校生のころには、いろいろな本を読んだ。東野圭吾や石田衣良は部活のみんなで貸し借りをしながら回し読みをしていたし、ちょっと背伸びをして三島由紀夫の『潮騒』を読んでドキドキしたりもした。授業のために読んだ漱石の『こころ』では、力の入った感想文を書き、その後全校に配られる文集に載せられてちょっと嬉しかったり恥ずかしかったりもした。
こうやって、本に親しみながら生きてきたけれど、実は高校生のころは映画に夢中だったので文学研究の道に進むなんて考えてもみなかった。映画研究の道に進む気満々だった。

しかし出会いというのは面白いもので、大学に入ってから、その後ずっとお世話になる教授の授業に出るようになった。そこで知った作家からは、文字通り人生を変えるほどの大きな影響を受けた。中でも、今よりずっと英語のできなかった私にさえ、英語で「読ませた」作家がイーユン・リーとチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの二人だった。

イーユン・リーの作品には、異国で暮らすこと、外国語で暮らすこと、"alien" になること、そういうものが常に中心にあった。高校時代に一年間の留学を経験していた私にとって、それらは身に染みるものがあり、それをこんなにシンプルな言葉で表現してしまう彼女の文章に衝撃を受けた。第二言語で書かれた小説という今でも研究を続けているテーマに関心を持ったのは間違いなくイーユン・リーの影響だ。
アディーチェも、使っている語彙は簡単だし、一見するとまるで薄っぺらいロマンスにもなりえる内容を、豊かな感情表現や比喩によって信じられないほど濃密な小説に仕立てる天才だ。『半分のぼった黄色い太陽』は複雑なアフリカの政治事情を扱った小説にもかかわらず、その文章と展開の巧さでぐいぐい読まされてしまった。
岸本佐知子という翻訳者の存在を知ったのも、新潮クレスト・ブックスを次々読んだのも大学時代だった。外国文学を読む楽しさに、英語で小説を読む自由さ(と苦しさ)に、私はそのころようやく気付き、大学院ではアメリカ文学を専攻することに決めた。

第二言語で執筆する作家を研究したい、と言って大学院に入ったはずなのに、なかなか研究テーマが決まらず、ぶらぶらと色んなアジア系アメリカ人作家の作品を読んでいた中で出会ったのがヒサエ・ヤマモトだ。ここまで紹介した作家に比べたら、彼女の知名度はぐっと劣る。でも、ヤマモトの書く、とても静かでそれなのに感情がほとばしるような文章は私を感動させ、彼女の作品で修士論文を書くことを決めた。

ヤマモトは私が初めて日本語(翻訳)よりも英語の原文を熟読した作家かもしれない。 "Seventeen Syllables" や "Yoneko's Earthquake" といった代表作はもちろん、 "Las Vegas Charley" や "Wilshire Bus" といった少々マイナーな作品まで、私は修士論文を書くためにヤマモトとその作品のことを考え続けた。一人の作家とあんなにしっかりと向き合うことは後にも先にもあの修士の時間しかないかもしれないと思うくらい、当時の私の頭の中はヤマモトのことでいっぱいだった。
ヤマモトに関しては2本ほど論文を出版することもでき、それがもちろん私にとってはある種の「デビュー作」なわけで、きっと彼女以上に大切な作家は今後も現れない気がする。ちなみにリンクは翻訳を載せたけど、できればヤマモトの作品は英語で読んでみてほしい。あの英語は、というかどんな英語だって本当はそうなんだけど、絶対に翻訳じゃ良さがわからない。

修士のころから研究と並行してずっと読んでいる作家は一人しかいない。とつぜん小説ではなくなるが、能町みね子だ。初めて知ったのは、確か修士1年のころ。指導教授が「面白いエッセイがある」とクイア理論の授業で紹介してくれたのがきっかけだった。そこで紹介されたのは『オカマだけどOLやってます。』か『トロピカル性転換ツアー』だったと思うけど、その記憶が曖昧になるくらい、その後彼女の作品はほぼすべて読んだ。中でも好きだったのが、『お家賃ですけど』という作品だ。

古い物件に関するある種のフェティシズムを描いた本かと思いきや、そこには20代後半という色々不安定でおぼつかない時期を「加寿子荘」に守られて過ごす彼女の日常が切々と書かれていた。軽やかで抜群にリズムのいい文章でありながら、自分の人生の薄暗い部分と向き合ったり、それを文章にすることで乗り越えようとしたり、でもどうにもならなくて追い込まれたり、そういう人とシェアするのはちょっとためらうような出来事が感情的になるギリギリ手前のような文章で綴られているこの本が、そしてそれを書く力量を持った能町みね子という書き手のことが、私は心から大好きになった。
この「偏愛」が最終的に『結婚の奴』との出会いへ私を導き、今こうしてブログを書いている原動力になっているのだから不思議なものだ。読んだものに影響されるどころか、読んだものに振り回されているような人生です。

「ずっと本に救われてきた」とちょっと前のブログに書いたけど、こうして「私を作った」と言えるような本をまとめてみると、なんだかくすぐったいような、でもとても暖かい気持ちになる。
今の生活で本を読むことはもはやひとつの仕事だけど、でもそれは単なる仕事にはきっと永遠になりえない。本を読むことは、私を救う。私の指導教授は『生き延びるための世界文学』という本を書いているけれど、本当に良いタイトルだと思う。人を生き延びさせることは、文学の大事な効用のひとつです。文学のおかげで、私は今日も生きています。


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