スライムにならないために
昨日の授業でジャック・ラカンの鏡像段階についての論文を読んだ。すごくざっくり言えば、赤ん坊が鏡を見て「あ、あれ私だ~!」と気づき、鏡に映った像、つまり「鏡像」を通して自我を手に入れるという話。自我、言い換えるならば「私の考え」とか「私らしさ」みたいなものを支える「私」は、そのスタート地点から「鏡像=自分ではないもの」に依存しているのであって、他者との関係性無しに「自分」なんて存在しないんですよ、という結論。
とまあ、そんなことはどうでもいい。
ラカンの鏡像段階の論を読んだのはおそらくこれが3~4回目。初めて読んだのはおそらく学部生の終わりかけか修士1年の頃だと思うけど、その時は本当に1行もわからなかった。誇張ではなく、英語で読んでも日本語で読んでも、言いたいことが何一つ理解できなかった。
それでも、授業でラカンを読むたびにあれこれ解説書を参照し、先輩や先生の話を聞き、ようやくぼんやりとその形がつかめるようになってきた。とはいえ、文章の強烈な難しさはやっぱり変わらないので、上に書いたまとめだって実はとんちんかんなことを言っているかもしれない。
大学院でいわゆる人文学を勉強していると(他の分野でもそうかもしれないが)、こうして時たま「1行もわからないよ!?」という文章に出会う。そして、その馬鹿みたいに難しい文章と研究者たちが取っ組み合った成果としての研究書に出会う。数多くの研究者たちがああだこうだと言い合う姿を見て、「物好きだなあ」と心の隅で思いつつも、私もああでもないこうでもないと考える。
そうやって少しずつ、全くわからない文章の内容を理解し、それを書いた人の声を聞けるようになっていく。その道のりは苦しいし果てしない、けど、意外と楽しい。
研究って基本的に苦しいよな、と最近思う。
それなのに私は、夏休みに入ってからも何かに急かされるように研究や勉強を続けているし、挙句の果てには日本の大学のオンライン授業にまで顔を出してる。授業で人と話すのはまあ息抜きに近い部分も大きいとはいえ、それでもラカンの解説書を自主的にもりもり読んだりしている。
論文として仕上げたいと思っている文章についても、つまりこれは私の中で「勉強」より「研究」に近いものだけれど、関連する本を読み返したり文章の構成を考えたり、絶えずその内容が頭の片隅にあるような状態だ。
そんな状態を友人に伝えたら、「それはやっぱり好きなことを仕事にしてるからなのかな」と言われた。
確かに私は誰に強いられたわけでもなく、好き好んで大学院へ進学し、アメリカにまで留学したわけだけど、これが「好きなこと」かと問われるとよくわからない。
もし「好きなこと」というのがやっていて楽しいことを指すのだとしたら、私は研究を「好きだ」とは言えない気がする。
研究は苦しい。物理的にやることが多いとか、迫ってくる締切が怖いとか、そういう苦しさもあるけれど、もっと「研究」という行為そのものの中にこの苦しさはあるように思う。
自分の思考や倫理を信じたり疑ったりしながら未知の領域へ踏み込んでいく恐怖と孤独。どんなに人と助け合っても、どんなに勉強して知識が増えても、研究が研究である以上この感覚は消えない気がするし、むしろこれが消えてしまうとしたら、それは私が何か危険な道に踏み込んでいる時かもしれないと思う。
じゃあなんでそんな苦しいことを続けるのか。
おそらくそれは、私にとって研究がやらざるをえないもの、やらずにいたら自分が自分でなくなってしまいそうなものだからだ。
どんなにアプローチの仕方が変わっても、私の研究対象はいまだに文学。文学を研究することは人の話を聴くことに似ている。それも、対話のために話を聞くのではなく、相手が身を削る思いで振り絞る声を必死に聞き取る、そんな感じ。他の人がどんな気持ちで文学研究をしているのかはよく知らないけど、私はずっとそんな感覚で作品を読み論文を書いている。
それが誰の声なのかはよくわからない。登場人物の声か、作家の声か、もっと抽象的な何かか、それぞれが別物のこともあれば、ひとつの声に圧縮されていることもある。ついでに言えば私はその「聞き分け」がうまくできなくて登場人物と作家をごっちゃにしてしまうことが多々あり、論文の弱点になりがちである。情けない。
それでも、作品を読んでその声を聞く。学びや共感を楽しむ普段の読書とはかなり異なる姿勢で、その声が言っていることを、言いたがっていることを、正確に聴き取れるよう耳を澄ます。先行研究や時代背景や作家の伝記を調べることも大事だけど、それは結局作品の声を聴く精度を上げるための手段だとも思っている。
そして、私はそうやって作品の声に耳を傾けているとき、自分の形みたいなものを一番よく感じることができる。
何かを考えたり語ったりしているときよりも、誰かの声を受け止める器になっているときの方が、ずっとずっと「私」という人間の輪郭がはっきりする。
だから、研究を辞めたら、他者の声を聴くことを生活の中心から失ってしまったら、私はぶよぶよのスライムみたいな気持ちになってしまう。
一度なったことがあるからわかるのだけど、スライム状態になるとあらゆる感情がぼんやりとして何をしても他人事のような気がする。「どう思う?」というシンプルな質問が、まるで深遠な哲学的問いかのように感じられる。どう思うと訊かれましても、そもそも「思う」ってどうやるんでしたっけ、と茫然としてしまう。
スライムにならず人として生きていくため、そのために私は研究を続けているのだろう、たぶん。
ちなみにスライムにならないもうひとつの方法は、子供と向き合うこと。
家庭教師や塾講師をしたり、友人や子供や親せきのちびっこと遊んだり、日本にいたころは子供と接する機会をかなり多く作っていた方だと思う。
大人よりもたいていずっと感情豊かで、しかし限られた表現方法しか知らない子供たち。くだらないことから真剣な気持ちまで子供の話をじっくり聞いて、彼らが言いたいことを言いたいように言える場や手段を整える手伝いをする。そこで私の意見は後回し。子供たちに「正しい」ことを示すのも後回し。
親でもなければ専任の教師でもない、中途半端で無責任な大人だから許される接し方をしていた。
文学研究と教育の仕事、こうやって考えると、実は私はそのふたつのフィールドで同じようなことを考えて同じようなことをしていたのだなと思う。
どっちかが充実するともう片方があまり必要なくなることはうっすら感じていたけど、こうやってまとめてみると新しい発見をした気分。
夏休みは、せっかくのお休みなんだから、スライムにならない程度に休み休み研究に励もうと思います。
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