見出し画像

強い気持ち・強い愛

最初に言っておくけれど、今わたしは元気です。なんとなく人に心配されそうな内容を書くことになる気がするので、念を押しておきます。
あとこれもついでに言うっておくと、この記事にオザケンは出てきません。タイトルだけ彼の曲名を拝借しました。


かなり昔から、おそらく中学三年生くらいのころから、私は生きる気力が弱いと自覚している。というか、生に執着する気持ちが弱い。積極的に死のうとしたことはないけれど、生か死かを簡単に選べるボタンがあったら、おそらく「死」の方をぽちっとしてしまう。それこそ、Amazonで何かを買うくらいの気軽さで。

まだ『結婚の奴』の話をするのかと言われそうだけど、する。結婚の話とは全く関係なく、この本でかなり共感した部分があったので引用する。

高校生くらいの頃から、生に執着しない気持ちがうっすらと心の底に澱んでいる。積極的・具体的に死のうとしたことがあるわけではなく、正確に言えばいつでも「明日事故に遭って死んでも未練はない」というくらいの感覚。たとえば三日後に楽しみなことがあるからそこまでは生きよう、なんて思うこともなく、どんなに楽しみなことが控えていても、明日うっかり死んじゃったらそれはそれでいいや。という、茫洋とした諦めがある。 (198頁)

この能町さんの書く生に関する諦めのようなものが、私の感覚にはとても近い。「積極的に死のうとしたことはないけれど」という文言も、『結婚の奴』を読むずっと前から私の中にあったのだからちょっと驚く。本当に、自分の事言われてるのかと思った。

しかし、決定的に違うこともある。私は事故死は嫌だ。だって痛そうだから。いろんな自死の方法を聞いたことはあるが、結局どれも痛そうだった。「この方法は意識がなくなるから痛くないんだ」などと言う人がいるけど、そんなの証明できないじゃん、お前死んだことあるのかよ、としか思えない。やっぱりどれも痛そうだ。それが私が今でもどうにか生きているおそらく一番の理由。痛い思いをしたくないから。なぜ「痛み」にこれほど執着するか。それは、私を日々ぼんやりとした希死念慮に誘い込むのも、やはりこの痛みだから。

この感覚がいつからなのか、おそらく中学三年生と書いたが、それは私がそう記憶しているわけではなく、私の体が絶望的に弱り始めたのがそのころだった。眠りが浅いのは幼い頃からだったが、寝ても寝た気がしない、昼間は微熱や頭痛が続く、肩も腰も体の節々もどこもかしこも痛い、そのうえ月に数回はその症状が布団から起き上がれなくなるほどひどくなる。なんのきっかけもなく、突然そういった症状が現れ始めた。それが中学三年の時だった。
何かの病気だったんじゃないかと疑われるかもしれないけれど、健康診断ではいつも問題無し、血液検査だってすべてが基準値内。そもそも、頭痛も微熱も関節痛も、生活に支障が出るほどではない。いや、実際はかなりエネルギーを削られているんだけど、でもそれを理由に何かを休んだり辞めたりするほどではないという意味で。だから当然パフォーマンスも落ちる。何かしらの痛みやだるさに煩わされず生活できた日なんて、大人になってから1日か2日あるかないかだ。
でもこういうことを言い訳にしようとすると、私の中の「世間様」がにょこにょこと出てきて私を叱責する。「そんなのは甘えだ」「体の不調くらいみんな多少は我慢している」「だからそれくらいで休むのはただの怠け者だ」などなど。うるさい。他の人は我慢できてるの?私が弱いだけなの?
じゃあなんでみんなあんなに元気に遊べるの?週5でちゃんと会社に行って働けるの?仕事のうえに家事までできたりするの?それもみんなみんな、痛みやだるさを必死に我慢して頑張ってるっていうわけ?何も楽しめないほどつらくても、その不調をこらえて楽しいふりをしているわけ?
この質問の答えが、おそらく「否」であることを、私は20代後半にしてようやく学んだ。みんな元気があるからそれだけ遊んだり働いたりしているんだ。もちろん人によってその元気と痛みのバランスは色々だろうけれど、残念ながらその中で私は人一倍弱い体と少ない体力を割り当てられた存在らしい、と。

それを悟る前は、若い頃の健康自慢兼年をとってからの体調不良自慢をする人が本当に嫌いだったし怖かった。「30代になると体力が落ちて~」とか、「40にもなるとずっとどこか痛くて~」とか。そして決め台詞はいつだって「だから若い今しか無理できないよ~」とかなんとか。今でもこんなにつらいのに、もうすでに全然「無理」なんてきかないのに、年をとったらもっとつらくなるのか。そう素直な20代の私は納得し、その事実に怯えた。
慢性的な痛みをこらえて生きるか、もっと大きな痛みで一瞬にして死んでしまうか。どっちも嫌だ。なんで痛みが辛くて死にたいのに、死ぬためにはもっと大きな痛みを味わわなきゃいけないんだ。無理だ。嫌だ。死ぬのは痛いからやめる、でも生きてても痛いんだけどどうしたらいいの?
20代でもかなり「体力の限界」(by 千代の富士)を感じていたし、それを無理してトップギアで修士論文を書いた結果、病気になった。病気になったのも、ある日突然「病気になった」というより、ずっと続いていた体調不良がとうとう「病気の域に入った」という感じだったのかもしれない。
心療内科での診断をもらい、薬を飲み始め、それで一気にずぶずぶの体調不良が良くなったりはしない。しかし少なくとも、診断名がつき、「普通」に頑張ったら壊れる体であると医師のお墨付きがもらえたのはよかったのかもしれない。それこそ通院を始めて最初の頃は、修論のせいで私は「病気になって」、それを「治す」ために病院に来ているんだと思っていた。でも私の病気というか症状というか体調というかは、そういうものじゃない。体の作りがもともと貧弱なのだ。普通の人にはできることが、無理だったり辛かったりするのだ。
だからもう体調不良自慢おじさん&おばさんに怯えることもなくなった。彼らのようなどこまでも健康な人たちは、その人たちなりに楽しく暮らしてくれればいい。

今でも慢性的な倦怠感、頭痛、微熱、関節痛などは当然のように続いている。もはや微熱に関しては「平熱上がった?」と思うほど。でもやっぱり体調のいい日は体温が低いので、あれは微熱なのだ。
だから今でも死の観念はいつも私のすぐそばにいる。絶対に絶対に無痛の死というものが何かしらの方法で証明されたら、私はそれを選んでしまうかもしれない。しかしそれはおそらく科学的に不可能なので、私はこれからも「痛いつらいだるい」とありったけの愚痴を言いながら生きていくだろう。
無理をしない、愚痴を言う、諦める。この三つを実践したら、実は30代に入ってから少し体調がよくなっている気もする。大事なことは、ここでまた調子に乗らないことだろう。
でも慢性的な体調不良に苦しんでいる10代20代の子にはちゃんと伝えてあげたい。「よくなることもあるから、絶望しなくて大丈夫だよ」って。

コロナのニュースを見ていたらこのことを書きたくなった。
みんなの「死にたくない」という強い気持ちを見るのが、私はなんとなく好き。政治も経済もオリンピックも大混乱に陥れながら、それでも「生きる」方法を模索している人々を見ていると、「みんな本当に死にたくないんだなあ!」と驚いて、そんな世界がちょっといいなと思うのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?