「海外ボランティアする学生」にモヤモヤする理由
Kate Spadeのカバンをぶら下げた、ボンボンそうな女の子が純真無垢な目で声を上げていた。
「くっそ、またかよ。お寒いことしやがって」
私はそう思ったものの、なぜそんなふうに自分が感じるのか言語化がついぞできなかった。
それが大学生の時の話だ。今から10年以上も前の話である。
あれから時間が経った。
私は社会人になり、そして同級生の中にも居た、
「海外で苦しむ貧しい子供のためにボランティアする人」
はいつの間にか消え去っていた。
それがなんかモヤモヤする。
なぜあんなに純粋無垢に困ってる人を助けたがっていた若者が、社会人になったらどこにもいないのか?
それの答えはボランティア活動をする友人との会話ではっきりした。
四年間で何か達成した気になれるパッケージツアー
友人は日本にやってくるウクライナ人避難民のボランティアを細々とやっている。
学生時代にロシア語を学んでいたから、自分くらいしか助ける人もいないだろうと思っての事らしい。
その友人が語るにはカンボジアのあれは非常に良くできたパッケージツアーなのだという。
言われてみたらそうだ。
安めの新車を買うくらいの金額を払うと、学校が建つ。
目を閉じると見える。
そこで勉強した貧しい子供が高校に進学し、大学に行き、立派なスーツを着て30年後母校に現れる。
そして子供達に語りかける。
確かに脳汁が出る。
実際のところ汚職まみれの市長がマフィアと結託して学校の資材を盗んで売っぱらったり、
そもそも教師の給料の支払いまでは考えてなかったので、教師不在の箱物だけができたなんてエグい現実を知らない恵まれた日本の大学生には十分すぎる娯楽なのだろう。
学生達も卒業すれば自分の仕事で忙しいからそこまでは気にならない。だから後はどうなったっていいのだ。
それに対して友人はウクライナ支援の難しさを語る
結局、支援する側が適切に気持ちよくなれるかどうかが支援されやすいかどうかを分けているなんて考えてもいなかったのでとても驚いた。
ボランティアは結局娯楽だ
ようやく言語化できていないモヤモヤが見えていた。
私は口では理想を語るのに、支援の対象を就活のための道具か、感動ポルノの対象にしている大学の同級生たちに苛立っていたのだった。
しかも彼らはその自覚さえなかった。
例えば、彼らはカンボジアの可哀想な子供の写真を手に持って募金を募るのだが、大学に交換留学してきたカンボジア人とは話もしなかった。
いつも交流するのは欧米人。理由を聞いてみたら、
という言葉の弾丸を食らった。
いや、あなたそのカンボジアの支援してるんだよね?子供の頃は可愛いけど、大人になったら興味なしって同じ人扱いしてるの?
私が放った批判はちなみに彼らには理解されなかった。
「なんか難しいこと考えるんだね」
って茶化されただけだったのだ。これが私が通っていた自称グローバル大学の実態だった。
あんなものは外国人テーマパークってだけだ。
楽しみたい学生の時期だけ交流して、はい。さよなら。
彼らの心にはそして温かい思い出が残った。
現実問題がどうなろうと、まぁどうでもいい話なのだ。
海外に出た時お嬢様が直面する現実
ところがどっこい楽しい外国人テーマパークを楽しめるのは裕福な中間層以上に生まれた余裕のあるお子様の特権だ。
これを勘違いして、海外に渡ると今度は自分が外国人テーマパークのスタッフになる。
みんなディズニーランドには行きたいがミッキーの着ぐるみを着て炎天下に中パレードはしたくないだろう。
そうして、自分が憧れていたのは外国ではなく、外国人テーマパークだったと気がつくか(実際のところ、気がつかない人間も多い)して国に帰ってきて、ひっそりと消える。
だから「留学始めましたブログ」みたいなのはものの1年で更新が止まっていくのだ。
私は正直外国人テーマパークを楽しんでいいと思う。だが、それは自分は外国人テーマパークを楽しんでると自覚のある人だけだ。
自覚のない人間が無自覚に人を利用して楽しくなっているという事実に苛立ちを覚えていたとようやく気がついた。
先日、母校では学園祭をやっていた。
今年もまたキラキラした目で学生は募金を呼びかける。
君は気づいている側なの?違うの?
そう問いかけたくなった。