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TALK: 西原 珉×髙畑早苗×遠藤 薫 鼎談

東京ビエンナーレの参加作家3名に話を伺うTOKYO BIENNALE TALKシリーズ。第一弾は、キュレーター兼セラピストの西原珉さん、アーティストの髙畑早苗さん、遠藤薫さんに登場いただいた。西原さんは現代美術のキュレーター、批評家でありながら90年代に渡米し、ソーシャルワーカー兼メンタルヘルス・セラピストとして活動。髙畑さん70年代後半~80年代にパリとアメリカでアーティスト活動をし、帰国後は一度発表を止め会社員になられた経験がある。遠藤さんの来歴は、こちらのインタビューに詳しいが、現在はベトナムのハノイに在住し、4歳の子どもを育てながら精力的にアート活動をされている。3名のアートに関わる女性たちに、アートとの関わりについて話を伺った。
聞き手・文:上條桂子

アーティストたちが抱える悩みを聞き、
アート的な手法でケアをしていく。

──まずは西原さんがすでにスタートされている「トナリ」というプロジェクトについてお聞かせいただいてもよいでしょうか? 西原さんはもともと現代アートの現場でキュレーターや批評、ライターとして活躍されていましたが、その後ソーシャルワーカー兼メンタルヘルス・セラピストとして活動されて現在に至るという。そのお仕事はアメリカでされていたんですよね?

西原 珉 はい、2010年代にロサンゼルスで活動していました。DVシェルター、臨床心理カウンセリング、ホームレスネス支援、幼児虐待防止プログラム、高齢者のコミュニティセンターなどが主な仕事でした。日本語が母語なので日系コミュニティ対象ということが多かったですが、多文化都市なのでいろいろな人がいて、様々なことをしていましたね。プロジェクトでは「TONARI」というフリースペースを開設して、子どもから子育て世代、家族連れ、お年寄りまでた立ち寄ってもらい創作で交流が図るようなことを準備中です。ただ、コロナのことがあるので実際に何をやるかなどはまだまだ検討しているところなんですが。もうひとつ、このプロジェクトでやりたいのは、アーティストや創作をしている人たちのためのカウンセリングです。そもそも私が心理セラピストの勉強をし始めたのは、それがやりたかったからなんです。というのも、ロサンゼルスに住んでいた時に、周囲にいたとてもいい作品を作っていたアーティストたちが何らかのつまづきによって命を絶ってしまったり、鬱病で苦しんでいたりするのを見てきて、かできないかと強く思うようになりまして。手始めに9月からクリエイターのためのカウンセリングをスタートしました。

──具体的にどのような年代の方がどのような相談をされているような状況なのでしょうか?

西原 最初は3331 Arts Chiyodaを使ってオープンにやろうと思っていたのですが、こんな状況なので電話やZoomを使ってやっていて、年代は20代〜30代の比較的若い方、大学を卒業して少し経ったくらいの方が多いような気がします。アーティストっていうのは、人に見えないものを敏感に感じ取っていますよね。もちろん、そういう人だからアーティストになれるのだと思うんですが。そうした周囲や社会の状況を敏感に感じる能力を持ったアーティストとしての人生と実人生のバランスというか、その狭間で悩んだり、苦しんでいる人が多いという感触ですね。

髙畑早苗 秋葉原でカウンセラーをしている友人は、コロナになってから相談者、特に女性の相談者が増えてると言っていました。クリエイターの相談も増えているような感触はありましたか?

西原 今回が初めてだったのでそれはよくわかりません。同時にアーティストのためのLINE相談というのも初めているんですが、そこでは10代、20代の人たちが圧倒的に多かったのが印象的でした。彼らが抱えている問題っていうのは「一人」だということ。一人で抱え込んでしまって、相談というか、誰かと共有することができないんです。そうこうしているうちに何が問題なのかもわかなくなってしまって、家族や友だちといるのに常にいらだちを感じるような。

遠藤 薫 具体的な相談としてはどういうことが多いんですか? 家族の協力が得られないとか、作品に共感されないとか。

西原 人間関係全般ですね。あとは、周囲が制作に対して理解がないという話は多いですね。特に女性はそうで、本人としては作品を作り続けたいけれど、「それで将来どうするの?」というプレッシャーを家族や配偶者、友だちからも受けているという。

遠藤 配偶者の理解? ですか? そもそもそこがないのは……。理解されていないのに、でも、結婚まで至ってしまうっていうことですよね? 合意がとれている上で結婚まで進むんじゃないんですか?

髙畑 恋愛の時は盛り上がってるから、きっとそこまでは考えないんですよ。結婚は現実だから。

遠藤 なるほど。夫婦というチームが組まれた瞬間に、既存のジェンダー観念による役割分担が発生して、特に女性の役割の中に制作は要らないんじゃないの?ということになるんでしょうか。

西原 それは極端かもしれないけど、制作というものよりも先に家族というコントリビューションが優位に来てしまうんですよね。そこで、「自分だって制作第一でいたい」という気持ちを抑え込んでしまう。

髙畑 20年くらい前に発表された出光真子さんのビデオ作品「加恵、女の子でしょ!」(1996年)を思い出しました。男性作家と女性作家が一緒に住んでいるんですが、時を追っていくとだんだん制作をするのは男性だけになっていって、女性は家事に追われるという。

西原 アーティストのテラスハウスみたいな話ですね(笑)。ロサンゼルスにいたときにも同じようなことがありました。アメリカだから日本よりもジェンダーロールの押しつけみたいなものはない、って日本から行くと思うじゃないですか、でも日本以上にひどくて。アーティストたちの集まりに呼ばれて行ったら、男性アーティストたちは外でアート談義をしていたのに、女性たちはキッチンで子どもを世話して食事の準備をしているという。アートの世界だからって自由かというと、全然そうじゃない。今でも毎日腹立つことがありますね(笑)。

髙畑 アメリカでそうなんですね。すごいなあ。

遠藤 私はいつもこういう話をする際に、女性と男性で分けてしまうと、そこに当てはまらない人たちはどうなるんだろうとまず考える癖があります。パートナーとの共同生活をするうえで、ジェンダーにかかわらず、料理をするのが好きな人が料理をしたらいいし、両方ともできなかったらではどのようにするといいか話し合うとか、その個人のパーソナリティに合わせて得意なことを任せてもらえるような環境、話し合ってみんなでルールを決めていくような雰囲気が必要なんじゃないかと思います。

私は平成元年生まれなのですが、たまたま通っていた小学校がジェンダーレスな人たちが多くて。男の子みたいな女の子もいたし、女の子みたいな男の子もいて、でもみんな普通になじんでいて仲が良かったんです。そこから大学でよその県に出たら、あれ? 思ってた以上に世の中って性別によって二つに分けられているの? と上の世代の社会のジェンダー認識に対してズレを感じることが多かったです。

また、私は布を扱った作品を製作しているのですが、布を扱っていると女性を代表するように捉えられてしまうことがよくあります。しかしながら、私は女性的な身体を持ち合わせているだけで、決して女性の代表ではありません。とりわけ、私は性自認が曖昧なので女性とカテゴライズされることに違和感を感じます。史実として女性が布の仕事を担っていた、それは事実です。だけれど、同時にインドやサンタクルーズ島等では男性が布を織っている、というような例ももちろんあります。織りだからといって必ずしもジェンダーの問題に集約するのはどうかと思うことがあります。ただ、男女の体格の差、能力の違いというのはどうしてもありますので、大半の布を織る仕事は女性が担っていました。また、布の周辺、歴史や社会の状況を調べていくとどうしても男女の役割の蔑視を伴うような差別性について意識せざるを得ないことも確かです。もちろん私の布の作品には、そのような史実も含まれてしまうのですが、私としてはジェンダーの問題を声高に主張したいわけではありません。

──なるほど。女性であるというだけで何らかの役割を負わされている人は多いし、昨今問題にもなってはいますが、確かにジェンダーの問題は男女だけの話ではありませんよね。

遠藤 先ほどお話に出た、制作と自分の人生のバランスの話で言うと、私の周囲には自分の悩みそのものや、個人的でささやかな思いを作品化するアーティストが多くて。それはとてもいいことだなと思っています。作家は作品を一つのテーマに絞るべきでも、お題を出されてすぐにほいほいと作品が出てくるわけじゃありませんよね。なので、私は基本的には生活と制作を分けることも重要だと考えていますが、その時々の悩みそれ自体を作品にも満たない何かで人に伝えようとしてもいいと思うんです。あるいは、或る精神科医は、自身の悩みを作品化することで客観的に向き合い、展覧会という形で人に見せる、その展覧会自体が暴露療法であるという話をしていました。確かに、展覧会そのもの、作品制作そのものが一種の治療なんじゃないかというのは、自分でも制作をし始めた最初の頃から感じていました。

西原 遠藤さんのおっしゃる通りです。生活と作品がつながっていたり、生活の中での葛藤が制作に向かってもいい。制作が生活の一部からかけ離れてしまったことで悩んでいるアーティストも多いと思います。

表現することと生きることの葛藤、
自らの内面とどう向き合うか。


髙畑
 私は20代はずっとパリとアメリカを拠点にして制作活動をしていて、ふつふつと問題を抱えてはいたんだけど、何が問題かもわかっていなくて。とにかく苦しいんだけど、何が苦しいのかがさっぱりわからない。もう自分と向き合うしかないと思い、1991年に始めたのが、友人たちにインタビューをするというプロジェクトなのです。世界各地に住む21人の友人にインタビューをして、その人のポートレートを描くというプロジェクトを4年かけてやりました。それで展覧会で発表して、本も作ったんですが、それでも答えが出なかったのです。死か狂気かというところまで来て、アーティストの衣を脱ぎ捨て、押し出されるように娑婆に出て、別の仕事を始めたのです。

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髙畑早苗《Intimate Reflections 1991-1995生まれ出た自画像たち》 1995、佐賀町エキジビット・スペース(東京)、Photo by 林雅之

遠藤 それまではアーティスト1本でやってこられたんですか?

髙畑 そうだったんです。18歳でデビューしてから、作品を制作して売るのをひたすらやっていました。

遠藤 なるほど、それは想像するだけで大変そうですね。

髙畑 40歳で初めてアート以外の仕事をした時は、因幡の白うさぎみたいに皮膚を丸ごと剥がされたような気分で、何もわからなくてぶるぶる震えながら仕事をしていました。でも、そのうちやっぱり描きたくなって。ブティックをしていた妹がこれに描いたらって言ってドレスを20枚くれたんです。体にぴったり添うシェイプで、そのドレスに絵を描いていました。それをくぐりぬけて、だんだんと自分の中の問題がわかってきました。

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髙畑早苗「WEAR ME 無意識の鎧、意識の甲」京都法然院・方丈 2006年 

当時西原さんみたいな人に出会っていたら、違っていたかもな、と思います。でも、私には毎晩のように電話して、私の話を聞いてくれる妹がいました。妹がいたから私は今も生きているのだと思います。

遠藤
 今お話を聞いていて、私と高畑さんは美術に対する矢印の方向が反対なのだと思いました。私はいわゆる美術の外、工芸の現場にいたのですがなかなか受け入れていただけなくて、その形式から外れたときに現代美術というものに出合ったので、とてもありがたい存在でした。既存の形式に囚われない現代美術の場だったら、自分が抱えている悩みですら表現に換えていけるのではないかと思えて。私は染工房や会社に勤めていましたし、土台が美術ではなかった。美術によって救われているような立場で活動を始めたので、当時よりは随分気持ちが楽になりました。高畑さんのように最初からアートだけというのは、それはそれで大変だろうと想像できます。そこから高畑さんは社会に投げ出されて、それでもドレスの作品が生まれるのだから、作品の生まれる時というのは言葉に尽くしがたい、両義的なものですね。そのような作品制作の成り立ちに魅力を感じます。

髙畑
 西原さんはたぶん同じ世代なので、時代の制約みたいなものもなんとなくお分かりになると思いますが、やっぱり女性一人でアートだけで生活をしていくのは、大変な時代でしたよね。

西原 そうだと思います。セクハラとかもすごかったしね。女性で第一線に出て行くには、何枚もよろいを着ないといけなかった。

髙畑 カウンセリングというもののイメージも全然違ったと思います。私たちが若い頃は、西原さんみたいな人はもちろんいなかったし、カウンセリングというと映画『カッコーの巣の上で』みたいな、気軽に行けるような場所ではなかった。

西原 そうですね、精神科に行くというのはよほどのことという感じだったかもしれません。また、鬱でも何でももっと病理的に見ていたので、今とは全然違いますよね。私はカリフォルニアに行ったので、グレゴリー・ベイトソンに始まる家族療法が中心でした。州によって主流のセラピーメソッドが違うんです。家族療法では家族の中でひとり鬱の人がいたら、家族全員にカウンセリングします。あとカップルカウンセリングとか。もちろん悩みは人それぞれ、ケースバイケースなんですが、様々な人悩みを聞いていく中で、根底はやはり人間関係、人と人との関係性なのだと感じました。

髙畑 私は、ジュディス・L ハーマン の『心的外傷と回復』をバイブルにしていました。まさに関係性を取り戻すセラピーの本で、日本にもそういうのがあったらいいなと思いました。

遠藤 その方法というのはどういうものなんですか? 

髙畑 みんなで集まってお話をするんです。ただ話すだけなんだけど、話すことでその辛さをくぐり抜けてよくなっていくという。私もニューヨークにいたとき、みんなでわーっとしゃべっていると、あれ?私の悩みって何だったっけ?って思う時がありました。この場所にいたら回復するのかもとも思ったんですが、私の場合は悩みの原因が日本にあったので、どうしても日本に戻ってそれを探る必要がありました。

西原 なるほど。グループセラピーのようにお互いに話をするだけで、症状がよくなるということはありますね。それも一種の暴露療法で、話をしていくうちに耐性ができていくという。アルコール依存症者の集会でよくある、「Hi, I'm alchoric...」とか言いながら、自分のことを話し始めるような。話をしていくうちに泣いたり、怒ったりして、でも最後にみんなでハグをして回復へ向かっていくという。でも、それはアメリカの場合かなとも思います。日本人は自分をさらけだすことが苦手なので、グループセラピーが必ずしも浸透するか、適しているか、というと、まだそうではないですね。ところで、今日の3人は私はアメリカに住んでいたし、髙畑さんはパリとアメリカにいて、遠藤さんはベトナムとそれぞれ異文化に身を置いていますよね。皆さん、それで楽になった部分があるんじゃないですか?

ものづくりできる環境を整えるために、
常に違う価値観をシェアしていくこと。

遠藤 めっちゃあります。学生時代の沖縄は苦しく、楽に感じたのはベトナムですね。私は奈良と大阪の間くらいで育ったんですが、ぼーっとしている子だったので、高校の先生が君は沖縄くらいゆったりした場所じゃないと受け入れてもらえないって言って、親を説得してくれて。

西原 いい先生ですね。

遠藤 だけど実際に住み始めるといろいろなことが見えてくる。沖縄の人間じゃない人が工芸を学んでいると、ずっと疎外感が付きまとう感覚があったんです。生活面でも、友人たちとデモに参加するというような現実がある。沖縄にいて、楽な気持ちになったことはないですね。沖縄人になれない大和人として自責の念に駆られ、ぼーっとできずに逆に揉まれて(笑)。

今はベトナムのハノイに住んでいるのですが、子育てと制作と仕事面では非常に恵まれていると思います。4歳になる息子がいるのですが、ベトナムでは「子どもはみんなで育てるもの」であり「子どもも一人の人間である」という感覚が強い。ベビーシッターや家政婦を雇うのが共働き家庭、移住者の常識です。例えばレストランで子どもがグズッてしまった時に、店のおばちゃんが「子どもは私に任せて、あなたは食べなさい」と抱っこしてくれることも。子どもがテーブルの上に乗ってしまった時も「子どもらしくていいじゃない」と笑ってくれる。一方で日本に帰ってきて子どもを連れていると、ずーっと「すみません」と言って過ごしているような気がします。

髙畑
 日本も昭和の時代はそんな感じでしたけどね。最近は違うのかもしれませんね。遠藤さんの夫はアート関係のお仕事なんでしょうか? 西原さんの夫も?

遠藤 そうですね。キュレーターです。

西原 私の夫はアーティストなんですが、彼との暮らしについては早い段階で諦めたというか、もう自分は普通の人生を送るのは無理だなと思いました(笑)。夫は何もかもが突飛で、ジェンダーも超えている人間で、子どもの学校へ一緒に行く時にお化粧をして行ってしまったり、中学に忘れ物を届けに行ってもらったら生徒に間違えられてずっと待たされていたり。子どもも、小さな頃は、お父さんが変わってる、という悩みがあったみたいなんですけど、今となっては多様性に触れてよかったと言っています。私は車の運転が好きなので送迎はいくらでもするけど、ご飯を毎日つくるのが好きではなかったので、子どもの友人が作ったりして、みんなそれぞれ勝手に暮らしていました(笑)。

遠藤 そういう風にしてお互いに役割を話し合えればいいですよね。結婚した後も対等な立場できちんと話をして、物事を決めていくという。うちもことあるごとに話し合いをしています。

西原 そうですね。日々のコミュニケーションが大事ですよね。

遠藤 もちろんケンカもしますが、その後ルールをきちんと2人で決める。周りの人がどう言ったかとか、男だから女だからということではなく、2人でルールを決めることが大事だと思っています。また、必ずしも結婚生活を続けることが正しいとも考えていないです。子育てが終わったらチームを解散したっていい。もはや結婚すらしなくてもいいと思っています。例えば、友人に男2人、女1人の恋人がいるのですが、その都度話し合って成り立っている、と聞きました。もちろん持続させることは簡単ではないと思いますが、いわゆる家族でもない、新しい関係の形、それは素敵な試みだなと思って、時々話を聞かせてもらったりします。また、私は自分の性自認についてどう向き合うか考えていて、単なる友人であると同時に「擬似的な彼女」である人物を介して、自分の心の機微を観察しています。そのことは作品にするつもりはないのですが。

西原 そういうパートナーシップのモデルが増えていくといいなと思います。アート界にはその可能性があるんじゃないかな。

──結婚という制度の問題だけではなく、先ほど遠藤さんがおっしゃっていたベトナムの話もそうですが、家族という考え方自体が変わってきているようにも思います。映画や小説などで疑似家族の物語が注目を集めてもいますし。愛だ恋だとか性別ということに収まらない、パートナーシップはどんどん生まれてきているように思います。

西原 LGBTQという言葉も少しずつ浸透してきていますし、パートナーシップや家族等の問題は昔よりは過ごしやすくなっているように思います。一方で、日本人でカウンセリングに来る人のほとんどが“他人の目”で悩んでいることは気になりますね。他人にどう見られるか、他人にどう受け取られるかっていうことを気にし過ぎて、相手の心を読み過ぎてがんじがらめになってしまう。インターネットなどで、こう振る舞うといじめられるとか、こうすると叩かれるというような情報が多いですよね。それを見て、じゃあ服装は目立たない方がいいんじゃないかとか、何がマナーかとか、迷惑かけないとか、あれこれ考え過ぎた揚げ句、自分って何なんだ?となってしまい動けなくなってしまう。

──今のお話でいくと、アーティストを始めとする自分を表現し慣れている人は、その点強いのではないかと思います。他人からの評価にしても、ひとつではないという経験もありますし。

西原 そうですね。何らかのかたちでアートに関わるとか、表現をする機会があると 違うと思います。そういうアートの良い面を役に立ててもらえたらと思っていて。私の中でのアートの定義もだいぶ変わりました。昔はものすごくエッジィなものを追い求めていましたが、最近は自分でも驚くほどなんでも受け入れていますね。

髙畑  その変化は素晴らしいと思う。

遠藤 髙畑さんは、制作することが発散になったり、自己治癒になったりしているんですか?

髙畑 きっとなったんだと思います。インタビューをして肖像画を描いていた時には、自分の問題が明確にならなかったし症状もよくならなかったのですが、その後日本で働きながらドレスシェイプの布に絵を描いていった段階で、自分にはこういう問題があったんだということを把握してきて、それは家族と自分の問題だったんですが、それがわかって、今は心穏やかな生活をしています。

西原 ドレスに絵を描くということが治癒の過程だったんですね。

髙畑 キャンバス(木枠に貼った布)に書くのと、机に置いたドレスに描くのとでは、気持ちが全然違うんです。2001年から2014年頃までは、ドレスシェイプに描いていました。 2014年から「精霊」と「肖像画」という2つ方向で絵画を制作しています。「精霊」というのは、場所や時代の空気を描いたものです。近年、制作している「肖像画」は、「Intimate Reflections1991-1995 」の延長線上にあるもので、やはりインタビューをして相手の肖像画を描いてますが、亡くなった友人達も多く描いてます。

その他に、パーソナルオブジェという立体コラージュ作品のシリーズも制作しています。自分が撮影した写真や自分が描いた絵の写真をベースに、海外を旅して見つけたアンティックパーツやビースなどをコラージュし、世界で1つしかないオブジェを作ってます。オブジェの裏にはピンをつけましたので、買ってくださった人たちは、ブローチやペンダントとして、私の作品を身につけて歩いてくださっています。東京ビエンナーレ2020/2021では、1991年から継続して描いてきた「肖像画」を展示します。

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髙畑早苗「妄想中世」佐賀町アーカイブ2015年

遠藤 パーソナルオブジェ素敵ですね。自分でお守りみたいに持つものを自分で作るっていうのはいいですね。安心しそう。

西原 絵を見たりするのもいいんですが、心が病んでいる方には触れるものってすごくいいんですよね。DVシェルターにいた時に、その施設にいる女性は自分が住んでいた場所から身ひとつで逃げ出してきたというケースが多い。そういう人と一緒に、石に何かを描いたり、ガラス片に絵を描いたりしたのですが、お護りのように大切に持っていましたね。ポケットの中にいつも入れておいて、不安な時に触るような。

遠藤 自分で作ったものを身に付けるっていうのがいいですよね。私は、祖母の遺品である服を染め直したり、縫い直していつも着ています。生きている人同士って難しいですから、生前の祖母とは仲が良かったわけではないです。でも、祖母の物を選ぶ目は確かだと尊敬していて。そんな祖母の集めた服たちを着ていると、脈々と続く肉体のリレーの中に私がいることを感じることができる。まるでお守りのようです。祖母との遠回りな抱擁のような気さえします。 

作品制作を通して他者と関わる、
制作すること自体がケアになる。


──なるほど。髙畑さんの「肖像画」についてもう少しお話を伺いたいのですが。もともとインタビューを絵をセットで考えられていたのですか?

髙畑 当時は自分の中に大きな問題を抱えていて、生き続ける意味がわからなかったんです。私は子どもがいなかったですし、子どもが欲しいとか、欲しくないということを考えていくと、わからなくなってしまい。それに、ただただ生きること自体がきつかったんです。日本に帰国しても私には疎外感がありました。継続して所属してきた社会がなかったし。考えたら、私が所属してきた「社会」とは、私が移り住んだ土地で暮らす友人たちだなと悟ったのです。彼らが、私のかけらと持っていると確信し、友人たちを訪ね歩きました。「あなたの生きる意味は何?」「何があなたを生かしているの?」と。30年前は、141項目の質問をしたのですが、この頃はその中から41項目に絞って質問をしています。

遠藤 心に残った回答はありました?

髙畑 私は妹にもインタビューしたのですが、それまで、妹は単に妹としか思ってなくて、彼女の心の中を覗いた事もなかった。当時、彼女はビジネスウーマンとして、寝る時間もなく忙しく仕事をしていて、小さな子どももいて、迷いのない人生を生きているように見えました。しかし、インタビューをし、肖像画を発表した後、妹は自分を見つめ直した末に離婚をしました。その後も、インタビューに答えてくれた女友達が3人、離婚したと、後で知りました。

──興味深いですね。普段何気なく過ごしている結婚生活で目をつぶっていたところを、インタビューされるということで気付かされたような。インタビューをするということはカウンセリングをすることにも近いのではないかと思いました。

西原 髙畑さんも遠藤さんも作品制作をする上で人と関わったり、話をしたり、一緒に何かするということをされていますよね?

遠藤 確かに人と関わっていますね。いまバナナの帆の船で海を渡る計画をしているんですけど、バナナでできた芭蕉布ってわかりますか? 昔の沖縄の人の普段着です。芭蕉布の織り手である染織工房バナナネシアの福島泰宏さんが、米軍基地の中でバナナを育てていて。話をしていると、バナナの原種を追ってベトナム北部に行くのが長年の夢だったそうで、私いまベトナムに住んでいるので一緒に行きますか?と誘ったことからプロジェクトが始まりました。現在は、何度も一緒に旅を重ねて少しづつ作品のかたちになってきています。なんというか、作品ができる順序はそういうことが多いんです。人と話をしていくなかでアイデアが繋がっていくという。思いついちゃっただけなので実現するのがすごく難しい。でも、そういうものの方が頑張れる。

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遠藤薫 芭蕉布の船プロジェクト参考写真

──なるほど。決して一人で考えて実行するのではないということですね。

遠藤 東京ビエンナーレの場合、製作費もないし、担当スタッフもつかないので思ったより大変だなと思いました。救われたことは事務局スタッフの中に他の国で知り合った友人が偶然いて、親身になって協力してくれたことです。再会して、一緒に楽しんでリサーチもしてくださって。彼女は先ほどの芭蕉布のおじいちゃんの夢のプロジェクトにも携わってくれるそうで。そういう最小単位の、一対一の関係性だけが、重要なことのように思える。制作がどれだけ大変でも、楽しいと思える。

髙畑 コロナ禍って孤独じゃないですか。でも東京ビエンナーレというのがあって、みんなは一人ひとりかもしれないけど、みんなが作ってるんだと思いながら制作できるのはいいですよね。すごく救われた面があります。

西原 離れていても誰かが同じことをしているって感じられるのはいいですね。コロナ禍はラジオで癒された方も多かったようです。でも、オンラインにはだんだんと拒否反応が出てきました。大学でオンライン授業をしているんですが、学生たちはミュートしているから反応ないし、目も合わないし。カウンセリングをする場合もZoomでやるケースも増えてきたんですが、こちらから相手に送っているメッセージが半分も届いていないことがあって。人って、存在するだけでものすごい情報量を発しているんだなと痛感させられます。

髙畑 私は今、両親の介護をやっているんですが、介護って本当に総合人間学みたいな感じで、家族を含めた人間関係がどんどん出てきていて。相談に行きたいです。

西原 家族会議にも同席することがあるのですが、それは家族だけではどうにも動かなくなってしまったところに他人が一人いることで、やっと話が動き出すっていう、そのためにいる感じです。

──家族って血縁ではつながっているけれども性格が違って、生活も環境も全然違う人たちの集まりですもんね。だから家族だけだと解決できない難しい問題が生じてしまう。そこに他者が一人入って調停役をするのは重要かもしれませんね。

髙畑 その通りです。両親と私、私と兄弟たちも何十年も違う生活を送っていて、まったく違う価値観で生活をしているわけですよ。それが介護によって一気に引き戻される。それをどう折り合いつけていいのかっていう。介護自体よりもそのことの方が重たい問題としてあります。

遠藤 自分の両親ということで言うと介護は少し遠い問題ですが、身内のことを見ていて大変だなと感じています。尊厳死が認められてもいいのになとも思うし、家族のあり方ってもっとバラバラでもいいのにって思いますね。

──家族がバラバラでいいっていうのはひとつありますよね。家族イコール絆っていう話ではなくて、結局他人だったり、違う人生送ってるし。いままでの日本だったら、家族が一番みたいな価値観が多いような気がしますが、それも変わってきましたよね?

西原 日本はやっぱり血縁関係の縛りが強いですよね。それが価値観とかが全然合わないのに、ひとつのことを一緒に決めなきゃいけない。介護の話は長女にきたり、家を売る時には全部長男がやれといったようなジェンダーロールも根強くあったりします。アメリカに住んでいた時に楽だなと思ったのは、エクステンディッド・ファミリーという考え方ですね。夫の教え子や息子の友だち、近所の人など含めて、常に家には10人以上の人がいて、一緒にご飯を食べたり生活をしているような。でも、時期が来たらみんな別々のところに行く。そうした緩い結びつきっていいなと。カウンセリングにしても、アートにしても、家族にしてもどんなことでも、「〜しなくちゃいけない」とか、「〜すべき」っていう考え方から少しずつ自由になったらいいなと思います。

遠藤
 うちの母は66歳の長女なんですが、祖父も書家で母も書道を継いでいて、辛いことがたくさんあったと聞きました。祖父がちゃぶ台をひっくり返すことなんて当たり前で、セクハラ、パワハラもある。だからこそ次の世代に対して同じようなことを繰り返したくないという気持ちがある、と母から聞かされました。母は母でもちろん私の世代とは違う価値観を有しています。でも、その時に下の世代と真摯な対話をすることができるかどうかで関係性は全く変わると思う。今、私が実行している東京ビエンナーレの「銀座」のプロジェクトを通して、時とともに変化する事象や世代交替について学びたいと思っています。

──確かに、歴史と人間関係と産業、工業化という話がつながって来るので、各地に遠藤さんが行っていろいろな話を聞く中で、単なるノスタルジックな感情だけではない話が絡んでくるような気がします。

髙畑 西原さんのお母さんはどういう方なんですか?

西原 うちの母はちょっと変わっていて。周囲に離婚している人があまりいなかった時代に離婚をして。ある日、突然家出してしまったんです。小学校の時に、みんなはお弁当だったんですが、近所の喫茶店から出前が届くんです。スパゲティナポリタンとか(笑)。それがすごく嫌だった記憶がありますね。なので、あんまり一緒に住んだ記憶がないんですけど、私と母の関係は意外と良好で、でも妹と母の関係はあまりよくなかったり。同じように育てられたのに、そういう違いがあるんですよね。

──そこでお母さんの愛が欲しい! みたいにこじれなかったんですね。すごいなあ。西原さんから滲み出る寛容さは幼い頃に培われたんですね。

西原 いやいや、20代の初めくらいまでは、心の中にわだかまりがあったし、昇華できていなかったと思います。でもそれを乗り越えることができたのはアートのおかげだったんじゃないかと。

価値の変化に対する寛容さを持ち、
多義的な視点が持てるアートの底力。


──なるほど。いろいろ話が広がって面白かったんですが、最後にアートの話に戻りたいと思います。皆さんが話をしている「アート」というのはすごく広い意味な気がしていて。皆さんのプロジェクトでもコミュニケーションやケアの要素が絡んできています。最後に、皆さんにとってのアートとはどういうものかお聞かせください。

西原 私は30年以上毎日アートのことを考えているので、考え方や判断のすべてに影響しているものだと思います。私がいま考えているアートは、他者とのつながりや関わりのこと。それをリレーショナルアートっていうような形式でやるのではなく、アートというぼんやりした、安全で、自由で、でも厳しくて、という領域で、自分の内面を発散できるような場があるから、つながることができるんだと思うんです。そんなアートの可能性を追究したいところですね。

──カウンセリングとアートという概念は、西原さんが始められたときにはきっと違うジャンルみたいに思われていたかもしれませんが、最近の現代美術の第一線を見ていてもそういう要素を持った作品やプロジェクトが多く見受けられるような気がします。特にこういう時代だから、アートとケアという考え方の重要性が増してきたような実感がおありなのでは?

西原 ケアというのとは少し違うのかもしれないのですが、最近、「感動」ということについて考えていて。年を取って涙もろくなってるってことはありますけども。ハリウッド映画の脚本家が書いている本みたいに、感動を生む方程式もあるのかもしれませんが、そうじゃないな、と。形にならない感動は、私にとってはアートの中にある。自分にとっての感動が生まれるアートというのは、何かを通して共通のものがあることだったり、この人と接点が持てたとか、理解がふっと自分のなかに生まれたとか。他者とのつながりが持てた瞬間っていうのが、私にとってのアート。そのアートは他人へのリスペクトとケアリング(思いやり)なしには生まれてこない。それが、自分の中で生きる力になっているし、そういう瞬間が生まれるきっかけをつくるのが、ミッションなのかなって思っています。

髙畑 私はね、芸術っていうのは生きることだ! と思ってます。芸術とは、人それぞれが創意工夫しながら生きていくこと自体だと思うんです。それに勝るものはない。介護もそうで、「要介護3の母の生きる」にサポートするために、想像力をフルに使いアイデアを出してます。母を見ているとすごく面白いんですよ。現在、母は、言葉とその言葉が持つ意味が繋がらなくなってしまったのですが、意味不明な母の話を、優しい気持ちで真剣に聞いていると、通じるんですよ。言葉を超えたものが通じ合うんです。そして、私と通じ合えたという嬉しさが、笑顔となり母の顔に現れてきます。嬉しいという気持ちは、自然と笑顔を作るのですね。

最近、すごく感動した出来事がありました。母は、認知症が進みご飯を食べるという行為を忘れてしまったのかもしれませんと、ケアマネさんに言われました。ものを口にしないため7キロも痩せてしまったのす。私は、自粛期間を経て、母と再会しましたが、母は衰弱して、声もよく出なくなってました。しかし、必死に介護をしていくうちに、ご飯を食べてくれるようになったのです。そしたら、食欲とともに、なんと、毋の羞恥心が出てきました。リハビリパンツを替えるのを私が手伝おうとすると、母は激しく嫌がるようになりました。それを見て、ヘルパーさんが、「お母さんの羞恥心からくる拒否です」と。役者をしていた友人に、この話をしたら、「羞恥心は色気だよ」というんです。色気、すなわちエロス、生命力なんですね! 母の拒否─羞恥心─色気─生命力とつながりました。食欲とともに母の生命力が羞恥心を伴いながら出現してきたってことなんですね。母のことを、私は、介護の専門家とは違う角度から見て、介護の常識みたいなものを疑い、自分の目で母を見て感じて、日々、より良い時間を過ごせるように工夫してます。母の羞恥心を伴う拒否に感動できるのは、私が長年、創造の生活をしてきた賜物かもしれません。介護の分野こそ、アーティストたちが参入し、独自のものの見方でどんどんアイデアを出し合っていただきたい現場です。介護は総合人間学のような魅惑的な分野です。

遠藤 お2人のお話と近い部分が多いので、違うことを話そうと思います。今年度、私の布の作品がある美術館のコレクションに入ることに。その内のひとつは雑巾として何度も使い続けたい布の作品です。同じ状態を保持しない、ということは美術館の収蔵と保存の原則に反しています。そこで、私は美術館にある提案をしました。この雑巾の作品は実際に美術館の人に使用してもらい、洗って干して保存することを繰り返してほしいこと。そのサイクルの中で布が損傷していく状態が許容されるなら是非所蔵してください、と。そうしたら、その提案を飲んで対応をして下さるということになり、驚きました。でも後から聞いたら、前例の無いことで、何度も会議を重ねて収蔵を決定して下さったそうです。それを聞いてなんだか嬉しかったです。作品のことを考えて下さって、話し合いの末に前例を覆して下さったなんて。

担当者曰く「美術館として、作品の状態を一定に保つという考え方は変わらない。ただ、この作品で一定に保つべきは、現状の布の状態や色ではなく、布が雑巾として機能するという状態そのものだ。だから、仮に使うことをやめてしまえば、それこそがこの作品の状態を変化させてしまうことになる」とのこと。作品存在そのものに絶対的な何かを見い出すこと、多様な在り方を許容する姿勢がアートの定義にすでに備わっているのだろうな、と、私にとってアートとはそういった存在です。

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遠藤薫個展『重力と虹霓 Gravity and Rainbow』Solo exhibition, Shiseido gallery, Tokyo 展示風景

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布の損傷した部分を蚕が修復する遠藤薫の作品。
2018 “Thanks, Jim Thompson”[Bangkok Biennial 2018『BARRAK : survibes』]White Line(Bangkok)


西原 そうですね。作品は常に変わらないんですよね。だからこそ、キュレーターや美術館は価値の流動性を維持していって欲しいなと思います。表現されたもの、言葉になっているものの周りにあるふにゃふにゃとした部分、それをどれだけ感じとることができるか。それはセラピストとしてもそうなんですが、キュレーターとして考えても同じだと思います。作家が作っているものの周りに漂うもやもやした粒子みたいなものをどれくらいすくい取ることができるんだっていう、その能力は常に磨いていかなきゃいけないなと思っています。

cover photo
髙畑早苗《Intimate Reflections 1991-1995生まれ出た自画像たち》 1995、佐賀町エキジビット・スペース(東京)、Photo by 林雅之


西原 珉のプロジェクトはこちら
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