写楽の正体とされる能役者が絵師としての活動を公にしなかったのはなぜ?
東洲斎写楽は、1794年5月には役者の顔の特徴を大胆に誇張した独特の大首絵28枚で華々しくデビューしました。その後、約10か月の短い活動期間中に役者絵を中心に数多くの作品を制作し、目のしわ、鷲鼻、受け口などを強調し、役者の個性を巧みに表現。その表情やポーズはダイナミックで、浮世絵に新しいスタイルをもたらしましたが、突如として行方不明となり、謎多き絵師として知られています。
写楽の絵は役者の顔の特徴を過度に強調し、見栄えの悪い部分まで誇張して描いたため、売れ行きが良くありませんでした。通常、ファンは自分が応援する役者を美化した絵を求めるものですが、写楽の作品はそれと異なり、役者たちからも評判が悪かったようです。
多くの浮世絵師が鳥居派や歌川派など特定の流派に属し、そこで技術を磨き人脈を築いていましたが、写楽は独学で活動し、成功に必要な広範な支持者を得ることができませんでした。彼の作品には版画デザインの経験があったかの明確な証拠は少ないものの、作品自体は巨匠の技術を示しています。さらに、彼の版画は技術的に先進的で、非常にリアルに題材を描いていました。
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