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挑発する線、魅惑の挿絵:ビアズリーと『サロメ』の出会い


1893年、ロンドン。
冷たい霧が漂うこの街で、一人の若き画家が筆を走らせていた。彼の名はオーブリー・ビアズリー。まだ21歳だったが、その筆はまるで長年の狂気と知性を孕んでいるかのように研ぎ澄まされていた。

ビアズリーに与えられた仕事は、オスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』の英語版の挿絵を描くこと。ワイルドはすでにこの作品をフランス語で書き上げ、ヨーロッパの知識層に衝撃を与えていた。しかし、イギリスでは宗教的な理由で上演禁止となり、それでもなお、彼はこの作品を世に送り出すべく、英語版の出版を決意したのだった。

1893年、ワイルドは、出版社のyaeジョン・レーンと協力し、『サロメ』の英語版を出版することを決定。そこで、挿絵を担当する画家として、ビアズリーを指名した。

当時21歳だったビアズリーは、すでにその流麗で鋭い黒白の線、デフォルメされた人物、そして退廃的な美意識で知られつつあった。彼の作風は、日本の浮世絵の影響を受けながらも、独自のグロテスクな優雅さを持っていた。

運命の筆が生んだ『サロメ』のビジョン

ワイルドから依頼を受けたビアズリーは、すぐに作業に取り掛かった。しかし、彼が手掛けたのは、ただの挿絵ではなかった。それは戯曲の視覚的な翻訳ではなく、独自の解釈を加えた芸術作品だった。

オーブリー・ビアズリー『オスカー・ワイルド サロメ』挿絵 ダンサーへの褒美 1894年

彼の筆は、ワイルドの物語をさらに退廃的に、さらに妖艶に仕上げていった。

  • サロメは冷酷なまでに美しく、どこか非人間的な魅力を湛えていた。

  • ヨカナーン(洗礼者ヨハネ)は崇高でありながらも、死の運命を背負う悲劇的な存在だった。

  • ヘロデ王は滑稽で醜悪な権力者として描かれ、権力と欲望の象徴となった。

そして、最も衝撃的だったのは、サロメがヨカナーンの生首に口づけする場面だった。ビアズリーの黒と白の世界は、陰影を極端に際立たせ、死とエロティシズム、狂気と歓喜が混ざり合う瞬間を切り取っていた。

オーブリー・ビアズリー『オスカー・ワイルド サロメ』挿絵 クライマックス 1894年

ワイルドはビアズリーの才能を称賛しつつも、その中に潜む毒を感じ取っていた。「まるで早熟な少年がノートの余白に描くいたずらな落書きのようだ」と評したが、それは皮肉ではなく、本質を突いた言葉だった。

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