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クレーが最晩年に描いた『忘れっぽい天使』で伝えたかったものは?

パウル・クレーは、バウハウスを退職後、1931年から1933年までデュッセルドルフの美術学校で教授を務めていました。しかし、1933年にナチスが政権を握ると前衛芸術が弾圧され、クレーもその対象となりました。彼は批判を受け、学校から休職処分を受け、自宅のアトリエも警察によって調査されました。

この状況を受け、クレーは妻リリーの勧めで、身の安全を図るためにスイスのベルンへ避難しました。亡命から2年後、クレーは原因不明の難病である「皮膚硬化症」にかかり、体調が悪化します。晩年の5年間はこの病気と闘いながら、作品制作を続けました。

スイスに移ってからは、しばらく作品を作ることが難しかったクレーですが、1937年になると再び多くの作品を生み出すようになり、1年で1253点もの作品を制作しました。この時期の作品は、病気の影響で手が思うように動かなくても、シンプルな線や形を使った独自のスタイルが特徴的です。クレーは椅子に座りながら、黒い線で天使の絵を描き、描き終わった用紙を床に落とすという方法で制作していました。

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ヴェルデさん、かるびさんなど美術ライターも参加していただきました。それぞれの切り口のいろいろな読み物がが楽しめます。

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