
ゴーギャンの遺書―『我々はどこから来たのか? 我々は何者なのか? 我々はどこへ行くのか?』
1897年、タヒチ。
ポール・ゴーギャンは、この地に楽園を求めてやってきた。しかし、現実は彼の幻想とはかけ離れていた。欧米の植民地支配がもたらした変化により、彼が思い描いた「原始的で純粋な生活」はすでに失われていた。彼はフランス社会を離れたものの、ここでも孤独を抱え、病に苦しみ、経済的にも行き詰まり、さらに娘の死の報せを受けることになる。
「我々はどこから来たのか?」
「我々は何者なのか?」
「我々はどこへ行くのか?」
この問いは、彼が人生をかけて探求してきたものであり、彼自身の存在をも突きつけるものだった。死を決意したゴーギャンは、その前に最後の作品を描こうと筆を取る。
それが、この絵だった。

生と死の流れ
この作品は、右から左へと人間の一生を象徴的に描いている。
右端には、眠る赤ん坊と、それを優しく見守る女性たち。これは生命の誕生の象徴だ。無垢で、まだ何者でもない存在。

中央には、果実を摘む女性、語り合う二人の人物、猫や白いヤギがいる。これは人間の「成長」や「日常生活」を表している。果実を摘む行為は、エデンの園の「知恵の実」を思わせる。知識を得ること、それは同時に罪を背負うことなのかもしれない。

しかし、視線を左へ移せば、そこには老いた女性がうずくまる姿がある。
彼女の姿には、死を迎える者の静けさが漂っている。もはや問うこともなく、ただ自らの運命を受け入れている。彼女の足元には、一羽の白い鳥が佇み、爪には小さなトカゲが捕えられている。これは「言葉の無益さ」を象徴する。どれほど言葉を尽くしても、生の意味を完全に説明することはできない。

また、驚いたように腕を掲げる巨大な人物が描かれている。
彼は何を見つめ、何を思うのか。
運命か、死か、それとも人間そのものの在り方か。
その背後には、腕を天に伸ばす偶像が静かに佇んでいる。
これは「彼岸」や「死後の世界」の象徴とも解釈されている。
こうして、この作品は人間の一生――誕生、成長、死、そしてその先の未知なる世界を示唆する。この絵の中で、ゴーギャンは人生のすべてを描き切った。
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