見出し画像

池田蕉園・輝方『桜舟・紅葉狩図屏風』〜失踪から結婚へ、試練を超えた夫婦の共作

池田蕉園は、明治から大正にかけて活躍した女性日本画家で、美人画を中心に独自の画風を築きました。彼女は1886年、東京・神田雉子町に旧岸和田藩士の父・榊原浩逸と、文化的素養を持つ母・綾子のもとに生まれました。幼い頃から優れた教育を受け、1898年には女子学院に入学して開明的な教育に触れました。

1901年、15歳の時に日本画家・水野年方が主宰する慶斎画塾に入門。ここで同門の鏑木清方や池田輝方と出会い、師・年方からは「松園に負けぬ美人画家になるように」と期待を込めて「蕉園」の号を与えられました。翌年には処女作『桜狩』を発表して画壇デビューを果たし、池田輝方との親交も深まり婚約に至ります。

池田蕉園『桜狩』1917年以前

輝方が別の女性と失踪

しかし、1903年、婚約後、輝方が突如別の女性と失踪するという出来事が起こってしまいます。この事件は『万朝報』に取り上げられ、社会的にも話題となりました。失踪の背景には、輝方が下町風の遊び人気質を持ち、自由を求めていたことや、蕉園の実家との家柄の違いが重荷となった可能性が指摘されています。この事件は蕉園に深い悲しみを与え、彼女は一時的に画業から遠ざかることになりました。

画壇での成功

失踪事件から数年後、蕉園は画壇で再び活躍を始め、大きな成功を収めます。京都の上村松園とともに「東の蕉園、西の松園」と称されました。また、彼女たちは女性画家として画壇で際立つ存在となり、「閨秀画家の双璧」「東西画壇の華」と称され、当時の美術界において特別な位置を占めていました。

さらに、後年には大阪の島成園も加えられ、3人の女性画家を指して「三都三園」と呼ばれることもありました。この呼称は、東京(池田蕉園)、京都(上村松園)、大阪(島成園)という三大都市で活躍した女性画家を象徴し、それぞれの地域を代表する画家として高い評価を受けたことを表しています。

ここから先は

1,195字 / 3画像
ヴェルデさん、かるびさんなど美術ライターも参加していただきました。それぞれの切り口のいろいろな読み物がが楽しめます。

アートな読み物

¥100 / 月 初月無料

毎週末、アートが楽しくなる読み物を投稿していきます!

皆さまのお気持ちは、チケット代、図録代とさせていただきます。