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「Judy」を池袋グランドシネマサンシャインで観た
デジタル化が進む中で、すべてのコンテンツの消費の仕方が変化している。それは一言で言えば、加速化であり、消費者のLong-form(長尺)のものへの忍耐力の低下である。
Audioコンテンツは、早送りというよりは、聞き流すという形で、長尺のものを散漫に聞き続けるという消費形態が残っている。
僕も、AudibleやPodcastでLong-formのインタビュー番組や小説を流し聞くことが多い。
状況は、寝ながら、電車の中、散歩しながらなど様々だ。ここ数年のAudio Readingの結果、散歩しながらというのが、一番、Listeningの集中力が継続するということがわかってきた。
ベッドの中でのListeningは、良き睡眠薬になるという事実には抗えない。
これに比べて、映像コンテンツは、もろに、加速化、Short-formへの圧力を受けることになった。
ストリーミング全盛時代が到来する前にも、レンタルビデオ、録画番組をFast Forward(早送り)するというテクノロジーが、完璧に、動画を見る消費者の従来のスタイルを完全に破壊した。
リアルタイムでの視聴は、スポーツを除けば(僕の場合は排他的にサッカーだが)苦痛でしかない。
ドラマや映画を見るときにも、筋を追うということへの欲求が過度に刺激されてしまうのである。筋へと向かう、ゆったりとした複線などがまどろっこしくなってしまう。
その意味で、僕たちは、家庭で映画をじっくりと観るという習慣を失った。どれだけ録画しようが、ストリーミングだろうが、テレビスクリーン、PC、スマホの前で、1時間以上かけて、映画を見ることに耐えられなくなってしまったのだ。
しかしこうしたデジタル化の結果、物理的な映画館というものの意味が再び生まれてきたのだ。その意味でもデジタル化の帰結は、案外、いったりきたりなのだと思う。
先送りの強迫衝動を抑制しながら、映画を観たいと思った時には、映画館に行くようになったのだ。そこまでして観たい映画が増えたということではないのだが、確実にひと月に一度は、映画館の暗闇の中に座りたいと思う自分が再び帰ってきたのだ。
しかし人生というのは過酷なもので、ゆるやかに帰ってきた古き良き映画鑑賞のスタイルを、視えないウィルスが狙い撃ちした。
欧米で発生している感染者数の急激な増加(Overshoot)を避けるための、社会的隔離(Social Distancing;しかし聞きなれない新語がどんどん生まれてる)方針の結果、映画館というものへ行くのにも二の足を踏むようになった。
しかし、僕には、観たい映画があった。
大好きな女優のRene Zellwegerが6年ぶりに主演し、アカデミー賞主演女優賞を見事獲得した”Judy"である。
ハリウッドの神話時代を代表するJudy Garlandという女優の最晩年のロンドンコンサートを舞台にした映画だ。
もう一つ観に行きたい理由があった。
主題歌の「虹の彼方に」(Over the Rainbow)だ。
自分の好きな曲を1曲だけ選べと言われると、「見上げてごらん夜の星を」とデッドヒートはするものの、やはり、迷うことなくこの曲を選んでしまう。
実際、Judyという映画で初めて、ハリウッドの神話時代後の彼女の人生というものを知ったくらいだ。
映画の検索サイトで、最近、気に入っている、池袋のグランドシネマサンシャインの時間と、空き具合を調べた。すると一つの発見があった。
この映画館は、感染症対策として、並び席の予約をできなくしていた。つまり、必ず自分の隣の席は空席なのである。
これを見て、一気に、観たい気持ちが、不安を押し切った。
僕の場合、映画鑑賞というのは、映画を観るところで終わることはほとんどない。見終わったあとに、映画批評を読んだり、原作本がある場合は、それを購入したり、関連情報を集めたりすることで大体その後24時間は楽しむことになる。
Judyという映画の中で、Gay Iconだったらしい(これも初耳)JudyとLGBTのファンの心の交流などに滂沱の涙を流したり、問題を起こして首になったJudyが最後に舞台で心を込めて歌う、最晩年のリアリティが溢れ返るOver the Rainbowを複雑な気持ちで眺めるとか、手放しで礼賛したいというわけではなかったが、Rene Zellwegerのほとんどビョーキとしかいいようのない役の造形など、見て損はない映画だった。
ハリウッド黄金時代のIconであったJudyは、子役時代から激務をさせるために映画スタジオから鎮痛剤や精神安定剤を過剰に投与された。クスリと酒が彼女の精神を蝕み、それがその後の仕事での問題を引き起こし、スタジオと対立する中で、そのキャリアも転がるように落ちて行った。途中で「スター誕生」という傑作を生みだすのだが、これもスタジオとの対立のため、アカデミーの栄光を手にすることはできなかった。
この映画では、最晩年、幼い子供たちの親権を元夫と争いながら、家族で暮らすことだけを夢見て苦しいロンドンのキャバレーレストランでのコンサートに心身をすり減らすJudy、彼女に憑依したRenee Zellwegerが圧倒的なリアリティで描き出している。
後で読んだNew York Timesの映画評の中に、こんな文章があった。さすがプロだなと思う表現だ。
It shows the highs and some of the lows, piles on the strained smiles and upbeat tunes, embracing the woman even as it tries to temper the despair that comes from watching someone die in slow motion.
誰かがスローモーションで死んでいくのを眺めることから生じる絶望を和らげようと試みながら、この女性の人生を受け入れるように。
しかしRenee Zellwegerは、緩やかに死に向かいつつあるJudyが、舞台での観客への愛情を信じて、最後まで戦い続けた、というメッセージを強く発信し続けていた。
ラストシーンで、精魂尽き果てた状況で、最晩年のリアルなJudyとして歌うOver the Rainbowと、それを支える観客たちのこの曲に対する愛情のエールという、少しのフェアリーテールの後に、私のこと忘れないわよねという強い表情のJudyでこの映画は終わる。
見終わってから、24時間ぐらいこの映画のことを考えてきた。
書きたいことを様々あるが、結局、僕にとって、死ぬ前に聞きたい曲はOver the Rainbowであるということが確認できたということが一番重要だった。
そしてそれは、落魄のJudyがリアルに歌うOver the Rainbowではなく10代のJudyが、ドロシーが、歌うOver the Rainbowだということだった。
様々な醜さの結果、この永遠の希望、憧れというものが生み出されたというところに人間というものの不思議さが満ちている。