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都知事声明の翌朝も地下鉄は混んでいた

都知事のテレビでの声明を観ながら、カミさんが今日はオフィスに行くのと言われた。

あたりまえだろうといいつつも、地下鉄は空いてるのかなと思った。

しかしいつもより早く出たのに地下鉄は軽く混んでいた。でも都知事の声明は、僕も含む都民の行動にさほど影響を及ぼしてはいない。

なぜだろうと思った。これもまた政治というものに対する不信だと思った。

今、言っていることは別に間違ってはいない。しかし、なぜこのタイミングか。やはりオリンピックを実行するということが、今回のアウトブレークへの対策に影響を与えたことが明らかなように見えた。

それが正しいかどうかはわからない。日本の景気浮揚にはオリンピックが必要であるという政治的方向性のもと、もし今回の感染症対策に手心が入るとすれば、それは、景気どころか経済システムの壊滅というカタストロフィに立ち至る可能性があるのだ。

不確実性の中で、判断するものには、その判断に対する結果責任がある。政治というのは究極には結果責任だ。

不確実性の中では正解などない。だから、考えられる限り、多数の情報と正しい論理性のもとで判断した結果を政治リーダーが判断し、それに対する政治責任を取る。

困難な時期におけるリーダーの判断にその筋道が通っているのならば、僕たちは、僕たちの選んだ政治リーダーの判断に委ねるしかない。

そして政治的リーダーは、自らの判断が望ましい結論をもたらすことを祈りながら、眠れない夜を過ごす。

そうなってはじめて、政治家というものへの一定の尊敬や信頼が生まれるのである。

このタイミングでの、ロックダウンの可能性についての声明は、そういう観点から見ると、彼女の政治的保身にしか見えなかった。そうであるかどうかはわからない。オリンピックの延期があろうとなかろうと、専門家の意見に基けば、こういう刺激的な声明をすることが適切なのかもしれない。

しかし彼女のコミュニケーションは、僕に対してはそういう印象をもたらさなかった。

僕は、そこに政治的保身以外のなにものもみなかった。それが正しいのかどうかはわからない。ただこの局面でこの発言をすることには、さほどの政治的リスクがないだろうなというのは明らかな気がする。

ニューヨークタイムスにはニューヨーク市民の悲鳴のようなコラムが掲載されていた。

Trump to New York: Drop Dead
トランプ政権によってニューヨークは「即死状態」というような感じの記事だった。


オフィスは閑散としている。まだ朝早いせいもあるが、都知事の声明は、今日の人々の行動にどのような影響を及ぼすのだろうか。大都市東京を待ち受けているのは、どのような未来なのだろうか。

多くの政治家のメッセージに若干疑念を感じつつも、日本が置かれている状況が予断を許さないというのも事実だ。現状で、ロックダウンの可能性まで含めたメッセージを発するというのは一つの政治的判断である。政治家の心の中に彼らなりの功利主義があるからといって、それを受け入れねばならない。そういった政治家の覚悟の上の判断から目をそらすことなく、今後の決着を見きわめていかなくてはならない。

脅し文句だらけの世の中でも、自重しながらでも、活動を止めることはできない。活動を続ける、働き続ける、人とコミュニケーションをするということがまさに人間の条件だ。自然の脅威の中にあっても、コミュニケーションする動物であるという条件に基づいて、サバイバルの努力を続けていくのだろう。

そんなことを、考えながら、東京の街を眺めている。


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