「最愛の人の他者性」
これは、この前読んだ平野啓一郎さんの『本心』に出てくる一文だ。
読後から一月ほど経つが、どうしてもこの一文が頭から離れない。
僕は小説家の力量というのは、たった一語、一文だけでもいいから読者の心に刻み込めるかどうかだと思う。それも可能な限り長い期間に渡って残るように。
そうすれば読者が物語という装置をくぐり抜け、この現実の世界へ戻ってきた後も、彼ら彼女らの生活に何かしらの影響を与えうる。それは大概の場合、無意識的な形で。
そして、そのような物語に出会えることはかなり稀だ。だいたい10冊読んで1冊。運が良ければ2冊あるかというくらい。
試しにあなたの本棚に飾ってある本のタイトルを左上から順に見ていって、一語、一文だけでもいいから思い出せるものがいくつあるか数えてみてほしい。
おそらくそこまで高い割合ではないと思う。
そこにきて平野啓一郎という作家は僕に相性がいいのか、毎回何かしらの言葉を残してくれる。
おそらくその「相性の良さ」というのは作家と読者の思考の傾向みたいなものが似通っているということなのだと思う。
そういう意味では冒頭に引用した一文はまさに僕が普段から思っていることで、とても大事にしていることだ。
少し言葉を変えると「いま目の前にいるこの人は、僕が目を離しているときおそらく違う人物になる」ということだ。
何気ない会話でしばしばこのようなセリフを聞かないだろうか?(あるいは発していないだろうか?)
「あの人はああいう人だから」
「まさかあんな人だとは思わなかった」
僕はこういうセリフを聞くたび、なんて身勝手なんだろうかとうんざりする。
どうして自分の知っていることがその人の全てだと思い込めるのだろうか。
どうしてその人には別の側面があることに想像が及ばないのか。
一方的に他者を理解したと思い込むのはなんと傲慢なことだろうか。
平野さんの小説には一貫して「分人」という概念の探求がある。分人とは簡単に言うと、今まで一人の人間を表す際の最小単位だと考えられてきた「個人」をさらに細分化したもので、個人とはその分人の集合体であるという思想だ。
つまり、分人の数だけその人には別の顔がある。
冒頭に引用した一文にある「誠実さ」とはつまり想像力を駆使する事。
いま目の前にいる人に対して「この人はこういう人だから」というように結論を出してしまうのではなく「まだ自分の知らない別の顔がある」と判断を保留することである。
僕はそれを人間としてとても誠実な態度だと思う。
なぜなら、判断を下してしまうのはあまりにも簡単だからだ。「この人はこういう人である」というレッテルを貼ってしまえばソートアウトすることはあまりに簡単で、なにか劇的な事件でもない限りそのレッテルを修正する必要も生じない。一時的な安心を得られる。
それに対して分人的な視点で他者と接するということは絶えず努力が求められる。それは無数に存在しうるその人の別の顔を想像し、判断を保留し続けること。そしてたとえ、長い時間をかけてようやく見つけ出したレッテルであっても、それを絶えず編集する必要性に迫られる。
「そんなことを考えて人と接していると疲れないか」と誰かは言うかもしれない。
もちろん楽なことではない。
僕だって数回しか会ってない人に対して「あの人はこういう人だから」と思えるようになりたい。
だけれどもそれはできない。
なぜなら、やはりそれは他人と接するにあたって「誠実な態度」とは思えないからだ。
特に冒頭の一文のように「最愛の人」に対してであればなおさらそのような傲慢な振る舞いをすることはできない。
時には思い誤ることもあるだろう、あるいは思慮に欠けた判断をしてしまうこともあるだろう。
それでも僕は、目の前にいるその人の「他者性」と向き合うための努力をいつだって惜しまない。