1954年のパリ、街角に立つ

目黒区に住んでいる僕はある日、通勤路の区民情報掲示板に貼ってあるこのチラシを見つけた。

一目で心を奪われた。

写真内の建物の際立った赤色も目を惹いたし、チラシの字体や配色も好みだった。そして何よりこの写真の構図がすごく好みだった。

奥にいるベージュのジャケットを着た男性が階段を降りていて、手前の男性がそちらを振り返る。

たったそれだけの写真なのに何故か強く惹き込まれた。撮影者はたまたまその瞬間その場に居合わせただけのはずなのに、それはまるで映画の撮影のように全てが念入りな準備の下に示し合わされたシーンかのように思われた。

木村伊兵衛という写真家のことは初めて聞いたけれど「絶対に見に行こう」と心に決めた。

それから数日が経ち、写真展の開催期間が始まった。

家から展示が行われている目黒区美術館へは歩いてすぐだった。

チケットを買って足早に会場へ入る。

会場内はテーマに合わせて4つのエリアで区切られていたのだけど、1つ目のエリアにある写真を見てすぐに「来てよかった」と思った。

見ていく中でパリの競馬場で撮られたあるカップルの写真に目が留まった。

その写真を見ながら、二人の人物像や関係性を想像した。

「歳はいくつくらいだろうか?」

「どんな職業に就いているのだろうか?」

「二人にとって何度目のデートだろうか?」

そんなことを考えていると、どうしても二人が身につけているものに目がいく。

ファッションはその人がどんな人物であるのかを端的に表していると思う。「そんなもの表面的なものじゃないか」と言う人もいるだろうし、それを否定はしない。だけれども、やはり身につけるものに滲み出るその人の生活、人格の色は間違いなくある。

この写真が撮られた1954年は決して豊かな、生きるのに楽な時代ではなかっただろう。

稼ぎ出したお金から生きるために必要な諸費を差し引いて残ったわずかながらのお金で二人は洋服を買い、この日のために自らを精一杯着飾り、ここに出掛けてきた。

そんなふうに作品を見ながらそこに映る人たちの生活を想像した。彼の写真は、自分がまさにその場でカメラを構えてその景色を見ているような気持ちにさせる。

誰かが撮った写真を見てこんな風に思ったのは初めてだった。

そして見ていくうちに、なぜ僕が彼の写真に一瞬にして魅せられたのか、その理由がわかった。

それは写真内で描かれている「日常」だった。

もっと言うと木村伊兵衛の写真は「日常の尊さ」を切り取っているような気がした。彼の写真はどれも、見るものを惹きつけるような派手さはない。被写体は歴史的建造物でもなけば、壮大な自然や著名人でもない。

それは1954年のパリでそれぞれの日常を営む庶民だった。

僕は思う。「人々の日常ほど尊いものはない」と。

皆生まれた時代の社会や経済に大きな、時には壊滅的なまでの影響を受けながらも、なんとか自分の居場所を確立させていく。

仕事を見つけ、住む場所を見つけ、自分や愛する家族を養っていく。その様子こそ何よりも尊く、価値のあるものではないか。

国や時代が違えば、人々の生活の景色も変わるが、根底にある人々が送る日常の尊さというものは変わらないだろう。

その時代、その社会に必死にしがみつこうとする姿は何より美しく、僕はそれにどうしようもなく心を惹かれる。

僕がそんなことを思うのはおそらく、22歳で初めて海外へ行って以来、15カ国ほどを訪れてきた経験からだ。

ロンドンの中心地で、見るからに高級そうなスーツを身に纏って颯爽と歩くバンカーも、ポーランドのレストランで僕のテーブルに置くはずのフォークを床に落として、はにかみつつ謝ってくれた彼女も、あるいはフィリピンで空港から宿までの道中、片言の日本語でなんとか話を盛り上げようとしてくれたタクシーの運転手も、みんなそれぞれの日常を生きていた。

それまでは日本という社会の中での人々の在り方しか知らなかったけれど、他の国にいる人々の様子を見たときに、そこにある普遍性みたいなものに気がついたのだと思う。

でも、実を言うと僕はそれより昔、10代の頃には日常の価値を認めるどころか「一廉の人物」になれない人生に価値なんてないと思っていた。

そして、もしそうなれないのであれば、あるいは初めからそのような存在になれる可能性が断ち切られているのであれば、いったいどうしてこの苦悩に満ちた世界を生き続ける価値などあるのかとすら思っていた。

だけれどもさっき言ったように異国の地で日常を送る人たちの姿を見たとき、僕が「価値のないもの」として切り捨てていたものの中に間違いのない光を見つけた。

それは決してあの選ばれたものだけが持つ、直視することすら憚られるほどの眩い光ではなく、注意深く目を凝らさなければ見ることのできない、微かな光。

しかし、その光は弱くともさまざまな色彩を持ち、確実に光っていた。それは自分が気づいていなかっただけで、いつもそこにあった。そしてそれこそがあの実態のない「社会」というものだった。

そのようにして日々を送ることに何か「意味がある」とは今でも思わない。けれども、意味がある必要なんてなくて、ただ日常というものがそこにあるだけ。そうやって人々はずっと昔から日常を紡いできた。時には必死の想いで。次の世代へと。

そんなふうに考えると、決して特別な人になどなれなくたって、自分の人生には意味があるのだということを感じられる。

そしてその気付きは僕がずっと忌み嫌っていた「社会」という場所に対して少しの親近感を与えてくれた。だからたくさんの国を見て回って日本に帰ってきてから、この日本という社会の見え方も大きく変わった。

この国を生きる人たちの日常にも間違いなく「光」はあって、それに気がついてからは以前のような閉塞感や絶望感に悩まされることもなくなった。

ずいぶんと話がずれてしまった気がするけれど、とにかく僕が言いたかったのは木村伊兵衛の写真はかつて僕が異国の地で感じたあの感覚を思い出させてくれたということ。それはまるで、久しぶりに海外旅行にでも行ったような気分だった。

もしこの記事を読んだ人がいるのならば、そしてもし可能ならば、ぜひ目黒区美術館へ足を運んで彼の作品に触れてみてほしい。

そして、木村伊兵衛という人の目を通して擬似的に1954年のパリの街角に立つという体験をしてみてほしい。

僕も会期中にあと一度は見に行こうと思う。

目黒区美術館HP
https://mmat.jp/exhibition/archive/2022/20220219-359.html

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