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「写真の本質」を語る人を信用してはいけない理由

こんにちは、路上写真家のTokyo Street PIX/TPIXです。

今日は、「写真の本質」について考えてみたいと思います。

昨年、どこかの炎上系写真家がXで「写真の本質」を知らない写真家が多すぎるとケンカパフォーマンスをしておられましたが、そもそも「写真の本質」って何なのでしょう。

よく分からないのでChatGPTに聞いてみたいと思います。

写真の本質とは、「時間」「感情」「視点」を光によって切り取る行為そのものです。それは、過去と現在、個人と社会、真実と虚構の間をつなぐ媒介であり、私たちの感性や思考を豊かにしてくれる存在です。

写真とは、世界を見る新たな窓であり、その窓を通して何を見つけるかは、撮影者と観る人それぞれの心に委ねられています。

ChatGPTより

上記は統括の部分ですが、これ以外にも記録、表現、対話、哲学的、デジタル時代の各視点から、「写真の本質」についてレポートを作成してくださいました。

統括だけをみると、光を切り取り、対照的なものを結ぶ役目があり、写真という窓に何を見つけるかは撮影者と鑑賞者に委ねなれるという、分かるような分からないようなフワッとした結論でまとめられています。

この写真の本質について、少し前になりますが、2B channelの渡部さとる氏と、現代写真研究者の北桂樹氏の名古屋で開催された写真展のトークショーにて、話題に上ったことがありました。

簡単にいうと、『「写真の本質」をわかっている人がいたら、その人は信用してはいけない』ということです。

なぜなら、写真は時代とともに常に変化していくものですし、ある一定の時期の写真については語ることができたとしても、現在(2025年)の写真について2025年の今、これからどこへ向かうかも分からない写真を語れる人がいるわけないという理由です。

例えば2000年同時、カメラはフィルムが当たり前の時代であり、デジカメはまだ300万画像未満でプロが撮影で使えるカメラはほぼありませんでした。

また、この時代に写真を撮影から出力まで、全てデジタルで取り扱う人がどれだけいたでしょうか。

撮影:Tokyo Street PIX.  @皇居

解像度が低かったとしても、デバイスに表示するという発想はほぼなく(デジタルフォトトフレームはありましたが…)、フィルム写真と同じようにプリントしたものを「写真」としていた時代に、プリントもせずにデジタルデータだけのものを写真とは呼べない風潮はあったと思います。

一方で昨年(2024年)は「AI元年」と言われたように、生成AIによる写真が大量に出回るようになりました。

データの元ネタは、誰かが撮影した写真かもしれませんが、AIによって出力されるものは、現実世界には存在しない街であり人です。

ここまで来ると、今の感覚だと写真というより “画像” なのでしょうが、こういった評価もあと5年、10年経てばまた変わっていると思います。

このようにして、写真というのは誕生して以来、常に変わりながら存続しているものなのです。

撮影:Tokyo Street PIX.  @玉川田園調布

そこには、「本質」と語れそうなものが横たわっているのですが、いざ解剖しようとしてみても、何がどうなってどういう構造で、どんな意味があってどう機能しているのかは、分かるようで分からない得体の知れないものが「写真の本質」だということです

ですから、良い子のみんなは『「写真の本質」を教えてあげるよ』という悪いおじさんにはついていかないようしましょうね。

2025年は「写真の本質」なんて考える暇があったら、1枚でも多くの写真を撮ろうと思います。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。またお会いしましょう。路上写真家のTokyo Street PIX/TPIXでした。

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