幸福度ランキング56位の日本!私達や子供達は日本で暮らし続けていて、本当に幸福になれるの? なれないの?
2021年の日本の幸福度ランキングは、世界149ケ国中56位! それって、どうなの? その幸福指標となるのは、
1. 一人当たり国内総生産(GDP)
2. 社会保障制度などの社会的支援
3. 健康寿命
4. 人生の自由度
5. 他者への寛容さ
6. 国への信頼度
の6つの指標スコアの合計によるもの。1位のフィンランドは、7.842ポイント、56位の日本は5.940ポイント。スコア差は歴然で、1.92ポイントの差。
国内総生産(GDP)は、日本は世界第3位。1位アメリカの約1/4、2位中国の約1/3なので、ここに追いつくことはもはや不可能。日本の少子高齢化によるGDPの減少は否めないので、現在6位のインドに追い抜かれていくこともそう遠いことではなく、近い将来において、GDP5位以内から陥落の足音も聞こえてくる。
日本人が抱えている不安や悩みごと
生活レベルの不安や悩み事をピックアップしてみると、日本人が直面している個人課題や社会課題としては、コレ。
全てを網羅できている訳ではないとしても、世代別の不安や悩み、切羽詰まった悩みや苦しみ、漠然とした不安は、大なり小なり誰もの心のどこかに居座っている実感アリアリ。個人的には「進路」「いじめ」「就職」「人間関係」「パワハラ」といった社会課題に直面してきた感がある。
「幸福度」指標に思うこと
<1. GDPについて> GDPをわかりやすく表現すると、1年間でどれだけ付加価値を生み出したのか?=「現存価値の数値化」。今存在している価値は必ず劣化していく。GDPの成長鈍化や減少は「新たな価値創造力の欠如」とイコールなので、国が今現在において経済牽引力のある(輸出力のある)一部の優良企業を支援することも頷けるが、ジリ貧感は否めない。そうすると、総合的な突破口のカギとなるのは、「一人当たりのGDPのプラス成長=価値創造力の向上」つまり「起業力」の推進(量と質)にフォーカスすべきだろう。その上で、付加価値を拡大するめ、仕入れコストをできる限り縮小し、売価を水準を高めていくことが重要になる。ちなみに一人当たりのGDPが突出しているルクセンブルクは、金融サービス業にシフトチェンジしたことが要因とされる。金融サービス業は、仕入れや物流コストはほぼゼロのため、買い手さえつけば付加価値を拡大することが可能だ。
<2.社会保証制度について> 日本の社会保障費は「年金」と「医療費」が約7割をしめる。この二つはこれからも国家予算を圧迫し続けるのは明白。どう勘案しても「年金」の支払いを遅らせつつ、削減する以外の方法はなさそう。年金だけで生活を営むには、ローン完済の持ち家があり健康でなければならない。病床生活や介護が必要になるってくると、年金のみの生活では破綻してしまうことだろう。高齢者にとって、幸福な老後生活を営む姿を描けそうにない。メドとしては、50歳代を終えるまでに、何某かの定期的な収入源=最低限の生活費を担える金額を得られる手段を作り上げておく必要がある。
<3.健康寿命について> 「ピンピンコロリ」(病気に苦しむことなく、元気に長生きし、最後は寝付かずにコロリと死ぬこと、または、そのように死のう)は理想的ではあるけれど、健康維持のための運動、トレーニングを日々実施しつつも、いつ認知症や病気に苛まれるかはわからない。家族に負担をかけたくはない。もしくは一人暮らしの場合は、介護してくれるであろう頼り手もいない。ケア型の施設入所もかなりの高額になる。
<4.人生の自由度> 幅広く漠然とした指標ではあるため、自由度があると感じる人と、それほどでもない、感じない、とさまざまで個人差がありそうに思える。職業選択の自由はあるけれど、必ずしも転職によるキャリアアップやスキルアップに直結するとは思えない。
<5.他者への寛容さ> 募金や寄付が一つの評価軸になるらしい。主観的にわかりやすくいえば、家族や親戚ではなく、血縁以外の他者を対象とした生活困窮者への寄付、社会的弱者のためのボランティアサポートも含まれる。そういった助け合い意識と具体的な行動が日常化しているかどうかが問われている。現代では、たとえ家族や親族であっても助けあうことは容易ではない。
<6.自国への信頼度> 日本を愛しているだろうか? 政治的リーダーを信頼しているだろうか? 社会の相対的な善を信頼しているだろうか? 子供達に明るい未来を提示できるだろうか? 引退後の自らの未来を安心して託せるだろうか? 「老後資金」というワードがフォーカスされているが、一般社団法人 全国銀行協会が発表している金額としては ” 毎月の公的年金の不足金=赤字分が67,500円/月、年間で810,000円、老後期間を30年として、810,000円×30年=2430万円 ”という算出らしい。毎月の赤字をいかに減らせるかかカギとなる。
これらを書き出してみると、日本の幸福度56位は頷けるものだし、毎年下落していってもおかしくない、、そう思ってしまうのは私だけではないように思える。個人力を高めつつ、成功と手法を分かち合って、
【今、知りたい!】 「あなたは幸福ですか?」
出会える人たちみんなに聞いてみたい。「あなたは幸福ですか?」「それは漠然としたものですか?」「明確な幸福ですか?」「なぜそう思えるのですか?」と。
<幸福パズルのピース>
◉そもそも「幸福」って何?
◉「幸福」は一時的なモノ?一生モノ?
◉「不幸」でなければ「幸福」といえる?
◉幸福度が低い国で、幸福になれる?
◉「幸福」であり続けるには、どうすればいい?
<「幸福」とは何?「幸福」は一時的なモノ?永続的なモノ?> 知の巨人といわれるアリストテレスは、幸運と幸福を切り分けていて「一時的な幸運は幸福ではない」と位置づけている。つまり、永続性がなければ「幸福」ではないとしている。このことには同意!
私は「旅」が好きだ。訪れたい場所や国があり、日々、一生懸命仕事して、貯金して、観光して、帰ってくる。仕事には理不尽なこともある。腹立たしいこともある。仕事を全うしたにも関わらず支払いを減額されることもある。旅行資金を手にしても予定していた日程でチケットを取れず、旅行期間を短縮せざるを得ないこともある。旅先で観光客を狙ったスリにあうこともある。財布を盗まれてしまうこともある。アジア人というだけで差別されることもある。訪問予定先が複数箇所あるために1つの場所の滞在日数や時間も限られる。ホテルの部屋がイマイチだったりする。食事が美味しくなかったりする。言葉が通じなかったりする。そういった不運と不運の連続の隙間に「思い」がちょっぴり満たされる瞬間があって、少なからずの「ハッピー感」を味わうことがある。「やっぱり旅っていいなぁ」とか「来てよかったなぁ」と自己暗示トリックに騙される。そしてまた旅の計画を立てる。____どこでも行きたい国を自由に往来できたとしても、それらは、異文化を体感したいという興味を満たす機会を「幸運」にも手に入れることができて、「幸運」にも体験することができて、「幸運」にも無事に帰国できただけだ。「旅」に「多幸感」はあっても、旅そのものが永続的な「幸福」のスイッチにはなりえない。
私は「ライブ」が好きだ。コンサートに足を運ぶ。大中小の箱があるが、中小の箱はスタンディングライブが多い。後半は結構しんどい。大きな箱であっても音質は決して良くない。ライブを音質で評価するのならば、音源データの方が圧倒的に優れている。ヘッドフォンでノイズなく聞く音質と比べたら雲泥の差だ。当然ながらMP3音源よりもCD、CDよりもハイレゾの方が高音質だ。ライブの価値は、瞬間の空気感にあると思っている。ライブが始まる前のちょっとした緊張感や待ち侘びた感。音の立ち上がりや音の消え方、アーティストの渾身の歌声やパフォーマンス、そういった一体感や一生懸命さに心惹かれる。「旅」と同様に「多幸感」は感じられる。「多幸感」が無限に持続するならば「幸福」といえなくもないが、ライブが終了すれば日常生活のパターンに戻っていき、その「多幸感」は薄れていく。____アーティスト本人はどうだろう? アーティストになることに憧れ、一生懸命に曲づくりし「幸運」にもプロになり、「幸運」にもヒット曲を生み出せて、「幸運」にも大きな箱でライブができている。「幸運」にプロになれたとしても、ヒット曲に恵まれずに消え去っていくアーティストもいれば、1曲はヒットしたけれども、その後ヒット曲に恵まれず引退、あるいは喉を壊して引退、、、そういった「不運」はいくらでもある。ということは「創作活動」や「職業」の中に永続的な「幸福」のスイッチは存在しえない。
私は「仕事」が好きだ。紐解けば、自分の着想やスキルが社会の役に立つことが好きだ。「仕事」には相手が存在する。クライアントとエンドユーザー(消費者)だ。クライアントの中には先見性と投資力があり、新しい価値を創造していくことに積極的な企業もあれば、即売上につながる結果を求められる企業もある。信念と真剣さを伴っている限りどちらも大好きだ。ゴールに向かって、お互いが能力のすべて、最大限の努力を注ぎ込む。しかし担当者の資質によって左右されることが多いのも事実だ。推進していくために壊さなければならない慣習や思考が少なからず見えてくる。クライアント側の担当者が柔軟な思考をされる方の場合であれば協業しやすいが、「これまでこれでやってこれた!なぜ変えなければならないのか!」という過去の実績や手法こそが最強最良と位置付けられる場合、強く抵抗否定され、関係のない観点から足を引っ張られることもある。最悪の場合、プロジェクトから追い出されることや、プロジェクトごと消滅する場合もある。クライアントと共鳴協業できたとしても、エンドユーザーに刺さらなければ、プロジェクトは完結しない。刺さらなければ、その責任は外部の立場である私に押し付けられる。それが一連のパターンだ。「仕事」は好きだが「誰とやるか」と「結果」に左右されることは否めない。「幸運」な仕事もあれば「不運」な仕事もありえる。つまり、大好きな仕事の中においても、永続的な「幸福」のスイッチは存在しえない。
「幸福」はどこにあるの?
いくつか紐解いてみると、相手や置かれた環境(「外」)に左右される限り「幸運」と「不運」は繰り返されていくことがわかる。では「幸福」はどこにあるのか? 探究していくと「幸福」は「外」にはない。「外」になければ「内」にしかない。「内」になければ「幸福」そのものは存在しないということだ。「内」とはどこ? 心のこと? そういった観点を探究していくのが仏教であったり、さまざまな宗教であったりするわけだが、精神的コアへの探究を促す「聖なる力」が存在することは誰も否定できない。 どんなに科学が発達しても、心臓の構造を解明できたとしても、なぜ心臓が動くのかはわからない。なぜビッグバンが起こって宇宙が誕生したのかは解明できない。 宗教を宗教たらしめた「力の原点となるもの、起点となるもの、原因そのもの」が存在するはずだ! その「聖なる力」であり「原因そのもの」の探究にとても興味がある。「聖なる力」に近づくことができるのであれば「永続的な幸福」に必然的に包まれることになる。あらゆる宗教は、この「永続的な幸福」に至るための道標であって、それぞれの教えの実践がその扉の一つ一つということになる。
何から始めればいいのかもわからない。どうすればそこへ到達できるのかわからない。そうやって数十年があっという間に経過しつつ、探究すべきキーワードのいくつかをキャッチアップすることができた。それらは、「①滅私=セルフレス」「②奉仕=セヴァ」「③瞑想からの三昧=Dharana・Dhyana・Samadhi(ダーラナ・ディヤーナ・サマーディ=集中・瞑想・三昧)」「④叡智の知識」この4つを体得体現することによって「永続的な幸福」への流れの深海の旅、内なる旅を続けることができるようだ。