「短編コント」 古葉野次秀雄の青春の日々
ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)
* 答えはいつも問いのなかにある
1.
その頃はお金もうけの資本主義にまみれていた
誰でもが宗主国のアメリカにかぶれ、義務教育の段階から、力は正義、お金は幸福のもとといって、右向けアメリカの号令のもとに英語をしゃべることが最高のステイタスになっていた
大学在学のときから会社起業を考えて、元来は歴史を見ても虐げられた身分の低いものが反乱を起こし国を建て、虐げられた貧乏人が会社を起こしてエリートを取り入れてるのが、アメリカのみならず至るところに見られる現象だった
資本主義のあだ花、娯楽やスポーツ産業の金まみれ行為は大いに好意的にテレビマスコミに推奨されもして、利権の恩恵にもあずかっていた
そんなナカにあっても、いつの時代にも異議を唱えるのも若い人の特権だった
無理だとわかっても、一度は激しい恋をしたいと思う若い女性にも似て、若い青年には立ちはだかる社会や人生のあれこれに対して立ち向かっていきたい、難しい問題を思いきり追求したい衝動にかられるのも事実だった
そんな思いにかられていた若いころの古葉野次秀雄
じつは、じぶんを揶揄した京都文壇の総帥西田鬼太郎と対決するために京都に向かう前日のことだった
ある禅寺の近くを歩きながら、草花が茂っている中を何処そこに自然のマイナスイオンを感じていた
思索するにはもってこいの場所だね、そこはかとなくいい気分だった
🎶 赤いソテツの実もうれるころオー、カナも年ごろオー、カナも年ごオーろ、大島そだちぃー
バタやんか、いいな、田端義夫、若いやつは誰も知らないだろうな
古くても歌は、渋めな歌手が好みの古葉野次だった
さすがは後の保守陣営
2.
そんないい気持ちで、道並みをツボウチ逍遥していたら、前方の大きい木の枝に、何かがぶら下がっている
なんだろうと思って近づいて見たら、なんと近くにある禅寺の坊さんがぶら下がっているみたいだった
両手を使わないで横に下げて、口だけで枝を噛んでぶら下がっていた
曲芸のけいこかな、でも坊さんがこんなバカことをするわけがないし、ふと回って背中を見ると何か紙フダがついている
「いま両腕が使えません、でも人生とは何かを知りました、ふぉー」
変わってるな、どういう意味なんだろう
でもなんだろうな、人生とは何かを見つけたとは
こっけいな、ぶら下がった坊さんの風景を違和感なしにのんびり見ながら思っていた
あの坊さんが見つけた人生とは、いったいどういうものか知りたくなった
聞きたいのはやまやま、でもいま両腕が使えないといっている
口を開けば、口が開いて落っこちてしまう、でもカレの人生の秘密も聞いてみたい
そんなことをなんとなく思案していたら、後ろから声がした
「おじちゃん、何してるの」
ふり返ってみれば、不二家のペコちゃんポップキャンディをしゃぶっている、まだ小学校を上がる前の子ども
何してるのって、何もするわけがなく、答えてもお前なんかのお子さまにわかるわけがないし、ええ、少しばかり人生について考えてまーすなんてシャレにもなんねえゼ
「悩んでいないで言ってみたら、気が楽になるよ」
「ありがとうございます、じつはね、前の木に坊さんがぶら下がっているだろう、坊さんに話を聞きたいと思ってるけど口がふさがって聞けないの、どうしたらいいとキミは思うかな、ご意見をお聞きしたいんですけど、できるかな」
「簡単じゃん、ぶら下がっているときには、お坊さんに聞かないよ」
そういって、ペコちゃんのポップキャンディをしゃぶりながら、その場をスタコラさっさと立ちさっていった
ただ古葉野次はそこに立ちすくんで、少年の後ろ姿を見つめているばかりダッタ
出典:japan food
不二家ポップキャンディ、いちご味
ミルキーもあるよ