「短編」 本に宿る、生命
読書とは他人の自我を聞くことだ、とニーチェが言ったらしい。
じっさい以前、作家の伊藤整の『文学入門』とか『小説の方法』を読んだときに、「近代小説は自我の発露である」と言い切っていた。この人は、大学は経済出身なのに文学に博識であり専門は英文学であったようです。
シェイクスピアみたいに自我が出てきて、他の芸術も自我のオンパレードになり本人たちはいいけど、ゴッホなんて遠くで見ていたら面白いけど、近くにいたらほんと大変。
たぶん本人も何かと大変でしょう。こちら側も、そんな素晴らしい近代人の評価されるあり方を読んだり鑑賞したりしていたら、いいこともあるけど、そこはかとなく鬱陶しくて、変に教養がついて邪魔をしたりおおらかさがなくなったり、被害を受けてしまうことがあります。
特に国の方針で、子供のときのまだ頭も固まっていないうちから、教科書で夏目漱石や芥川龍之介を読まされた日には被害妄想の激しい子供になってしまうだろう。それが感受性と、大学の出身後輩の教科書編纂者たちはドウモ思っているらしい。
西欧の「自我」、東洋の「無我」。
良くも悪くも自我。
それで今度は自我の脱却のために、伊藤整さんは漱石の則天去私とか森鷗外の諦め、雪深いロシアで生きるトルストイやドストエフスキーはキリストの神にすがり、チャタレイ夫人の恋人を書いたロレンスは性の開放で自我を解放しようとした、と言っている。
ボクもドストエフスキーなど出てきた作家の代表作はひと通り読んで、なるほどね、当たっているようで感心もしました。
それとは変わって、いくぶん趣きが違う印象を受けた小説、プルーストの『失われた時を求めて』を読んでいるときに、ふと異様な感覚を受けたものだった。
多くの人がこの本の内容について語るより、いかにしてこの本を読み終えたか、に感想が行きがちになるという、変わった小説を読んでいるときに、プルーストの語りを聞いているというよりも、いつの間にかプルーストに代わって、読んでいるボクが作家になり、語っているような錯覚に陥ってしまった 。たしかに20世紀の新しい文学を予感させ、おもわず横綱相撲を感じてしまった。
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本には生命が宿っていますか
そんな訳で、すっかり西田鬼太郎さんに私淑して以來、京都に来たときは必ず鬼太郎さんを訪れるようになった文芸評論家の古葉野次秀雄
今日は鬼太郎さんの用事のついでに、迷惑かけないよう一日お供することになった
以前からわが校の授業をご見学してくださいと懇願されていた鬼太郎さん、大学の教え子が教えている高校に出向いて行った
案内されながら、廊下から本を一心に読んでいる教室の生徒たちを見て感心していた
「本には生きている生命が宿っているね」
それから、一度どうやって本が作られているか見たいと思っていた鬼太郎さん、製本工場に赴いた
本が大量に生産されている現場を見て驚き、また京都一の本屋さんにも寄ってみて、そこで販売されている多くの本積みされている本を見ながら、思わずつぶやいた
「本には生きている生命が宿っていないね」
鬼太郎さんと今日一日ずうっと随伴していた古葉野次は、ふと、あれって気になった
「先生、最初に訪れた高校の学校では、“本には生きている生命が宿っているね” とおっしゃったのに、本の工場や本屋に行ったときは、“本には生きている生命が宿っていないね” とおっしゃったのはなぜですか、同じ本なのにどうして違うんですか」
そうだね、と鬼太郎さん
「私は教室の中で本を読んでいる生徒を見て、いつの日にか本の内容が生徒さんの血と肉になって宿るんじゃないかと思ったんだ。でもね後で、工場で大量に生産される本や、本屋さんにいっぱいある本を見て思ったんだよ。
本の身になってみればどうだろう、そんなこと関係ないだろう。
売れなくて古本に回されたほうはまだいい方で、売れなくて裁断され再生紙される身であってみれば、読まれなくなって、余り残った本の中には生命が宿っていたのか、いなかったのかどうかわからない。宿っていてもどうだろうか。それに最近、大衆文化の消費期限切れの早さを、改めてつくづく思い知らされてしまっているからね」
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