短編コント 作家の数ほど文学論がある、自由むげに②
じっさいそうかもしれない
クリエイティブな作品はそうかもしれない、と娘の授業参観日の帰り道で、松竹隆明はしみじみ
授業参観で同じクラスにいたペコちゃんポップキャンディーの子供、確か、さとしといっていた
オレの問いかけに見事に答えて、言葉の前後に整合性がないのに、なぜかあてはまっていた
アングルの絵、オダリスクみたいに胴長の女性はじっさいあり得るはずはないのに絵画として成りたっていて、またピカソの抽象画もそうだった
顔の正面の鼻はナゼ横向きなんですか、の問いに、ここに鼻があるのを教えるためさ、と画家が述べた言葉が評論家のむずかしく長ったらしい言葉よりマトを得ているようにも感じられる
評論みたいにきちんと説明すればいいってものじゃない
むしろ皆んなに納得させるような文章そのものがおかしい
皆んなに受けること自体がおかしい、いまの情況に合わせているみたいでなんだか食わせ者みたいで
目先がきいた政治家や山師みたいなもんだ
“ そもそも作家や思想家は世にはぐれて、いまの世にうまく立ち回れない、なんかいまの時代はおかしいゾ ”
そんな連中が社会の片隅から声をあげるんであって、いまの社会にうまく適応して洗練されたエリートや上級国民のようにうまく立ち回れなくて、そんな調子のよい連中から現れるはずがなかった
うまく立ち回っても単なるパフォーマンスや気取りでしかなくて、なんか雲行きが怪しくなったり、きな臭くなったら、スグ身を引くお馴染みのパターンをいやと言うほど見せつけられてきた
ほんと政治の季節のときはあんなに政治のことを語っていたのに、情況は変わりきな臭くなったら、今度は小説でも書こうかなという作家ばかりだから
それにしても歴史の必然とはいえ
身分が高いのがなんでえらいんや、と幕末の下級武士はがんばって偉人になり、
偉人の子供がなんでえらいんや、と田舎ものや庶民の子はがんばってエリート校に入り、
エリート出身がなんでえらいんや、と学歴がない人はがんばって有名人になり、
有名人の子供がなんでえらいんや、と作家や芸能人にあこがれる者が現れてきて
いつの時代や国別を問わず、
偉人、エリート、才人が前の世代の羨望と妬みから生まれ、
くり返される覇権のこれもお馴染みのワンパターンだった
学問ができても身分が低いばかりに悔しい思いをした福沢諭吉の父親みたいに、福沢諭吉の創立した学校の人だけはそんなことをくり返してほしくないように、オレがえらくなっても決してそうしないようにと心にとめていた、しかしオレがそう思っていてもなあ、周りがなあ、などと
時代が変わっても人の頭の中は変わんないで、歴史は繰り返すからなあ
偉人の子供やエリート出身、有名人の子供みたいに有利なものがあったら、利用したほうが世の中に出るには手っ取り早いと言っても、などとつぶやいているとランドセルを抱えた、噂のさとしが目の前を歩いていた
「おう、さびしそうじゃないか」
「別に」
「別にって、お前変わってるな」
「そうでもないよ」
「それはそうと作文はうまく書けたのかい」
「うまく書こうとおもったらハズレるよ」
「どこかで聞いたようなフレーズ言いやがって、でもうまくかけたらいいじゃないか」
「そうだね、でもこれがいまの実力さ、ほら娘がパパを呼んでいるよ」
「ああ、娘となかよく遊んでやってな」
「えーっ」
「えーっ、ってどういう意味や」
「ぼく、面食いなんだよ」
「だからいいじゃないか」
「そうだね」
「...… 」
「....…」