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『小説』 オートマティック  第3章 ラスコーリニコフとドン•キホーテ


 1.

 * ラスコーリニコフはドストエフスキー『罪と罰』の主人公、ドン•キホーテはご存じの方です。



〈D橋を渡ると〉  

 ぼくの住んでいるマンションを出たのは、確か正午にならない前だった。心持ち気分をはらすために、のんびり散歩でもしようと思ったんだ。

 陽はのぼり暖かく、風もいまのぼくにはさわやかに感じられた。


 D橋を渡ると、いままで人がまばらだったのがだんだん多くなってきて、休日で通りは歩行者天国になっていた。商店街には、テーブルや椅子が並べられ家族連れも多かった。

 家族。ぼくにとっては通るに通れない言葉の響きを持っていて、一度好きな女と家庭を持とうと思ったことがあるけど、いまの生きている現状を見ればどうしてもハードルが高かった。そればかりでもなかったけど、まあいろいろ、ぼくの思惑と好みがあったかな、いいわけがましいだろう、活動のせいにはしたくない。



 ぼくは一軒のスポーツバーに入った。ここは夕方にでもなれば、若い連中や勤め帰りのサラリーマンがサッカーやラグビーを見ながら、ビールを飲んで楽しんでいて、さすがにいまは昼間、人もまばら。それでも店の中には昼でも酒を飲みたい人がいるらしい、陽のあたる通りに面したテーブルに五十歳前後の男がふたり、のんびりビールを飲んでいる。

 ぼくはすぐそばのテーブルに座って、同じようにビールを注文して飲むことにした。男たちは、家庭や仕事のこと、なかなかうまく行かないことをぼやいていて、それでもいまの生活は他の人よりましかなといいながら、さも中年でありますよということを受け入れていた。一方は頭の前方が禿げ、もう一方は禿げないまでも白髪が黒髪より多くなって、どこにでもいそうな体つきとそれなりの雰囲気の服装をまとっている。

 外の通りを見れば、人とりどりの華やかな服装があふれ明るい陽ざしのなかで、家族連れや若い恋人たちは楽しそうに連れだって歩いていた。



 ふと男たちの話題がいつしか政治の話になり、太って、頭の禿げている男がいった。

「昔、チャップリンがいっていたね。戦争で人をたくさん殺せば英雄だが、ひとり殺せば殺人だって。ひとりって、日常生活のなかでって意味だよね」

「そんなこと、いっていたみたい。昔、アメリカは核で何十万人も殺しているのにいまだに核を持っている、人一倍持っている、でも小国は核を使うかもしれないので持てない、持ってはいけない。チャップリンはいい忘れていたんじゃないの、あるいはカットされたとか。こういっていたと思うよ。戦争に勝てば、指導者は人を殺しても英雄になれる、もし敗れたら、戦争犯罪者だって、都合しだいでどうにでもなる。

 お互いさんざん同じくらい人殺しをやっているのに、勝てばしようがなかった、必要悪だったと平気でいって、かませ犬的な作戦で相手国を誘いこみながら侵略していくのは今も昔も変わらず、軍事力と経済力で征圧していくんだ。正義の名のもとに、いい気なもんさ。

 勝てば、なんでも正義になるみたいに、いいわけができるみたいにね。負けた方が、勝った方のモラルに合わせちゃうんだ。あの国は科学や経済が得意で強くなったようだし科学の力で兵器もつくっているようだから、軍の力と経済力があれば、怖いものなしって感じ。勝ってじぶんたちの文化を広めているんだよ、野蛮なのに先進国だと思っている、まったくひどい話さ」


「暴力としのぎがあれば、なんでもできる、正義がまかり通る。もしわれわれにも力とは金があれば、なんでもできるかな」

「もし、あればね」
男たちは苦笑しながら、じぶんたちを慰めていた。それから、いつもの日常的な身のまわりの話題に移っていった。



 ぼくはいっきにビールを飲みほし、そのバーを出た。休日の歩行者天国は明るく、天気も手伝って、いよいよ心地よい陽ざしを照りだしていた。ぼくはポケットに手を入れ、なかの金属物を握りしめた、冷たく硬質的に、研ぎ澄まされたナイフ、ジャックナイフをひそかに握りしめた。

 ボケットのなかから取りだし、片手で抜き身を出した。しまっては抜きだしながら、ナイフの鋭さと硬質な金属音を聞きいっていた。



 ぼくは、さきほどの中年の男たちの話を思いだしていた。
そうさ、もし力と金があればなんでもできる、もしあれば。力と金がなければ、なんにもできない。昔ならともかく、昔でも力なければ革命なんかできない、ロシア革命でも中国革命でも、戦争や国内動乱のどさくさのせいで権力や軍を手に入れた、平和なときにはどうにでもできない。

 平和のときでもできるというなら、やっぱりどうにかして軍を引きつけることが必要だ。確か毛沢東は最後まで軍事権を手渡さなかった、主席や他の要職を手渡しても、軍の権力を渡さなかったと聞いた。それから、ぼくの日頃の思いはだんだん募っていった。



 破壊なくして創造なし、というのはプロレス団体の標語だけではない、それ以前にも身をもって反抗的破壊精神を掲げていた人たちがいた。ピカソ、マイルス・ディヴィス、バクーニン。すぐ名前があがってくるだけでもその証し、じつに反抗は人間になるための一里塚、必ず通らなければならない関所、ヤンキーになるか芸術家になるか、はたまた革命家か。その人さまざま、機会もさまざまで違ってくるから、おもしろいといえばおもしろいだろう。

 危険も伴っていた、ひそんでいた、社会にも個人的にもいつも危険が忍びこんでくるし、またなかから叫んでいたら、いつもじぶん自身の身体を引き受けなければならない。時代状況によって、さまざまに展開発展していく可能性もあふれ、いま振り返ってみても、ちょうどそんな年齢の時期にぼくは政治的に目覚めたのかもしれなくて、芸術でも政治でも最初はちょっとしたきっかけが多いというのはほんとうだった。ぼくの場合、そうだったから。



 〈そう、イヴを誘惑して〉

 ここでふと、ある男を思いだし、みんなが知っている人間、歴史初めて物語に出てくる、変わった人物が頭に浮かんだ。男は、サタンと呼ばれていた。

 そのサタンの行動は変わっていた、反抗的だった、体制の維持者であり、権力者でもある神に対する、サタンの反抗はどんなことがあってもゆるされないものだった。それゆえ神から醜く、忌まわしい存在にされて、世間の悪を満たし毒をはく犯罪者みたいに扱われるのは必定だった。じっさいどんなに見てもサタンはハンサムでいい人に見えないし、近寄りがたく思われていた、思わされていた。



 おもえば、サタンも不名誉な称号を持たされたものだった、物語の始めに出てくる蛇の化身にされ、イヴを誘惑して、禁断の木の実をあたえた。林檎だったかな、知恵と羞恥心を、イヴにあたえてしまった。単なるお人形さん、ゴリラから、人間にしちゃった罪深い奴だった、それゆえ権力者である神から醜くされ、悪者扱い。イヴは失楽園、楽園を追放されてしまった。

 じつはサタンこそ、人間最初の真の解放者だった、反抗を唱える人間にとっては偉大な人物であっても、体制を維持する権力者にとって常に邪魔者で、悪の代名詞なのだ。

 神は初めに権力者だった、体制の治安維持者であるし、体制側の強力な執行者であった。それゆえ反抗する者は絶対に阻止しなければならない、危険人物としていつの時代もいつの状況のときも、指名手配にしなければならなかった。そのような者たちに体制維持者たちはいつも強く、国民大衆に訴えて、もっともらしい分別ある美しい言葉で訴えるのだった。いつも同じフレーズで、こんな風に。


 国民生活を脅かすような、破壊するような者たちに対して断固として反対しよう。われわれの美しい祖国を守るためにも、国民の敵をやっつけろ、国民大衆の敵を絶滅させなければなりません。



 物語さながら苦しい殉教のあとのキリスト教徒たち、疲れたのか妥協したのか、権力者たちに近づいて国の御用宗教になった。やがて神のように振るまい体制の権力者になり、じぶんたちの意にそわない者たちを弾圧していった、わざわざ遠くまで行った、美しい言葉と旗印を掲げて侵略していった、じぶんたちを正当化していった。

 そしていまも植民地から解放されたところや、革命後の国々など。いまのアメリカ合衆国と同様に、かつてのソ連邦、さらに続いて中国も。
 神の教義は、いつのまにか資本主義と共産主義の教義となった。




 2.

 フランス革命前に激しい宗教戦争が終わってから、それぞれの国内で第一身分をつくっていた。国内ではいっそう魔女裁判が激しくなっていくのに、敵対するカトリック・プロテスタントの王様たちはお互いに親交を深めていった。

 そしてフランス革命後のヨーロッパはじぶん勝手な資本主義や残虐な植民主義をやりながら、美しい三つの合い言葉、自由、平等、博愛をスローガンにしていた。


 植民地独立したあと柔らかい植民地主義と商業覇権主義をかかげるアメリカも、自由をかかげながら博愛のもとにといいながら、アジアや世界の途上国にじぶん勝手な美しい名目と、普段はまったく無視しているのに、都合のいいときだけ国際連合の錦に旗の下に武力侵略していった。

 同じようにロシアや中国も革命のあとに、平等をかかげながら博愛のもとにといいながら、共産主義の旗の下に他国に侵略していった。



 美しい顔の下は真っ黒な心、人間の顔をした野蛮人だった。
国内に自由がない共産主義、他国に自由がない資本主義、思いをただせばどこかで見た風景のようで、中世の絶対主義、古代の帝国主義にそっくり。考えることはまったく同じ、人間だものあたり前さ、先祖返り。

 宗教戦争のあとに似て、同じように今では資本主義も共産主義もすっかり昔のことは忘れ、国内の体制維持にご尽力なさっています。


 またそれぞれの現在の国内で、資本家や権力者たちの第一身分が出来あがっていった、1パーセントの支配層をつくっていった。違うフレーズでまったく同じことをやっていて、いったいどこに正義とか博愛があるのか、フランス革命以前と同じじゃないか。  

 そのくせ国民には喧嘩させ、上層部は眉をひそめながらお互い手を握りあい意思疎通をはかっていた。だからいまも中国の共産党幹部のご子弟はハーバード大学にご入学なさっているというわけだ、新聞にもどうどうと載っていて、そんなこと現状肯定の子供やお母さんたちはちゃんと見通しているのさ。

 未来の、現在の傍観者たちの方がどうやったら1パーセントの人になれるかわかっていて、美しい言葉や思想はあとからやってくると感づいている。どこに社会の本質があるかわかっているんだ。たぶん今夜もどこかでささやきかけているだろう、ひそかに。


 かの国のご首相さまもお忍びで、お店にいらっしゃいます。
だから、テレビニュースも新聞もかかさず見ております。芸能欄ばかりでは務まりません。話し相手になれませんから、つねに政治、社会面にも目をくばっています。わたしのお店は、一流の皆さまばかり。



 きっと、銀座のママもご満悦というもの。

 なんのことない、どちらも考えてみれば、考えなくても世俗化したキリスト教徒に過ぎなかった、フランス革命前の政教分離から、革命後の政経分離したに過ぎなかった。イスラム教徒はそんな美しい言葉で他国を侵食していくインベーダーを、同じ匂いとしていつも感じている。

 いつしか同じ道を歩む者たち、じぶんたちが絶対正しい神とか国家だと思っているのだろうか、単に欲にしか見えない。じぶんの顔が美しいと思っている鏡の向こうは、醜いのに。

 彼らは知らない、悪魔が生まれたから天使が生まれたのではなかった、天使が生まれたから悪魔が生まれたことを。

 美しい言葉が消えたとき、醜いという言葉が消えた。小説ができたところに小説家が生まれ、文章がとだえたとき、いま聞いているたもつであるおまえもぼくも消えるだろう。ぼくの影があるところ常にぼくがある、影がなくなったとき、ぼくがいなくなった。影とは言葉なんだよ。



 こんなことをおまえ、たもつと話し合っていたことがあったじゃないか、だからあるとき同感して前にいった老子の言葉にあてはめて、何かあったときのサインにしよう、標語にしようときめたんだよ。それからぼくもおまえも、どこでどうなったのか。行き違いがあって、連絡が取れなくなってしまった。

 ぼくの方でも何かと忙しかったから、ときどきたもつはどうしたのかなと振り返ってみたことがあった。こんなところでこんな風に出会うなんて、もっともおまえが記憶喪失だと聞いてびっくりしたけど、その方がいいかもしれないね。何も知らない方が、けっして聖書のイヴにたとえていない。

『人形の家』のノラというつもりもない、知らない方が人生を楽しく暮らしていけるだろう、裸であることも無知であることも恥ずかしいとは思わない、創世記のように神に従ってさえいれば、権力者に従順であれば幸せだろう。もし身に何も降りかかってこなければね。何ごとも人生これ無事、これが平坦ならばね、いいかもしれない。でもそう、うまく行くか疑問だ。




 〈恋するヒップステップ〉

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 そんなときだった、深い強固な意志ともに諦観した気持ちが交差するなかでひとり孤独を携え歩いているときだった、目の前に現われたものに突然ぼくはくぎ付けになった。


 やまぶき色の物体。色鮮やかな、ひまわりみたいな色、サンフラワー。動くやまぶき色。

 いつからいたのか、突然現われたような、からだの色彩。まわりの物体や人間が消えたようにぼくの目を注視させ、いままでのいろいろ考えていたことが嘘のように、また考えたこともなかったようにいっぺんに消失した。意識のなかから、まったく消え去ってしまった。それほどぼくを引きつけたもの、若い女性のうしろ姿、ぼくの前を歩く悠然とした豊満な姿態の持ち主。



 前から見たわけでもないのにすでに若い女性と思わせる、目にも彩なワンピースに包まれたバディ。やまぶき色のタイトな服に、表面張力する肉体。服と肉体の間にすき間がない、だぶだぶ感がない、そんな服なのか、そのように作られているのか、この服はそう思うほどに一体化されている。



 その若い女性のお尻ヒップは、まずぼくの目を引きつけてやまなかった。これでもか、というほどにデモンストレーションする、ぷいっと突きでたお尻。これではきっと前も、バストも、どぉーんとあるに違いない、きっとあるだろう、あったらいいな。

 かの女のお尻は、ぼくの気持ちをうきうきさせる。暗く思いつめていた意識と考えを楽しくさせ、さわやかにもさせて、意味もなく考えもなく、周期的に右左に振り分けているだろう、かの女のお尻。それにもかかわらず意志を持った深い認識のもとに動かされているように思われた、深慮遠謀の果ての作戦のようにも。うしろに佇みながらもついていかざるを得なくさせる、かの女のお尻。いったい、かの女のお尻は何者。


 気分的にはいい者、感情的には悪者かな。かの女のお尻はいったいどこから来たの、リズミカルに左に右に振れる、意味もなく、もしかして意味あるのかな、聞いてみたいかの女のお尻に。もしもしお尻さん、あなたのお尻はどんな顔。すっきりした大きな気持ちでぼくを叩いてほしい、あなたのお尻なんて。馬鹿なことを思いつつも、ぼくはすこしばかり意味もなく、体裁を示すために眉をひそめてしまった。



 黄色でもないやまぶき色、オレンジ色でもなくやまぶき色。黄色みたいに危険がなく、オレンジ色みたいに赤過ぎない。明るく渋く粋な女性のようで、そんなやまぶき色に包まれたかの女のお尻はたくましく健康に、大勢いる歩行者天国の真ん中の道を歩いていく。王道を行くかのように進んでいて、歩く王道。

 かの女の王道はぼくの心と意識をいつしか不安にさせ、初め心地よく引きつけていたかの女のお尻は、ぼくを不安にさせる象徴として立ち見えてきた。右横、左横に揺れるかの女のお尻、それにつれてぼくの意識も右、左に意識を振り子運動させて、催眠術の振り子みたいに、やがてひとつ方向に集中させ、意識を茫洋とさせていった。いけない、いけないと思いつつ、それとともに意識を錯乱させ、ぼくの心を動揺させる。


 初めに、かの女のお尻に引きつけられたぼくの意識は、ある思いでじょじょに受肉されていった、ぼくの意識の存在を登場させた。なのにいまは、ぼくの意識を不安にするばかり。かの女の定期的に揺れる、立ち止まって不定期になることもあるお尻は、いつの間にか心地よさから不安の概念になって現れている。どうしようもない現状と物体、どうしたらこの気分の状態から抜けだせばいいのか、いっそこのまま。

 この思いはいつしか、ある状態へとぼくを導かざるを得なかった、ぼくの不安な状態と不安な意識から早く解放されて、すっきりとした以前のような健康な精神へと、戻らなければいけない。どうして戻らなければいけないのかすこし疑問も残るけど、このままでいいんじゃないという意識と、いや、だめだという意識のなかでもがいているぼく。悪い道にどこまでも落ちていこうという意識と、どこまでも素直ないい道に進もうという意識、それほどでもないか、そんなに考えるほどの大げさなものでないと思いつつ、ぼくはひとり変な孤独の選択を強いられていた。これが、いま最も大事な問題であるかのように、それほどぼくの意識と感情を虜にしていた。






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