長編『君の住む町で』 Ⅳ-10 オートバイがすざましい爆音をたてて
( 隔離され、長らく続いていた密閉の中でも、やがて新しい展開がやってくるようだった )
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なんだこれは蜘蛛の糸だったのか。どうりで顔にべとっとからまっていた、まいったな、なんでこんなものが私の顔なんかに、あっ頭の髪に本物の蜘蛛が。
私はすばやく起きあがって蜘蛛をつかみ目の前の川に放り投げた、ああ気持ちわるい、手もなんだかべとべと、どうしてこんなところに蜘蛛がいるんだ、うん、こんなところ。
おおっ、ここはどこなんだ。
室内にしてはすずしい、いつの間にか屋外に出ていたぞ、まわりが少しばかりうす暗い、どうしてこんなところに私はいるんだ、一瞬に場面が変わっちゃってどうしたんだろう。
もしかして、いままでのことはなにもない、無関係で夢、いままでのことはすべて夢だった。
そういうことなのか、そうしないとこんな展開はない。急に場面が変わるなんて、殴られて気を失った場面でもなかったし、スムーズな急展開、突然の目の覚まし方もとても夢見ごこちだった。
そばには小さい少年がいて、小学生のようだ。
黙ってこちらを、おっさとしか。さとしにしては少し背が低い、だれだろう、なにもいわず不思議そうにしている。初めてさとしに会ったときもこんなふうだった、なにはともあれ、いつまでもこんなところにいられない、そっと立ちあがろうとしたら上の方から声がした、女性の声だった、橋の上からだ。
「なにしてんだ、ゆうき。早くあがってきな」
ゆうきと呼ばれる少年は、ああと返事をしながら上の歩道の方に登っていった。
この光景はどこかのシーンだぞ。さとしと出あったときと同じだ、まったく変わらない、デジャヴュか、それともなにかの暗示か、そんなことよりもいったいなぜ私がここにいるんだ、そのことが先決だ。どうしていきなりここに、ただちがっていたのは子供を呼んでいるのはあきらかに若い女性じゃない、むっちりしたおばちゃん、たぶん母親。
しようがない、まわりの様子はと、体を起こして立ちあがった。夢とちがって体と頭の方は幾分はっきり、服の埃を払いながらいきなりだと頭が痛くなる、ここは黙ってなにも考えないで歩いていくしかなかった、橋の下に倒れていた、でも体はそう痛くないし頭も最初のときほどふらふらしない、だれかに殴られて放置されたという感じもない、すべってころんだのかな。まあ後遺症がないだけいいか、もしかしてこれから症状が出るようで、それからひとつ大きく背伸びして歩き始めた。
最初うす暗かった、いまはまわりが少しばかり明るくなっている、目を覚ましたときは橋の下だったし、空もくすんで曇りがちだった。小雨でも降ったのだろう、地面も少し濡れて、雲も晴れて空も明るくなった、なんだ、いまは夜じゃなくて昼間だったのか。時計を見た、十一時四十五分、夜の十一時四十五分じゃない、まだ午前中。このことが私の状況を不思議がらせた、こんな時間にこんなところか、まったくわからん、夢の続きにしては断続的だし、突然の展開でも意味わからない。
橋がかかっていた川をそって歩いていった。ポケットをさぐった、お金はたしかにある、それから道路を走る車を目で追ってもタクシーらしきものがまったく走っていなかった、よく目をこらしても乗用車ばかり、ときおり通るのはリヤカー付きの二輪車、別に大したことではない、郊外ではありがちな光景だ。そうか、するとやっぱり、ここは人里離れた郊外だろう、前と同じ暴走族もいない、静かな郊外というわけ、のどかなもんさ。
そのとき一台のオートバイがすざましい爆音をたてて近づいて、いきなり私に物を放り投げてきた、おもわず私は両手で受けとめた、一キロばかりの茶色の包みだった。
「少しばかり預かってくれ、あとで取りにくる」
ヘルメットの下にサングラスをかけた皮ジャン男はそういって、そのまま走りすぎていった、声からしてあきらかに若い男のようだった。いったいなんだよ、まったく。と瞬間、後ろからパトカーが大きい音を鳴りひびかせながら私のそばを通りすぎていった、二台のパトカー、とても急いでいるようだ、なんだか突発事故でも起きたのだろう。
それにしてもこれはなんだろう、あの兄ちゃん、突然こんな物渡しちゃって、もしかしてこれ、やばい物、パトカーはあの兄ちゃんのバイクを追っていたのかも。すると、これはほんとにやばい物かな、柔らかい、私はそおっと包みのなかを覗いた、白い粉が入ったビニール袋がひとつ、まさか大麻、アヘンか、私は麻薬類をほとんど吸ったことがないし、どんなものか知らない、ニュースやVシネマで垣間見ただけだった。
運び屋にされてしまう、これ、冗談なしでやばいぞ、聞いたところによるとタイなんかで知らない人に頼まれ、これ渡すだけでいいからと預かって税関にひっかかったら即刻、刑務所行きにされたそうだ。ひどいことになると懲役だけでなく死刑もあるという、そんなことになったらもう人生は終わりだ、知らないで巻きこまれただけで死刑になるなんて。
そんなこと黙っていられない、見つかったら大変、どこかに身を隠さなきゃ、ポリスにそれこそ御用になってしまう。いっそのこと、これを捨てちゃおう、いやいや、あの兄ちゃんが戻ってきてあの包みはどうした、落とした? あほか、おまえがどこかに隠したんだろう、あれひとつでどれだけするのか知ってんのか、末端価格でなんだかんだと、私を脅してくることもある、だからといってこのままこの大麻を素直に持っていても、そうだ、ぼやぼやしている場合じゃない。
この通りのあたりには私だけがひとり歩いている、追っていたパトカーがバイクを見失ったら、ひとり歩いていた私を疑いだすだろう、途中で包みを渡された仲間だな、あいつ。いかん、ひとまずどこかに身を隠そう、おっ通りの向こうにショッピングモールがある、あれがいい。
私は急いで通りを渡った、あの兄ちゃんやパトカーに注意して用心しながら渡っていった。それにしてもこのショッピングモール、やけに大きい、校外だからか、土地だけはやたらあるようだ、何階建てだろう、そんな暇はない、私はすばやくなかに入って二階に駆けあがり、トイレのそばのソファへ急ぎ足で行った。
腰をおろして、やっとなんとなく落ちついた気持ちになった。ひとつため息をついた、しばらくのあいだ前の方にある商品やお客たちを、ぼおっと、それからやおら、手に持っていた茶色の包みに手を置いた。いったいなんなんだよ、この包み、やめてくれよ、私を事件に巻きこむのは、私はどうしようもない煩わしさと不安を受けもったことに苛立った、だからといって嘆いてばかりもいられない、これをどう始末するかだけど、いったいどう処分するんだ、捨てるにも、そのまま猫ババするのも危険みたいだし、一番いいのはこのまますぐにあのサングラスの兄ちゃんに手渡して、何事もなかったことにするのがベストのようだった。
「そうみたいだね、ありがとう」
はっと横にはサングラスの兄ちゃん、やさしく笑みを浮かべながら手をさしだして、ヘルメットをぬいでいる顔は若かった、私はおもわず手に持っていたこの包みを、変に大事そうに渡した。いつの間に、どうして私がここにいることがわかったのか、すぐひき返して後を追ってきたらしい。さすが悪いことをする奴は目ざとい、なんて本当は感心している場合じゃない、ひと言ぐらいなにか、でもそのまま黙って包みを渡した、これ以上あまり関わりたくなかったからだ、とすぐにまた私に手渡した。えっ、なに。
「悪い。もうしばらくの間、持っていてくれない。また後で来るから」
男は、そそくさと私のそばから離れていった。なんだかおかしい、おっと百メートルばかり離れた二階の上がり口のそばでは、お巡りさんが二人キョロキョロ、だれかを捜しているようだった、あきらかに捜されていたのはあの兄ちゃん。
またかよ、兄ちゃんと同じく私もここでのんびりしている暇はない、どこかへ身を隠してお巡りに気づかないようにしよう、でもそこはプロ、あれ、あのソファに座っている男、たしかパトカーで追いかけているときにたしか通りにいたぞ。もしかして男が逃げこんだ場所に偶然にもいたということは仲間か、そう考えるだろう、そうでないにしてもお巡りに気づかれないことが安全だ、もし万一いろいろ尋問されたら面倒くさい、ひとまずここからとんずらしよう。
私は急いでこの建物から出た、玄関口から出て遠くどこかに行ってしまいたかった、なのに気持ちが突然変わって、隣のドラッグストアに入った。早くお巡りから見つからないようにショッピングモールから離れたかった、しかしあの兄ちゃん、私がそばに居なければあの包みを渡せない、早くあの包みを兄ちゃんに渡して関係性をなくしたかった、ひとまず遠くに行かないで近くにいる方が無難なようだし、この包みというか、大麻からとり放たれていたい。
なんだこんな物、どこかに捨てちゃおうかな、いっそのことなかを破ってトイレのなかで流してしまおう、大空にでも、ばら蒔いてしまいたい。そしたらもっとやっかいなことになって、いかつい兄ちゃんから追込みをかけられてしまう、サングラスのなかはどんな顔、もしかして悪い仲間も絡んでいるかも、それよりポリスがいろいろ関わってきたらとんでもない。
単におもわず包みを受けとっただけなのにこんな羽目になるなんて、ただ道を歩いていただけなのにこんな厄介なことに、つくづく気の小さい小市民の私、いっそのこと交番に行って事情を話そう、でもすぐにまたひる返す私だった。ドラッグストア内をしばらくぶらぶら歩きながら、お巡りがあきらめてここら付近から離れていくまで時をつぶそう、でもこの店まで来たらどうしよう。
そう悲観したらそうなるように案の定、のんびり買い物気分でいたらお巡りさん、ショッピングモールで捜し者がいなかったのか、よせばいいのにこのドラッグストアまで捜しにきたようだった、ここを最初に来てから隣のショッピングモールに行っていればよかったのに、そんなにうまくこちらのいい方に運ばなかった。
二人のお巡りから、おもわず商品陳列棚の間に身を隠した、しかしすぐに姿勢をただし、背を伸ばして身をのけぞるかのようにした。別にこそこそすることはない、やましいことはなにひとつしていない、それに私に気づいているはずがなかった、あの兄ちゃんとの関係性に気づいているはずがない、そんなにすごいお巡りではないだろう、気づいていないでしょう、たぶんそうだろう。
それでも徐々に二人のお巡りは私のそばに近づいてくる、私は商品をさがしているふりをして、早く私のそばから過ぎさってほしいと願いながら、ふと目の前の歯ブラシの柄の不思議にわん曲されたくびれと赤さに見とれていた。変に色つやがいいな、こんなに緊張して物に魅入ったことはなかった、こんなことならもっと前からきちんと品定めして購入しておけばよかった、たかが歯ブラシひとつなのに物職人はよく作っているんだなと。もっともこれは機械のオートメーションで作ったもので、あまり考えないで技術も伴っていない、それなのに偶然の産物かな、大量生産される単価の安いお手軽な歯ブラシの柄の赤さに、引きよせられるとはなんともはや不思議な感情、一瞬時間が止まったかのような趣のなかで私の体も止まっていた。
我にかえるにともない、お巡りがすぐそばまで来て、横を見たら目が合う距離だった、緊張で息が止まりそう、声でもかけられたらどうしよう、慌てふためいて大きな声を出してしまいそうだ、たぶん呼びとめられたらお巡りを振りきって押しのけて、いちもくさんに出口の方に駆けだすだろう。胸がパクパクしていた、私のそばに。
「もしもし、お嬢さん」
もうだめだ。えっお嬢さん、私は振りむいた。
「すみません。ありがとうございます」
背中合わせにいたらしい女子高生が、軽く会釈しながらフロアに落ちていたタワシを拾っていた。あっどうもすみません。
お巡りは相手が女子高生なのか、微笑みを浮かべて軽く敬礼のしぐさ、とても男相手にする対応ではなかった。そのせいか緊張もなしに気がゆるんだのか、私にべつだん気をとめるふうもなく通りすぎていき、かれらはしばらく店内を見まわりして、なにも変わったことがないと確信して店の外へ出ていった。
私はしばらくここにとどまって、もうなにごともないことを確かめて外へ出た。もうお巡りはすっかりどこかへ行って影も形もなかった、ふうっとひと息、ひとまずここから離れよう。そのとき、どこからか豆が飛んできて私の顔に当たった。痛っ。
「ああ、ごめんごめん、痛かった? ごめんね」
サングラスの兄ちゃんが軽く笑いながら、手に柿ピーを持っている、袋のなかに手を入れては取りだし、口に入れてボリボリ食べている。痛いじゃないか、ピーナッツより柿のたねの方にしろ、そんなことおかまいなしに目の前に来て私にさしだした。
「食べる?」
食べねえよ、いったいなんのつもりだ、私まで巻きこんで、大麻なんか持っていたら犯罪だぞ、見つからなければいいってものじゃない、見つからないという保証もない、それに私は吸ったことがないけど体に悪いんじゃない、身を持ちくずしてしまう。もう持ちくずしているか、そう思う品行方正の私だったという場合じゃない、まったく。ほらっ、私は後生大事に持っていた大麻の包みを兄ちゃんに放り投げた。
ありがとう、サングラスの兄ちゃんはいとも簡単に、片方のあいている手で無造作に受けとめ、大麻の包みを一回転させて、こんなものかなといった。おいおい大丈夫かよ、そんなに不作法に扱って、落としてなかの大麻の袋まで破れてしまったらどうするんだよ、まあそんなもの、私に関係ないか、知ったことじゃない。
「じゃこれで。もう行く、おまえとは関係ないからな」
「そこまでつき合ってよ。レストランでおいしいもの、おごるからさ。だいぶん迷惑かけたみたいだし」
いいよ、これ以上つき合ったらもっと私に迷惑かけるでしょう、わかってる。わかんないか、きみの感謝の気持ちはありがたく受けとっておく、でもね、ちょっと用事があるんだ、ここでお別れしよう、手を少しあげて感謝のサイン。それなのに奴はなんだか知らない、私に絡んでくるのだった。
いいからいいから、すぐそこだから。男は強引に私の腕を引っぱろうとしたものだから、柿ピーが袋からボロッとこぼれ落ちた。ほら、持っている手で私の腕を引っぱったらだめでしょう、しようがないな。大丈夫、大丈夫、男は器用に片手で袋をまるめ込み、ポケットのなかにねじり込んだ。少しもったいなかったかな、けどこれより単価が安いからいいかもしんない、そういって大麻袋をポンポンと叩いた。
もう関わりたくなかったのに、とうとう男の強引さに負けてなすがままについていく羽目になった。二、三分ばかり歩くと道路のわき道に入っていった、そこはアーケード街みたいで、通りの入り口のすぐ横の食堂が目当ての場所だった、なかに入るとなかから女の声がする。
「こっちこっち、遅いじゃない。どうしたの、なにかあったの」
「ああ、ごめんごめん、遅かった? ごめんね」
サングラスの男はどこかで聞いたようなフレーズを繰りかえして応対、私はしぶしぶ女のいる席まで男についていった。若い女だった、二十二、三歳ぐらい、花柄のワンピースを着て、とても目に彩な色とりどりの明るさが私にはまぶしかった、それにノースリーブだった、腰のくびれがありながら、しかもどこか肉感的な艶っぽさも漂わせていた。瞬間、男についてきてよかったことを素直に認めた、もちろん男が女の隣に座り私はふたりに向かいあって、最初男の前に座っていながら、徐々に女の前にわからないようにずれていった。
男がメニューを見ている間に若い女をちらちら、女の瞳は大きく潤んでいた、こんなにかわいいのにどうしてこんな男なんかと、そんなに悪い女のようでもない、むしろ清純そのものだった。しかしまじめな女ほど悪い男に引かれるというのは昔からの定番だし、いまもチョイ悪い男がもてるみたいだから、本当のワルの一歩手前がいいのか、するとこの男はあまり悪い奴ではないらしい。
黙って前の女性の方を向き、一瞬、女が顔をあげてこちらをチラッ、私はどぎまぎしておもわず目を下にそらした、女性はにこやかにふふふっ、とても愛らしかった。その笑顔からどうしても悪い女性なんかには、この男に騙されているんだろうか。
男はサングラスをはずして何にします、メニューをこちらに渡そうとした、ナポリタン、と私。ふたりはお互い顔を見あわせて、くすくす笑った。わからなかった、なにがおかしいのか、注文したものがおかしかったのか、発音がおかしかったのか、ただ単におかしかっただけなのか、箸を落としてもおかしい年頃とでも。
そんな彼らが、どうして悪いことに手を染めているんだ、どうしようもないぜ、これが俗にいう、昔からの青春の蹉跌みたいなものか、少し小説や映画の見すぎかな。惜しい、むだな青春を送っていないことを願うばかりだ。まったくこんなことを考えるなんて、私もだんだん歳を取ってきた証拠、ゆえ知れず感慨深げになってくるいまこのとき、つい、なんだか安っぽい情緒にふけってしまった。