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 囚われて


 1. とらわれて

 以前「流されて」というイタリア映画を見た。
豪華なクルーザーに、わがままな若いセレブ女とこき使われる使用人みたいな船員が登場。
ある日どういう訳か難破してしまい、ある島に流れてついた、どうしようもない二人。

ここでもセレブ女は、髪もヒゲもモジャモジャのワイルドな船員を命令してこき使おうと、いろいろ指図をする。

でもワイルドな男、採取してきた獲物をひとりでムシャムシャ食べながら無視している、セレブ女がわたしにあげなさいと言ってもひとりムシャムシャ食べて無視、次の日もわたしにも頂戴と言ってもひとりムシャムシャ、無視する。
腹が減っってしょうがないセレブ女、ワイルド男が取ってきた魚のために火をおこし、何かと世話して準備するようになり、やっと男からホラッと言って、食べ物をもらった。

それから二人は共同して、漂流した離れ孤島で助けあって生活するようになった、けれども助けてくれる船は現れない、遠くで船が現れて助けを呼ぶけど気づいてくれない。


でも離れ孤島で二人、それに映画ですから、たぶん鑑賞してくれる若い女性のためにもラブシーンがないと見てくれません、だからという訳じゃないけど見つめる合う二人はいつしか愛しようになった。
そうこうしている間、やっと大きな船が現れて二人を発見してくれ、無事帰還することができたのです。

めでたくおかに上がったものの、雰囲気変わってなんか変な感じ、親戚知人が押し寄せてきて、よかったよかったと歓迎してくれて喜んでも、二人のあいだには遠ざけるものがあった。
船員の母親なる者が現れ、セレブ女に何かと気をつかう。

「奥さま、大変でございましたね、うちのバカ息子がソソウをいたしませんでしたでしょうか、そうですか、ありがとうございます、それでは奥さま、失礼いたします」

ホラッこのトウヘンボク、さっさと行くんだよ、と母親に小突かれながら、あの孤島では大きくワイルドでもあった男は、陸に上がるとナンダカちいさく小さく、女には見えてくるのだった。


 人は生まれながらにして、周囲の環境や慣習に囚われている。

平和になり、秩序が保たれているところになればなるほど実感されて、
平安時代とか江戸時代の秩序ある世界ではそうだった、現在の日本もいいのか悪いのか、たぶんに肯定されているようです。

だから
むかしもフランスのジャン=ジャック・ルソーが、似たようなことを言っている。
” 人は生まれながらにして自由でありながら、至るところで鎖に繋がれている “


 話変わって、もうひとつ。
別な事で不思議な、お釈迦さんのこと。
教科書にも載り、人間性平等を唱え、当時も多くの人に支持されたようなのに、なぜその後インドでは広がらないで周囲の国に移って行ったのかわからなかった。

お釈迦さんに批判され、
バラモン教が改良してヒンドゥー教で復興したといえ、今もカースト制度もあるのにインド教とも呼ばれようにインド全土に根強く広まったのか、遠く異国の日本から見て、シロウト的にはよくわからなかった、あんなすばらしい教えとも思える仏教がインドでは急速にしぼんでしまったのか、なぜなんだろうと。

「ね、わかる」
「えっ、わかるって、突然にそんな、いまボウッとして読んでいたのでわかりません」

「だろ、オレにもわからなかった、なぜなんだろうってね」


 2.

 お釈迦さまの話、どうしてインドでついえてしまったか。

疑問に思って考えてもわからず、何冊かの本を読んでみても、ただ仏教はインドで勢力が失われて行ったというだけで、明確な理由なしでスルーしていた。
そんなナカでも、疑問に思っていた人がやっぱりひとりはいて、『古代インド』(佐藤圭四郎、河出文庫)の中で著者の見解を述べていた。

 佐藤氏によると
仏教は、諸カーストに分属していた人々を因習から解放したものの、無カースト者の浪人になってしまい、やがて一種のカースト(宗派カースト)になってしまったという。
そしてその中で、また社会的地位に応じて、同じカースト秩序を作っていったそうだ。

アラッ同じことしてダメじゃない、まい戻っちゃった。

そんな感じでヒンドゥー教的な制度にまた吸収されて行ったそうです。
「それに同じ差別待遇を受けるなら、単なる異教の部族であるより、一応正統なカーストにいる方が職業を得るためにも何かと便利だった」という。

そんなわけで復活したヒンドゥー教に完全敗北してしまった。

 つまり被差別階層である特殊民や賤民がヒンドゥー化するのは、社会的に力の弱いものが、 現存する強固なカースト秩序へ編入されることによって、その社会的、経済的地位の正統性を 確保するための道であるといえよう。
『古代インド』(佐藤圭四郎、河出文庫)


そういう訳で
みずから差別待遇されても、安心を求めてカーストの中に入って行った
というわけ。

 そんな感じでまた以前のように社会秩序は作られていき、
それからなんだかんだで法律が作られたら従事していくのが、国家のシモベたる「エリート官僚」の務めで第一の仕事、
人を束ねる力もなく虚弱な体にはペイパーテストで合格してがんばり、のし上がるしかなかった。

囲われた「学者」もそうで、与えられた国家宗教や国家の主義思想をまとめ解釈し、国民にもっともらしく体裁を作っていくのです。

そして「わたしたち庶民」はソレをありがたくいただきます。

古代アラブ語やサンスクリット語、中国語を読み書きできる学者の言葉がすばらしく見えて、キリスト教や仏教の本をまともに読んでいないくせにキリストやお釈迦さまが偉く見えてくるのです。

共産主義が嫌いでも『資本論』を読んでいなくても、教科書に載っているマルクスはなんだか偉い人に見えるのでした。

宗教の後で、「政治経済」分野に移っても資本主義とか共産主義に名前が変わるだけで、統治している人間の顔は違っていても、中身は同じで本質的に頭の中は変わっていなかった。

さっきみたいに共産主義を否定しているのに「資本論」を読んだことを自慢し、ドイツ語の原書で読まなきゃダメだよと言い、読めたら国立大学の教授にしてあげる、なんてね。

まったくおもしろすぎる、茶番な社会だぜ。


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人は自ら鎖につながれたくなる、
進んで手足に鎖をつないだ。


ひとり異議を唱えて反抗するよりも、
みんなの集団とか大きな組織にいたら安全安心だし、みんなの後から追いていけばナニかと楽そうだった。

たとえ、あとで虚しさが込みあげてきても、なぜか、ひとり上手で慰めあっていた。
だって怖いんだもん。

そんなナカで、ある人たちは
「複製人間」でありながら、「複製芸術」を作りながら、クイが出たら打たれないように少しワンポイント変えて個性を出し、得意がっていた。

知らずしらずのうちに米委奴国民(べいのわのなのこくみん)
アメリカのイラク侵攻、ロシアのウクライナ侵攻に対する日本政府と広告塔のテレビ局の真逆な対応、笑っちゃうくらい面白い、たぶん第二次世界大戦前の軍政府に対して、マスコミもこんな感じだったんだろうな、でも戦争に負けたらスグに手のひらを返す、りっぱだ


 こんな感じで
異民族の「清」に服従していた中国の漢民族の気持ちもわからないこともなかった。

 いくらアメリカに戦争で敗け、寄らば大樹の陰といっても、熱しやすく冷めやすい日本人の感情、東京大空襲で女子供を無差別で大量に殺され、広島長崎で何10万人も焼き殺され放射能を浴びせられているのに、翻訳の英文解釈文みたいな小説を書いて得意がって、ジャズロックの猿マネして喜んだり、政治家や子供たちはいたしかたないとしても、20歳にもなってソンナことしていたら、亡くなった先輩たちにたいして、とても申し訳ない。

戦後も、敵対国にお家芸のいろんな言いがかりをつけて、例の人種差別よろしくインディアンや黒人の虐待にならって、ベトナムやイラクの国民を容赦なく大虐殺しても、あたかもスキャンダルがあっても「大人の事情」で大手芸能プロに口封じされているように、マスメディアもコントロールされているなんて、
20歳もなったらうすうす感じていても、ソコはそれ「大人の分別」で同じように軽くスルーしていくとしても、奴らの最高幹部たちは暖かい布団に寝てノーベル賞をかってにもらい、いくらわれわれの国の政治財界人、それに学校の先生がペコペコしているからって、何が悲しくて、なんでわれわれ国民もペコペコしなきゃいけないんや、ほんと恥ずかしいわ。

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 そうは言っても、メディアや政治家はわれわれの合わせ鏡、われわれ大衆はこんなモンだと悟って、支持されるためにわれわれに合わせているだけだった、メディアや政治家を笑っているのはわれわれ自身を笑っているようで、大人の事情や分別で卑屈なのは、われわれ自身の卑屈さを見ているようで反映されている。
ふと、この文章を書きながら、ぼく自身の小心さをいま一度見つけ、今日よりも明日は、少しぐらいマシになっていたい。


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