「プロポ」 流れている時間は皆同じなのに、皆それぞれに違う。 『文学としての永遠 』
PROPOS プロポ
フランス語で談話とか話題の意味あいがある
ニュートン脳、アインシュタイン脳、あるいは時間について。
1.
いまボクは席に座っている。
そしてボクの前を歩いている人がいる。
「でも2人とも動いている」、と他の人がいうとき、
ボクはその人を見て気づくだろう。
その他の人が窓の外にいることで、
ボクは電車の中にいることに気づいた。
そして窓の中から電車が向かっている方向を見て、どこに行くのかわかったのだった。
アインシュタインの相対的に見ると
いうことはこう言うことなんだな、
ちょうど高校生の頃、電車に乗っていたボクは思った。
彼は数式を使わないで、やさしい本を数冊出していた。
比較的手に入りやすい新書の「物理学はいかに創られたか 上下」はその1冊だった。
その本を電車のなかで読みながら、
なるほどね、こういうことか。
変に、感心したものでした。
理系の大学志望だったので、
文庫本や新書の物理学のサイエンスブックなどをよく読んでいて、
世界史の教科書に馴染むために、
世界の歴史の本を読むようなものだった。
これは中国古代の荘子の斉物(せいぶつ)論とまったく変わらない。
「朝三暮四」とか「胡蝶の夢」みたいに見方によって、
ものが変わって見えるという思考と同じだった。
この「存在」の見方はアメリカ資本主義国と中国共産主義国をたとえてみれば、見る方からみたら見られ方もちがうのがよくわかるだろう。イスラム教主義圏を持ち出さなくてわかるだろう。
じつはもうひとつ、「時間」についても学んだ。時間はそれぞれに違うという。さっきの「存在」の見方と同じで、「時間」においても違う。
そのときは頭でわかっていただけだった。実感としてわかったのはいろいろ経験をしてからだった。
2.
少しばかり文学を読み始めると、
こんなボクでもさまざまな問題意識が、
なぜかついてくるんです。
これが読書人になった原罪かな、と思いながら。
知識人ははるか遠い。
でも、いったい知識人階級とはどういう人間や。
知りたいもんやで、じっさい。
(どうもお見苦しいところ、失礼いたしました)
さて
評論家の皆さんは、
みんな評論家の仕事ばっかりやって、
むずかしい内容ばかり、むずかしく語ります。
または受けネライで芸人もどきな解説をしたがるから、
考えてみれば、
確かなお仕事なさっている感じです。
商業誌、文芸雑誌ではしようがないかな。
いつのまにか雑誌編集者までエリート意識がついちゃって、
底辺の肝心の泥臭さがないから、
ピントのまなざしがズレていることに気づいていない。
一般ピープウの、
下々の読者のすなおな疑問にあまり気づいていない。
読者はあんたたちみたいに、
そんな高級じゃないんだよ、といったら、
そんなことばらすなと読者は怒るのだろうか。
などと横道にそれていることを意識しながら、
そこはかとなくボクは元の話を模索していた。
そう、時間について。
たしかにゲーテは20代の頃から、断続的にではあったけど、80歳代過ぎて死ぬ間際まで『ファウスト』を書いていた。ドストエフスキーの『カラマーゾフ兄弟』は何処ともいつともわからない、数日のことを大部の長編小説で表していた。
そしてさらに20世紀になるとプルーストの『失われた時を求めて』なんかを読むと、プティト•マドレーヌのお菓子を紅茶につけて口にふれて見ると、私は思いだす。幼い頃のコンブレーの地。その散歩道にはふたつの方向、スワン家とゲルマントの方があってなどといいながら、小説の展開はアラビアン・ナイトの長さ。
日本語訳では解説も入れて、600ページ前後の文庫本が13冊、文章も隙間なくびっしり詰まっています。なのに現れている時間はいっしゅんの出来事だった。何なの、これ。
じつはこの時間、プルーストが意識して考えた時間だった。
でもボクがこれから話す文学作品はこれとも違って、妙な感覚を受けたものだった。
プルーストが現れてから、もう小説は書けないと、イタリア作家モラヴィアがいってから、二つの世界大戦をはさんで、ドイツにトマス・マンが現れた。代表作『魔の山』は人里離れたサナトリウムで展開される哲学問答が主題である。
これもあまり時間を念頭においていないので、気づかないとどれぐらい日々が経ったのかわからない。初めから、時間なんて関係ないみたい。じっさいは7年間のことといっているけど、時間の距離間が感じられない。話が主で、出来事がさして起きていなかったからだろうか。
これを読んで、さっきもいったように妙な個人的感覚を持った。
3.
ボクはあるとき、本屋で、
文庫本である『魔の山』をちらっと読んでおもしろかったので、ついつい読みふけってしまった。
立ち読みしてしんどいかなと思いながら、
夢中になってしまった。
上下巻の上をあと少し残し、ふうっと息をついて、
あとは明日もここに来て、立ち読みしちゃお。
そう思って、
読み終えたページ数をみて驚いてしまった。
一気に450ページばかり読んでいたのだ。
そんなはずがない。
そんなに読めるはずがないと思っても、
確かめて見るとじっさい読んでいたから、本人のボクが驚いてしまった。
一度速読の稽古をしていたときもきちんと読めるページ数は、
時速200ページがやっとだった。
でも時計を見ると、
3時間とまで行かないまでも、
やはり2時間以上は過ぎていたのだった。
じっさい読んでいるとき、
途中にひと休みしてひと呼吸もして、
またボクの後ろを通りすぎる人をたびたび感じていたので、
時間がたっているだろうな、とは思っていた。
でもそんな時間も、
立って読んでいたのには驚いた。
夢中になって読んでいたので、
時間がたつのを忘れてしまっていた。
ボクの体のうえを流れている時間はみんなと同じ時間なのに、
ボクの頭の中はあっという間だった。
じつはこの本を読んでいて、
異様に感じたのがトマス・マンが書き終えるまで
11年とも12年ともいわれる年月がかかったことだった。
たしかにファウストも、カラマーゾフの兄弟も、失われた時を求めても、
本のなかでは時間の観念があまりなかった。
でも作家が本を書いているあいだの長い時間が感じられた。
苦労して書いている姿が思い浮かぶのだった。
でもこの魔の山を読んでいるとき、
トマス・マンが小説を書いているときの長さを、
小説の内容と同じく時間を感じなかったことだ。
ボクの個人的感覚かな。
偶然、物理学について関心があったから感じたのかわからない。
そんなふうに思った。
小説の中も外も、時間の観念がない。
問題になっていない。
求められているのは小説の内容だった。
果たして、
この文章は評論として成りたっているのだろうか。
文芸雑誌にとても載せられそうもない。
でもボクは率直にそう感じたのだった。
平安朝も現在も未来も、時代はちがうのに同じ本を読む時間は同じであり、本の内容を読みたがっている。
( 常を知るを明という。永遠なるものを知ることを明察という、とかつて老子はいった。名声、刹那的な物質的幸福が付随して来れば、もっといいなと思いながらも、それよりも先に、無意識に無盲目的に文学としての永遠を求める衝動に、かられるものが文学にはあった。
西行とか芭蕉とか偉大な人を持ちださなくても、野垂れ死にしてでも求める、やってやる。むかしも現在も、たぶん将来も、そんな変わったヤカラが文学のなかに少なからずいるのだった。でもそんな子どもを持つと、親御さんが大変やで、ホンマに。)
ここでまた、元にもどって
アインシュタインの「相対的時間」のことを思いだしていた。
さっきの高校生のとき、読んだ彼の本を思いだした。
このことをSF映画にたとえていえば、
宇宙船の中と現実の外の時間はちがう。
宇宙船が地球に戻ってきたときは浦島太郎になっているだろうな、と理解していた。
この理解はまんざらトンチンカンではなかった。
後日、偶然テレビでアインシュタインのエピソードを見たことがあった。
子どもがアインシュタインに、
相対性理論ってなんですか、
と聞いたら、こう答えていた。
「たとえば同じ時間でも、
学校の授業は長いのに
君の好きなサッカーをやっている時間はアッという間だろう。
こういうことかな。」
巷に速読というものがある。
短い間にたくさんのページ数を読むことは、とても便利だ。明日まで長い本を読むときとか、テスト時間にすばやく読むことができれば、どんなに好都合か計り知れない。
でもふつう、文学や絵、音楽を楽しむ場合に、関係者や時間がない人をのぞいて、一般の人はそんなにあくせくしていない。でも早く読めたらいいな、ぐらいは思う。
別に、速読の効能の是非をいっているわけではない。読書に何を求めているかであって、そんなに時間を求める制限がなければ、ワタシの体のうえを流れている時間よりワタシの頭の中は、無理しなくてもアッという間に、楽しんで速読していることがあるだろう。
それゆえこれからの問いは、楽しんで豊かに読むにはどうしたらいいか。われわれのひとりひとりに求められている。