『家の馬鹿息子』 政治家は伝統家業です、おかげさまで国会議員の四割
「看板倒れ」
選挙は『地盤』『看板』『カバン』」、
地盤の後援会と、親の名前という看板を引き継いで、政治資金というカバンがあれば鬼に金棒。
じっさい日本経済新聞によれば、
小選挙区制の導入後、利権に群がる組織票と無関心無気力な浮動票で、世襲議員の当選率は8割近く、議員はとても若い。
カメラワークは正面じゃなく、できるなら左手横斜め下から少しワイドによろしく、政治屋家業の世襲殿さま( 四世!)、小泉進次郎です。
出自に関係なく自由に誰にでも政治家になれるけど、他の選挙区でがんばるならそれなりにわかって、親代々、地盤看板カバンを安楽に受け継ぎ、実力もないのにコロンビア大学院の卒業証書も親に泣きついて貰って、子供の頃から甘え放題で社会的実力もない、頭脳もない人がわれわれ国民をどうやって守ってくれるんでしょう、一歩間違えれば刑務所入りや処刑されるような野獣たちが多い諸外国のリーダーの中で、大丈夫ですか。
聖域なき世襲制度をぶっ飛ばす、
最近では芸能界でも実力がなければ親の名前だけでは通用しなくて、利害関係や忖度で多少は大手芸能プロが羽ぶりをきかしても移り変わりは激しい、人気商売で通用しているのは政治家と歌舞伎役者だけだった。
たしかに喋りが巧みでその場をまとめ世渡り上手で視聴率もそこそこに、しんどいわりに金まわりの悪い話芸の漫才はほどほどにしていますとビートたけし、
専門家でなくても多少は時代劇を観ているわれわれ素人でも、芸能人隠し芸大会にしか見えないたけしさんの座頭市でも外国人からみれば、とてもトレビアンでした。
外圧に弱く外からの評判がことさら気になるマーケティングを利用してパフォーマンスなどもやり、巧みに国際ペンクラブとか海外文人と交流しても、日本語が簡単に読める海外文学賞の審査員がそう要るはずもなく、日本語の微妙な感受性とか難解な小説がそう簡単に翻訳されそうもなくて、店頭に並ぶのはベストセラーか大衆娯楽小説が中心だった、それもほとんどが欧米語に翻訳してもらい国際賞を欲しがった、むかし三島由紀夫、いま村上春樹。
たしかに文章はほどほど一流でもどこかで見たような感受性で人気を博して、厚化粧の履歴に厚化粧の文章や、英文解釈しているみたいな文が踊っていた、食事の前から能書きを読まされているようだった、
よくがんばってお勉強しました、とてもよくできましたマル、それなのにそれだからこそ、かえって体裁よくおもしろ味に欠けて見えるのはボクだけでしょうか。
財をなして社会的名声も得たいのは、プロスポーツで財をなしてオリンピックでも名声を得たいのに似た感情で、一応拒否しつつも望むのは昔からよくある俗物の典型的なパターンでした。
大勢の初心者や子供大衆と地位をなした人には賞賛され、出版社には支持され出版されても、ごくわずか一部の青年男女にはなぜか拒否反応があった、じっさいその俗物性にはひそかに批判がささやかれていた。
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メディア、嘘っぽさと家の馬鹿息子たち
最近では余暇でなくてもゲームや娯楽とマンガばかり読みふけって、思考力を伴わないで、処世術ばかりが大手を振るって賢くなった。
ニュースを見るほどバカになり、アメリカ寄りはもちろん、政府の大物政治家やスポンサーと大手芸能プロには何も言えないし、NHKは立場上政府に逆らえず、民放は利害関係や忖度が蔓延して、
テレビでしか生きていけない、太鼓持ちや茶坊主みたいな評論家や芸人がもっともらしく国民をアホにしていき、江戸時代の瓦版や戦前のニュースよりテレビ新聞はアホさ加減が加速していた。すべて「相手の顔」を見て、報道し解説を行なっていた。
それに手っ取り早く、テレビタレントや官僚の族議員が嘘っぽい知事に当選して、悪代官そのままにフンズリかえり職員をいじめて、
地盤看板カバンで世襲議員の「家の馬鹿息子」たちが当選回数を稼いで、上級国民気分で首相をたらい回していました。
岸田文雄首相の息子、世間知らずで国会で不祥事起こしても、スポーツ一芸も何にもない無芸でも、世襲議員の息子待遇枠でたぶん履歴書試験で慶大に入り、仕事もできないのに三井物産に入って数年後に、めでたくパパの秘書になりました、パパの世襲議員を受け継いだら利害関係等でお返ししますね、とは家の馬鹿息子、順調に次のステップを歩んでいます。
31歳の時、パパのおかげで首相秘書官になり年収1000万円超貰い、パパの外遊に従って、個人で大使館の車に乗りパリ観光巡りして、レストランで美食の舌鼓をうっていましたとさ。
トップに立つものは多数の底辺の土台によって、支えられている論理がわかるはずもない世襲パパ同様に、息子も生活体験してみようなんて、いじらしい気質がからっきしもありませんでした。
ちなみに「築地市場跡地」の再開発では三井不動産が仕切って、読売新聞や朝日新聞も恩恵を受けて、首相ばかりか、どこかの都知事にも丸め込まれて、批判などできるわけがございません。読売も朝日も、密かに選挙応援していたかもね。
たしかに明治維新から戦前の政治危機までと、戦後から現在までの同じ期間が過ぎ重なり偶然ではなく末期的で、内部は腐り果て機能不全に陥っていても国民はどこか諦めと倦怠感が漂っていた。
そんなときだった 、なぜか伊藤野枝の生涯が紀伊國屋ホールで上演されて人気を得て、映画館では世界大戦時の日本のアナウンサーが、いかに報道はあるべきかを闘っていたかなんて、他人事のように呑気に上映されていた。それはいつのことですか、今でしょう。