「短編」 野に咲く花
野に咲く花の 名前は知らない
だけど 野に咲く花が好き
帽子にいっぱい 摘みゆけば
なぜか涙が 涙が出るの
寺山修司
1
むかし、女は女に生まれない、女になるのだ、と言うボーヴォワールの言葉を読んで感心したものだった。
これはつまり、人は何かのために造られない、例えば神から、何かの目的のために造られない。「人はまず生まれる、そして主体的に生きていく、実存は本質に先立つ」の女性版バージョンで女性の解放を願うものだった。恋人の哲学者である実存主義思想にひどく影響されたものだった。
でも視点を変えて、もしサルはサルに生まれない、サルになるのだ、と言ったらどうだろう。
だから古代中国の思想家、荘子も言っている。
いくら汚れた豚がきれいに洗わされ、ご馳走をたらふく食べ、豪華な服に包まれても、生け贄にされる豚を見て、どんなふうに感じるだろう。殺されるぐらいなら、汚れた泥の中で這い回っていたほうがどんなにいいだろう。
でも人はそんな得意になっている豚を見てアホな奴だと笑うのに、人に例えてみるとき、もっともらしく見えるから妙だ。
2
ものの捉え方次第で、気持ちも変わるとはこちらの方もそのようだった。禅宗の文学院で修行している、久しぶりに登場の茶川龍ノ介。
今日も今日とて、何かしら考えこんでいた。修行の合間の文学趣味は本業の禅とも絡んで、どちらつかずというよりどちらもなくてならないものだった、それに文学と禅には言葉の捉え方にも大いにかかわっていた。
禅宗の無といって、あまり言葉に重きをおかず、むしろ以心伝心などといって、言葉を信頼していなかった。
歴史をひも解けば、中国禅宗の創成期には軽々しく言葉を残して禅の真意がおろそかになるのを恐れたものの、北宋、南宋時代になれば沈滞し始めた禅宗の巻き返しに規律の引き締めや、和尚と弟子の問答集なる公案が現れて、かえって言葉を残したおかげで禅の世界が現代の思想と知恵の地平線を切り開いていくことになった。
またソクラテスは言葉を残すことに意味を持っていなかった、でも弟子のプラトンのおかげでソクラテスの言葉を聞けるのは皮肉だったというものの、言葉と内実の距離感はどうしようもなくて、誰でもが一度は訪れる問題だった。
少し前の実存主義と構造主義の対立の一つに言葉の問題があり、カミュやメルロ=ポンティに先立たれ、ひとりサルトルは台頭する構造主義一派と立ち向かった。
「意識が想像する時、いっさいの意識は何ものかについての意識である」とサルトルは主体的な「想像力」をうたい、いっぽう構造主義一派は言葉そのものにはすでに意味が含まれていて、じぶんが使っていると思っている言葉にかえって使われていると主張し客観的な「言葉遊び」を文学に提唱した。
いま考えてみれば、不安な世界大戦前後と安定した戦後世代の対立でもあり、同じものを見ても違って見えるだけのものでもあり、単なる世代闘争でもあった。
あたかも、ニュートン力学では捉えにくい大いなる宇宙の謎を、相対性理論を掲げて切り開き、20世紀初頭さっそうと現れたアインシュタイン、でも微粒子の世界ではどうかな、と言う量子力学の若い連中と対立した構図にも似ていた
そんなこと思案げに、茶川が僧院の別館に通じている渡り廊下を歩いていると、近くの池のそばで夏目和尚が鯉にエサをやっている。最近ほとんど声を返すこともなく、すれ違っても、挨拶程度で終わっていた。そこで久しぶりに叱られる怖い声を聞きたく期待して、和尚と声をかけたのだった。
「 和尚、知ってますか。魚は清らかな水しか棲まないと言いますけど、鯉って汚れた水質の中でもたくましく生きている魚みたいですよ、それにあの大きな口で何でも吸いこんで、人やタヌキと同じく雑食なんです。タヌキは股間の大いなるものを見れば、なるほどと察せられるけど、あんな可愛い顔しているのに、それから外国産をかってに国産の鯉の中に放流したものだから、外来種が多くなって生態系を壊しているそうです。美しい外面とじっさいの現状はどうもくい違っているようですね。
和尚、じつは最近考えています、禅には沈黙と言葉のお経があり、文学には饒舌と無駄な文章を嫌うものがあります。言葉で言わないことと言葉で言うこと。でも沈黙も饒舌も半分しか物事の真実をつかめません。沈黙も饒舌でなくても、ほんとうに真実をつかめる方法はあるんですか 」
すると何を思ったのか和尚、池の鯉を見つめながら、ふと誰かの詩を口ずさみだした、和尚はとても詩文が好きだった。
「 野に咲く花の 名前は知らない だけど 野に咲く花が好き 帽子にいっぱい 摘みゆけば なぜか涙が 涙が出るの 」
ふと聞いていて、なぜだか知らない、茶川は思春期の頃、初めて詩や小説を読んで、親しんだ気持ちをキュンと懐かしみ、思えばそこには文学とか言葉の関係なんて存在していなかった。
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