口先ひとつで生き抜いて、中国古代の恵施と「弁者12事」(2)
Ⅱ.
所変われば人も変わり、時代も変わった古代中国の思想家恵施と弁者12事
世渡り上手、床上手
口先ひとつで生き抜いて
これから紹介する言葉は、荘子と同時代の公孫龍や恵施らが論じあった「弁者12事」といわれ、結果だけが述べられているので、解釈もさまざま。ここでは比較的手に入る中公文庫の森三樹三郎さんの解釈を紹介します。森さんは京都大学を出て大阪大学で教鞭をとり、いわゆる京大学派といわれる人らしい。他の学者たちよりもわかりやすく、ボクには好都合だった。ここでは主に内容を見るので、原文は省きました。細かく分けると21件ありました。
なので通勤電車の中とかお休みの前に、気楽にどこからでも拾い読みして、詭弁ともいわれる論理の展開を見てみましょう。なかなか面白いですよ。「 」の下段が森さんの解釈で、それをやさしく改めました。
古代中国の思想家、恵施( 紀元前380年ー紀元前305 )
そんな教科書には名前だけは載っても、深く教えられない老荘思想でも、見透かしたかのように寡黙ですべてがことわざみたいな老子の言葉と違って、荘子は饒舌すぎるぐらい言葉の表現に満ちあふれています。
その荘子の表現力に大きく影響を与えた友人に、これから紹介する弁論家の「恵施」がいた。
「荘子」の最後の篇に登場して、文献的にも価値があり、その当時の論理学派の意味ない言葉とも揶揄され、古代ソフィストとも、現代の学者先生、ホストホステス、タレント芸人、一億総評論家ともいわれる評論「商売屋」にもどこか似ていた。
そうさオレって、「ぐうたらで遊び人」の男さと公言して行為もして、直そうと思っているくせに、あたかも「ぐうたらな遊び人」である男の性格が、単なる言葉の「物」として他人ごとみたいにそこにあるように扱われ、逆に、それを棚に上げて会話では饒舌にまっとうな屁理屈を述べたがり、どこにでも存在しているような「自分じしんに不誠実な」自己欺瞞な男にもどこか似ていた。
1.「卵には、すでに羽毛がそなわっている。」
卵から羽毛をもつ鳥が生まれるまでには時間の経過があるけれど、その時間は無限大の時間に 比べれば無にひとしい。したがって卵のときと、羽毛をもつときとは同時であるともいえる。
( 無限大とか大同異の立場にたてば、とかいうフレーズがよく出てくる )
2. 「鶏には三本の足がある。」
鶏の足二本に、「鶏の足」 ということばを加えて、三になる。
3. 「楚の都の郢のうちに天下がある。」
郢とは楚の都、天下にありというのが常識であるけれど、無限の空間に比べれば、両者の大小は無にひとしい。したがって、逆の表現を用いるこ ともできる。
4. 「犬は、羊に変化させることができる。」
犬と羊とは、四つ足の動物という類に属している。したがって「大同異」の立場からみれば、これを同一のものとみられる。
5. 「馬には卵がある。」
馬は鳥ではないけれど、同じく大同異の 立場からみれば( また出た❗️)、鳥と同一とすることができる。したがって卵生であるといえる。
6. 「丁子には尾がある。」
丁子 は、ふつう、おたまじゃくしのこと。ここでは成玄英の疏に「楚では蝦蟇を丁子という」とある のに従ったという。おたまじゃくしから蝦蟇になる時間は、無限の時間からみれば無にひとしい。したがって、 蝦蟇に尾があるともいえる。
7.「 火は熱くない。」
火を熱いと感ずるのは人間の感覚。火そのものは 熱くない。
8. 「山は人間の口から出る。」
もし名と実とが一致するものならば、山というよび名は人間の口から 出てくる。したがって、山の実体も口から出てくることになる。
9. 「車輪は地に接することがない。」
車輪が地面に接するのは一点にすぎず面積をもたないのに、地面をふむというのは面積があることを前提とする。したがって、車輪は地をふまないことになる。
10. 「目は物を見ない。」
光がなければ、目は物を見ることができない、目だけで物を見ることができない。したがって、目は物を見ないともいえる。
11. 「物をさす指は、物の本質に到達することはできない。仮に到達したとしても、物は無限にあって絶えることがないから、さし尽くすことはできない。」
指は、物の所在を示すものであるけれど、物そのものではない。したがって、指は物の本質に到達することはできない。
また仮に、一物に到達したとしても、物は無限にあるので、あらゆる物の本質をさし 尽くすことはできない。
12.「亀は蛇よりも長い。」
常識的には、蛇は亀よりも長いけれど、その長さも無限大の長さに比べれば無にひとしい。逆に、亀は蛇より長いということもできる。
13. 「矩は方形を描くことができず、規は円を描くことはできない。」
矩は方形を描き、規は円を描くとはっても、方形に似たものや、円に近いものを描くのであって、絶対的に正確な方形や円を描くものではない。
14. 「ホゾ穴は、はめこまれたホゾを取り囲まない。」
ホゾは、木材のはしにつくった突起で、ホゾを入れるためにノミで囲ったのがホゾ穴。ホゾやホゾ穴は、いかに正 確につくっても必ずすきまができ、そのすきまは無限小に比べれば非常に大きい。したがって、ホゾ穴はホゾを完全に囲んでいるとはいえない。
15. 「飛ぶ鳥の影は、まったく動かない。」
飛鳥が地上におとす影は、飛 鳥とともに移動するようにみえるけれど、じっさいは映画のフィルムのこまのように、静止した影が次々に生まれ、 あたかも連続しているような績覚を与えるにすぎない。
16. 「矢はいくら速く飛んでも、動かないときと、とまっていないときとがある。」
矢はどんなに速く飛んでも、的につくまでには時間がかかり、「行かない時」があるはずなのに、けっきょくは的に違するので「止まらない時」もある。
17.「狗は犬ではない。」
ふつう、狗と犬とは同義に用いられる名称であるのに、よび名が異なる以上は、実質も異なる。したがって、狗は犬と異なったものである。これはいわゆ る「名実論」の適用で、詭弁学派はこの名実論を重んずるために「名家」とよばれた。
18.「黄色い馬と、黒い牛とでは、合わせて三になる。」
黃色い馬が一、黒い牛が一、それに「黄色い馬と黒い牛」ということばとを合わせて三になる。先の 「雛に三足あり」と同じ論法。
19.「白い狗は黒い。」
白い犬と黒い犬とは、犬という類概念からみれば区別はないけれど、白い犬と黒い犬とが同じものであれば、白い犬を黒いといっても矛盾しない。
20. 「孤駒(みなしごの馬)は、はじめから母をもたない。」
孤駒とは母のない馬に与え られた名前。孤駒という名がある以上、単なる駒、つまり母から生まれた馬とは異なる。 したがって、孤駒ははじめから母のない馬である。 これも名実論の適用です。
21. 「一尺の捶は、毎日その半分ずつを切り取ることにすると、永久になくなることはない。」
捶とは、むち。 一日にその半分を取り去り、またあくる日に、さらにその半分を取りされば、無限に分割できるので、むちは永久になくならない。
( 古代ギリシア神話の英雄アキレウス〈ラテン名、アキレス〉と亀の競走。足の速いアキレウスが、先を走っている亀のいたところに追いついたときには、亀はわずかでも前進しているので、これを繰りかえす限り、永遠に追いつけないという話を思いだした。もちろん直感的にわかるはずなのに、昨今の屁理屈な評論家には通用しても、どこか欠けているね )
この詭弁ないくつかの論理を読み聞きながら、ふと感じていた。検閲された教科書みたいな知識と先輩たちの人生を見て、すでに二十歳にして老いたり、時代の傍観者で悟った人がいる。でも中に入らなければわからない、「不合理なるゆえに私は信じる」という古代人の言葉も響いてきます。
身持ちもふしだらで行状もいい加減なのに口だけは達者な奴もいるし、ネットでもあたかも正義感ぶって非難しても、姿を現さないで隠れてばかりの傍観者。なんのことない、ほとんどが妬みと中傷だった魔女裁判にそっくりで、昔もいまも変わんない。
それに、優れた行いや芸術家も誤解されることもあるし、すべからくその人が、「どこに立って」しゃべっているのか、見つめる必要がありますね。
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荘子は、名家ともいわれる恵施の詭弁性や単なる言葉遊びを否定しながらも、少なからずヒントをもらった、意外にも詭弁の中に埋もれていた「差別否定」の思考を発見していた。
荘子の有名な朝三暮四や、どんな美人でも近づいたら逃げてしまう池の魚の例など。
また「胡蝶の夢」では、夢の中で蝶になった荘子が、自由気ままに空の中を飛びまわっていた。ふと下を見れば居眠りしている荘子がいる。あれっ、蝶になった荘子と居眠りしている荘子、どっちが本当の荘子のオレなんだ。
でも夢と現実の区別というものはなかった、どちらも荘子である。これを言いかえれば、人生だけを現実とみるのは差別であり、人生もまた夢とみるのが本当の無差別である、こんな荘子の命である「斉物論」を展開した。
この世が嫌だからあの世に行きたい、でもあの世に行ったらこの世がよかったなどと言うこともあり、隣りの芝生は青いとか、青い鳥の例えもあって、いま、ここを大切に生きることが必要なのかな。
たとえば、じっさい旅行する前は楽しくて、しばらく旅していたら家が恋しくなり、家にもどってきたらホッとします。荘子さん、こんな解釈でもいいでしょうか。
きっと荘子も、そうねとうなづいてくれるだろう、いいんじゃない。
そんな現代の相対的な視点( relative perspective )も感じさせてくれた。
万物斉同、つまり絶対の「無差別」を説いていた、いまなお荘子の自由は健在である。