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新プロポ 私は誰でしょう
亡びてゆく者を冷たくみておきながら、後で同情する。
江戸時代の赤穂浪士とか戦前の2.26事件、戦後の赤軍派の飛行機のど号乗っ取り事件。
また一方、
昨今のフジテレビ騒動では、局にいるときは不祥事を知っておきながら世渡り上手で組織に身をまかせ、みんなで渡れば怖くない、何事もなく無難で身に危険もなく退社でもしていても、インタビューなんかされたら何食わぬ顔で、あのテレビ局はそんな体質なのよ、と平気で「世間の正義に」媚びるのでした。
立つ鳥、跡を濁していました、りっぱだ。
そんな感じで回りを見渡せば、
日本の企業や芸人タレント,政治家に媚びる「マスコミ各社」、
アメリカ資本のXやグーグルYouTubeに媚びて、日本のマスコミ各社を批判する「ネットメディア」、
ともにみずからの生活基盤に溺れ、いつしか奢って、実れば熟し、熟したら腐って落ちていくような、新しい物に取って代わられる因果応報の世界がありました。
「理性的なものは現実であり、現実的なものは理性的である」
こんなヘーゲルの有名なフレーズが思いだされ、今ある現実の政治体制はもっともらしくわれわれ生活のなかで存在しています。
江戸時代の人々や戦前の人々には、現在のわれわれと同じようにもっともらしい大人ふうの、当時の生活の信条とか思いがありました。
その当時の江戸時代では少数のキリスト教徒や、戦前の自由主義者は批判され迫害されて当然でした、常に大きいものに巻かれていれば、われわれ国民は安心安全で幸福な生活が送れていたのです。
資本主義国なんて固い名称を意識しなくて、みんなと一緒なら安心安全な生活。
だから戦前のファシズムのなかで庶民は平和に暮らしていましたし、180度違う戦後の資本主義国家でも、これまたみんなと考えが一緒なら平和な暮らしがありました。
なので
突然、裏社会の親分が現れて、今日からここら一帯はオレたちが仕切るようになった、みかじめ料よろしく、なんていわれて多少の抵抗を感じても、もっと大きい組織の国家ならなぜか安心です。
当然、いきなりイスラム主義国家や共産主義国家のリーダーがやって来て、資本主義国家に変わってオレたちがこの国を仕切るぞ、といわれた日には、すなおで争い事を嫌うわれわれ国民は、ここは穏便に「税金を納めて」守ってもらうしかありません、
抵抗して刑務所や処刑でもされたら大変ですものね、いい時ばかりのマスコミ各社から、例によって非国民扱いされ、さらし者にされちゃう、若い連中と違って妻子供がいるんだよ、理想ばかりいってもしようがない、大人になるしかございませんでした、とさ。
でも
ふと頭のなかでよぎって、そんな私はいったい誰でしょう。
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ピカソ(Pablo Picasso スペイン.マラガ 1881ー1973)
Oil on canvas h60.8xw50 cm. (Tate Gallery, London)
うーむ、ピカソのやつ