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ひとりの大学生が北京から見た中国の現在と未来(前編)
僕は21歳で、そのときAir Chinaの飛行機のシートに座っていた。その巨大な飛行機は分厚い雲をくぐり抜けて降下し、北京首都国際空港に着陸しようとしているところだった。やれやれ、また北京か、と僕は思った。
先日、約10日間にわたって北京に滞在した。大半が現地の学生との交流プログラムに当てられたため、実際に観光できた日は少ないが、北京でみた光景から僕は多くのことを考えさせられた。
北京という場所は僕にとって特別な場所である。小さい頃に住んでいたから懐かしさや哀愁的な感情を覚える一方、日本で暮らす時間が人生で多くを占めるため外国に行くときに感じる高揚感みたいなものも覚える。しかし、昨年と今年合わせて3度もいっているため、だんだん外国で感じる高揚感といったものが少なくなり、懐かしさといった感情が徐々に思い出されるようになってきた。
発達したデリバリーサービスや整備された地下鉄など、自分が住んでいたころの北京にはない便利さを味わいながら、かつての自分の内側にあった中国人らしさを思い出し、この国の人として生きることも悪くなさそうだ、なんて思った。しかし、第三者的な視点で中国の人たちの行動にツッコミを入れてしまうあたり、もうそれは不可能なのかもしれない。
今回の北京渡航で感じた細かいエピソードを取り上げながら、少しでも中国という国が面白いと感じられるようにできたらと嬉しく思う。
◯合理的な中国人
飛行機を降りて、真っ先に目につくのがおしゃべりしながら仕事の合間を楽しんでいる空港の掃除のおばちゃんだ。こんな光景、日本の空港ではなかなか目にできないだろう。中国の人は適当なんだな、なんて普通の日本人は思うかもしれない。実際、僕でさえ思う。指紋採取での入国手続きや荷物検査をくぐり抜け、タクシーで宿泊ホテルに向かう。たどり着いたホテルは派手な外装で飾られており、期待が高まる。しかし、部屋にたどり着くと、驚きの連続だ。確かに所々綺麗に飾られているが、壁がやぶれていたり、窓が完全に閉められなかったり、雑な部分が目立つ。ホテルで一番面白かったのが、ロビーで爆睡する警備の方だ。確かに夜遅くで眠いだろう。しかし、もはや職務放棄ともいえる行為を誰も止めず、誰も何も突っ込まない光景は、日本人から見たらとてもシュールなものだ。外に出てみると、ホテル周辺に警備員はいるものの、動画を見ながらおしゃべりをしていた。翌日市内を観光しながら、中国人の適当さを感じるようなシーンにいくつか出くわした。例えば、これは中国に慣れてしまえば全く気にならないが、売店やコンビニでの店員の態度が日本に比べると適当なのだ。日本のようにかしこまった言葉遣いや態度なんて決してとらない。一つの会計が終わるとすぐに、次に会計の対応に入るし(日本なら客が去ってからだろう)、言い方もぶっきらぼうだ(中国語に敬語がないことももちろん関係していると思うが)。再現してみるとこんな感じだろうか。
店員:「◯◯円よ」
僕「現金でも大丈夫ですか?」
店員「いいよ」
(会計終了すぐ)
店員「はい、次の人きて〜」
中国では(特に北京では)セキュリティが厳しく、地下鉄ですら空港と同じような荷物検査をさせられることが多い。しかし、地下鉄におけるセキュリティは形式的なものという側面が強く、実際スタッフもかなり適当で、金属探知機が鳴っても何もしないことが多い。
さて、なぜ中国の人はこんなに適当なんだろうか。これを説明するキーワードの一つとして、中国人の"合理性"があると私は考える。中国人は合理性、特に自分自身にとっての合理性、を重視する傾向にあると私は感じる。例えば、先ほどのホテルのフロアで寝る警備員の例を考えてみよう。彼にとっては、寝ても寝なくても、給料は変わらない。そして、周囲の人にとっても、監視カメラがあり、しかも深夜のホテルはそんなに人が訪れない中で、トラブル等もあまり発生しないと考えられ、彼をわざわざ起こす必要性を感じられない。このように、彼が楽することが彼にとって最善であり、周りの人がそれを止める必要性もないため、警備員がホテルのフロアで寝るという事態が起きるのだ。同じように、動画を見るホテル周辺の警備員、言葉遣いが(日本に比べて)雑な店員、形だけのセキュリティチェックをこなす地下鉄の職員、彼らは彼らにとって一番楽でかつ周りに許される方法をとっている。
実際、中国人は合理的だという声を僕よりも上の社会人の方から聞くことも多い。それが、ビジネス現場における中国企業の意思決定の早さなどにも出ているだろう。以前、インドネシアでの高速鉄道をめぐり、日本の新幹線が中国の高鉄に敗れたことが話題になった。アフリカや東南アジアなどあらゆる地域に向けて積極的に進出する中国企業の勢いに、私たちが見習うべき部分があるかもしれない。
もう一つ、中国で印象に残っているのが、電子決済、デリバリーサービスの発達やタクシーアプリの発達、レンタル自転車サービスの発達など、日本ではあまり広まっていない便利なサービスの数々だ。そして、これらは僕が暮らしていたころの中国にはなかったものたちばかりだ。なぜこんなにサービスが人々の間で広まるのが早いのか。理由はいたってシンプル、便利だから。便利なものをどんどん取り入れて使いこなす中国人はやはり合理的である。そして、日本では、規制などももちろんあるが、なかなか新しいサービスがすぐに広まらないことも多い。キャッシュレス化の必要性は長く叫ばれているものの、いまいち広まっていない。もちろんいろんな意見があってしかるべきだが、どんどん便利になりゆく中国社会に対して、どこか今の日本社会にもどかしさを感じる人はきっと僕だけではない気がする。
◯社会に充満するパターナリズムとその限界(前半)
中国ではあらゆるところに広告が貼られている。地下鉄に乗っているときに外に目を向けるとトンネルの壁に広告が流れていたりする。エスカレーターに乗ると、取っ手や隣のレーンとの間の空間に広告が貼られている。ホテルのエレベーターに乗ると、天井やドアの内側に広告が貼られている。日本人には考えられないようなところに、広告がたくさん張り巡らされている。その内容は様々だが、教育系の広告の多さが目につく。日本にもよくあるような大学受験の塾はもちろん、MBAや海外留学の対策塾、TOFELなどの民間の英語検定の対策塾、さらには小学生中学生向けの塾の広告もある。もちろん日本にも教育系の広告はたくさんあるが、その量とバラエティの豊富さは日本の比ではない。中国人家庭は教育に厳しいというのは、多くの日本人の知るところでもあり、実際に作者自身小さい頃はかなり勉強面で厳しく叱られた経験が何度もある。教育にみられるように、中国社会はものすごく競争社会である。いい大学にいくために死ぬほど勉強して(しかも二次試験や私大がある日本とは違い、中国はすべての大学が”高考"とよばれるセンター試験みたいなもので一発で決まる)、そしていい大学に行けても学部だけではいい企業に就職できず、ほとんどの人は留学もしくは院にいき、一生懸命勉強してもそれでもなお就活で厳しい競争にさらされる。これだけの競争社会であるため、親は子どもに対し、小さい頃から厳しく教育する。幼稚園の頃から習い事をたくさんさせ、小学校・中学校にかけて厳しく教育し、高校に入るともちろん大学受験のための勉強をたくさんさせる。このような厳しい環境を嘆く中国の学生の声をなんども聞いてきた。「高校の頃は親と先生双方から恋愛を禁止された」「なんども病みそうになった」「日本からの留学に帰ると、中国の大学はなんてプレッシャーとストレスに満ちてるだろうかと思った」。作者自身は小学校三年生までしか中国にいなかったが、なんども執務室で居残りをさせられた記憶がある。さて、このような厳しい環境はどのような副作用をもたらすのだろうか。中国では近年、”仏系”とよばれる若者が出現し、日本でいう「さとり世代」に近いものである。北京大学でも、ネトゲ廃人が増えていると聞く。かつて日本で80年代、90年代にヤンキーの登場や援交ブームなどに代表されるような若者の不良化が起きたこと、さとり世代、草食系男子など若者の無気力化が近年起きていることを想起させる。過度なプレッシャーの副作用は中国社会でも出始めている。
(後編に続く....)
https://note.mu/tokuyuk/n/n5c7b4ccc5bf8