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日常のお茶

友人農家が会長を務める「ふじのくに山のお茶100選」銘茶コンテスト、に今年も出品させて頂きました。
今年も認定されると嬉しいなぁ。

当苑は在来煎茶「神すゞしめ」を出させて頂きました。
コンセプトは「日常のお茶」です。
皆さんが日常、普段飲むお茶ってどんな物でしょうか?
人によって様々でしょう、今ならペットボトルドリンク茶が多いかもしれませんし、ティーバッグも便利。
ほうじ茶や番茶など、熱いお湯で頂くお茶が美味しい季節なる予感がようやくしてきましたね。
「いやいや私は毎回良いお茶をちゃんと湯冷しして急須で飲んでいます!」という方がいらっしゃるのなら、一茶農家としてとても嬉しいです。茶に日々手間と愛情を掛けて頂いている事に深く感謝致します。

日常とは何か。
それを深く考える機会が近年何度かありました。
一つは去年の台風15号での被害です。
幸い当苑は極軽い、被害と言えない様な範囲で収まりました。
ですが、近年大した台風被害が無かった近隣地区で、その猛威を実感しました。
陸の孤島と化ししばらく通行出来なかったり、水道等のライフラインが断然したり。
つい最近も、今もって通行出来ない茶園を見ました。
普段、当たり前だという事が出来ないと言う意味は、体験しないと分からないものでした。

もう一つ。
ここ何年もずっと燻ってきたモヤモヤが表出してきました。
茶農家の廃業や茶園の放棄です。
それは以前からでしたが、今年の茶シーズン初めから見聞きする事態は、いよいよ私の頭の中を広く占める様になってしまいました。

ぶっちゃけ、そう言えばぶっちゃけって最近あんまり言わないですかね?いやそれはどうでも良いんですが。
ぶっちゃけお茶って、無くても人間生きていけますよね。無いとカロリーや栄養素を補給出来ないとか、そういう性格の物では無い。
明日この世から飲むお茶が無くなっても人類は滅亡しないです。お米とか麦とか野菜お肉とかとはそこが決定的に違いますよね。

これってお茶の木にとっての人間もそうなんです。放棄茶園ご覧になった事は有るでしょうか?とても元気に伸びやかに、高く高くお茶の木は成長します。
放棄茶園を改めてしっかりと見る機会が以前ありました。
その時思ったのは、まるで人間のくびきから解き放たれて、解放されて本来の姿を取り戻したかの様な。
そんな生命力を感じました。
そう、お茶も人間が必要じゃないんですよね。彼らは彼らで今までしっかりと命を紡いできました。それは今後も続いていくでしょう。

お互い、ただ生きていくという点、生存に絶対必要と言う訳では無い茶と人間。
ですが、その関係を保つ為にこれまで人は多大な労力を払ってきました。
個々の農家さんの日々の茶園管理から、対価を得る為の製品とする為の製茶工程、そしてそれを支える各種産業やインフラ。それらを包括する地域全体。
文字通り社会と言う関係性を持ってして、人は茶から恩恵を受けられる訳です。
人と茶とが関係を保つ為には、不断の行動が必要なのです。

近年、茶需要の低下から作物転換や放棄廃業もやむなし、という声が以前に増して聞かれる様になりました。
なんと言えば良いのか…他人事というか、ただ生きていく事だけを目的とする、とでも言えば良いのか。
それならば、食えない継続出来ない事を続けようとするのは愚かな事です。辞めるべき。そう思います。

一方で、1人の農家として畑に立って居る身からすれば、理路整然としている訳でも無くただの肌感覚に過ぎませんが、一度その関係を断てば最後なんです。
一旦畑を見放せば、あっという間に草に飲まれ”茶園“として存在し得ない。
もちろん手で少しずつ摘むくらいは出来ます。時には良い物が出来たりするでしょう。
ですがそれは農業とは言えません。安定した収穫や収益は見込めない。それはもはや産業ではありません。社会を構成する要素では無くなる。そんな気がします。

茶と人間がこれまで築いてきた関係性を保つ為には、人間はずっと茶園に立つ必要が有る訳です。
その為にも、“良いお茶”を作らなければならないんです。飲む方が必要とするお茶を。
茶の恩恵を頂き未来を紡ぎたい。ならば畑に立ち続けなければならない。儲かるとか儲からないとか言う以前に、“茶園“として存在してなければならない。
先ずはそこなんです。
そして、その為にも良いお茶を作り、必要とされる、社会を構成する一つの要素とならなければ。
ここ最近私はそう考えています。

上記は1人の茶農家としての偏った考えです。
幾らでも供給される物で、需給が合わない以上は淘汰されるべきはされるし、成り立たないならば放棄や廃業も当然。
それが一般には至極真っ当な考え方だと自分自身思います。
こんな言い方は良くは無いでしょうけれど、「実際に畑に立つ者でなければ分からない」事だと思います。
生業や生活、贔屓や感傷も込みの一農家の思いだとご理解頂ければ幸いです。他のどんな物事もそうでは無いかなと。
皆、何もかも数字だけで成り立つ訳でも無く、一方で数字を無視する訳にもいかないんです。
茶が好きだからこそ、そこで迷いに迷っている茶農家さんはとても多いのではないでしょうか。

もちろん皆様がお茶を飲む時にそんな事を考えろとは言えません。他のどんな産業もそうでしょうし。
ですが、もし良かったら少しだけ考えて欲しいのです。
日常、普段と変わらず滞りなくなく過ぎていくこの日々が、とても尊い事を。
もしかしたら、ですが今何気なく飲んでいるそのお茶は、しばらくしたらもう手に入らないかもしれません。普段飲みしていたこのお茶がとても高価になってしまうかもしれません。
日常って実に儚いと思うんです。一旦歯車が狂えば一気に回らなくなる、崩壊していく。そんな物かもしれません。
だから感謝しろとか口が裂けても言いませんし、私は自身が茶業をやりたいから勝手にやっているだけです。
でも、今当たり前の様にそこに在る物。もちろん茶に限らず全ての物がそうなんですが、いつまでもそこに在るかどうかは確かではありません。

日常が如何に尊いものか。
そう思いつつも、それを意識する事も無い事こそが最も幸せなのでしょう。
何の気負いも無く、日常の幸せを味わう。その傍に有って欲しい。
当苑のお茶は全てその様に願いつつ、皆様の元にお届けしております。

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