捨てる生き方 お遍路経験者の読書メモ
2023年、8月。
Xを徘徊していると、たまたま橙色の袈裟姿のお遍路さんが目に留まった。
その方の投稿が、まさしく自分が通った場所で感じていた感覚と同じような心境をポストしており、懐かしく、嬉しい気持ちが湧き起こってきた。
風に揺られる田んぼの稲が作り出す、自然のアートに感動したり。
川の流れに心を奪われ、ずっと流れゆく様子を眺めていたり。
ポストを遡り、共感の嵐が吹き荒れ、いいねを押す指が止まらない。
いったい何者なんだと調べてみると……
・「17LIVE」のグローバルCEO
・「ジモティー」の立ち上げに関わる
など、年商100億円を超える規模の元IT起業家だということが分かった。
調べる手が震えた。
そんな凄い人なんだ……
話してみたい。
でも、僕なんかができる話なんてない。
いや、待てよ……
曲がりなりにも僕だってお遍路を経験してる。
ポストの内容だって共感できる。
そして、このお遍路さんは、高知県を抜け、愛媛県の愛南町へとやって来ている。愛南町から宇和島市内までは、泊まる場所がないんだ。
ちょうど歩いて現在の位置から30㎞ほどの地点に休憩所があることも知っている。そこで待ち合わせて、ウチでお接待をさせて頂くことはできないだろうか……
高鳴る鼓動の中、DMを送ってみる。
思ったよりもすぐに返信が返ってきた。
なんでもない金曜日が、とんでもないことになってしまった。
しかし、これは、人生の転換点になる気がする。
そんな思いで、嫁さんを戸惑わせながら、「明日、お遍路さんを迎えたから、お接待してあげよう?」と告げ、ウチの(神)の逆鱗に触れないよう、慎重に事情を伝えていった――
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そんな経緯がありまして、ありがたくもこんな田舎の個人事業主の築46年のお家に、あの小野龍光さんをお招きさせて頂きました。
このご縁を通じて、2025年、1月17日に出版された【捨てる生き方】をご献本頂いた、という経緯になります。
この本、小野龍光さんと北海道の僻地で総合診療医をされている香山リカさんとの対談本なのですが、対談形式とは思えないほどの濃い内容で、改めておふたりの思慮の深さに感動させられました。
本は、何度も書き直す余地があり、体系的に分かりやすくまとめることができる媒体なので、如何様にも作り変えることができると思います。
しかし、話すとなると、自身が持っている能力というか、思考がそのまま言葉として出力されてしまう。
いわば、ごまかしが効かないということ。
対談形式の本は、基本簡単な文章で書かれ、それゆえに読むスピードも速くなり、読後感も軽いモノが多いのですが、お二人の表現される言葉は的確で深いモノが多く、何度も読み返して反芻する……ということが多かったです。
236ページの対談本なのですが、小説を読むかのごとく一文字一文字を咀嚼しながら読むことができる、読後の充実感の高い素晴らしい本でした。
このnoteでは、本の内容についてはあまり触れません。
僕が読んで心が動き、思わず走らせざるを得なかったメモを公開する、という形にしようかなと思いました。
おまえの読書メモなんか興味ねぇよっ!
というツッコミが聴こえてきそうですが……
お遍路経験者で、現在絶賛、資本主義のゲームに苦しんでいるプレイヤーの端くれとして、捨てる生き方というテーマの本を読んでどのような感想、想いを抱いたのか。
走り書きの読みにくい文章ではございますが、少々お付き合い願えると光栄でございます。
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手放せば、空ければ空けるほどに新しいなにかが入ってくる。
失えば、失うほどに新しいなにかを得ることになる。
与えれば、与えるほどに新しいなにかを受け取ることになる。
貰えば、貰うほどになにかを差し出すことになる。
集めれば、集めるほどに新しいなにかを得る空間を失うことになる。
人になにかを与えれば、それは神様への投資となり、いつかなにかの形で受け取ることができるようになる。
時間、持ち物、自分に余白を開けておくことで、その余白を埋めるなにかを得ることになる。
人は、ひとつの大きな目的だけを持って、その目的の遂行のためだけを思って選択をしていったので良い。大きな流れの中に乗るためには、人との縁が必要不可欠。
必要な縁は、お互いが引き寄せ合って成り立つようになっている。
その縁から、どのようなことを学ぶことができるのか……
その時、その人の人間力、在り方が問われる。
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捨てようがないモノだけで生きる。
捨てて、捨てて、捨てきって、それでも残っているモノだけで生きる。
ゼロの状態で、入ってくるものは拒まない。
どんなモノでも、偏見を持たず、学ぶ姿勢を持って受け入れてみる。
咀嚼し、主体的に選択をする。
必要なモノなら、捨てても捨ててもまた戻ってくる。
何度も金剛杖をなくしても、コンビニに忘れても、バスの中に忘れても、必ず手元に戻ってきた。善根宿に御朱印帳を忘れた時も、管理をしている方がわざわざ僕のことを探して手渡してくれた。
カメラは一度忘れたら、もう戻ってこなかった。
だから、そういうことだ。
必要なモノは、手放しても戻ってくる。
手元に残らなかったモノは、自分に必要のないモノだったということだ。
そして、新しいモノは、必ず余白がなければ入ってこない。
与えれば、手放せば、新しいなにかが、必ず入ってくる。
余白を開けて、心を開いて待っていよう。
流れるままに、流されるままに……
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心無罫礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究境涅槃
心に罣礙(けいげ)無きが故に、恐怖あること無く、一切の顛倒夢想を遠く離れ、涅槃を究境(くぎょう)す
凝り固まった思考が、目の前の事をあるがままに捉えることを妨げ、偏見の目で夢想をした状態で見てしまう。
今までの人生で収集した偏見のコレクションが、目の前の出来事を湾曲して捉えてしまう原因となる。
この人はこんな反応をしそうだから、こう対応しておくか……
この行動をすれば、こんな結果が返ってきそうだから、こうしとくか……
自分の心に巣食うしがらみによって、自分の行動を縛り、行動規範から外れることが恐怖となる。
相手をコントロールするために、虚勢を張ったり、威嚇したりする。
威圧的な印象を与えられない行動は規範から外れる行動となり、自分の選択できる行動パターンに制限を与えてしまうことになる。
本当はあの人を助けたいのに。
本当はあの人と話したいのに。
張った虚勢が解かれ、周りに隙を与えれば、攻撃されるのではないかと妄想が浮かんでくる。
この妄想による必要のない恐怖からの解脱をするためには、心を縛っている偏見のコレクションを手放していく必要がある。
その為に必要なのが、毎日の正しい行いだと思う。
挨拶をする。
散歩をする。
掃除をする。
ひとつひとつの動作を丁寧に行う。
丁寧な挨拶をして、丁寧に返してもらえたら、挨拶は気持ち良いモノだというコレクションが加わる。
朝日の中、散歩をして自然の中を歩けば、絡まった思考課題に解決が図られ、歩くことも無駄なことではないというコレクションが加わる。
掃除をして、綺麗になった場所を見て心の中のモヤモヤも晴れていくことを感じられれば、掃除という作業もメディテーションのひとつになるのだというコレクションが加わる。
経験を通じて、自分の中にある偏見のコレクション、自身を司る気付きが、自分にとって心地良いモノであればそれで良い。
自分を生きるとは、他の影響を受けず、自分の心の喜ぶことに、素直になって行動をすること。その行動が、傍から見て滑稽でも、情けなくても、その行動を貫く勇気を持つことができるかどうかということ。
本当に楽しそうに生きている人は、世間一般の基準から離れていても、自分の心に素直で、人からの嘲笑に影響を受けずに行動できる人。世間一般の常識に則らず、自分の持つ法に則った行動を起こす勇気を持つことができるかどうか。
心に罫礙なく素直に生きられれば、嘲笑も妬みも疎まれも、恐怖の対象とはならない。
自分の起こす行動が、他人をコントロールするためのモノではなく、また他人からのコントロールを受けた行動ではなく、自分の信念に沿った行動である限り、周りのどんな反応も自分の心を恐怖で縛ることなどできない。
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肩書に固執せず、自身を磨くことを心掛けていれば、どんなことからも学ぶ姿勢を持つことができる。
人間の目的とは、自己の研鑽。
ただそれだけなのではないだろうか。
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いつ死んでも良い。
死を受け入れることができるように。
死の克服。
人間も自然の一部。
自然を内面化し、穏やかに枯れていくような死を受け入れる。
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仏教はあることに気付く宗教。
神教は、ない中でも神からの愛を感じさせる宗教。
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死生観
あるがまま、道のままに生きる人は、長生きしたいとも願わず、死を嫌悪することもない。
この世に生まれたことを喜ばず、この世を去るからとて嘆きもしない。
自分自身をも、単なる自然現象のひとつとみなし、死を特別な事と思わない。
~小池龍之介~ いま、死んでもいいように
自然と共に生きる人は、自然の中の一部としての自分という認識ができあがっているのかもしれない。
本能的に、自然に還るという意識が深層心理の中にあり、それが故に、死を過剰に怖がることもなく、不自然に長生きすることも願わず、ただ、自然の成行きのままに自分が循環していくということを、悟り、受け容れているのかもしれない。
仏教において生とは(苦)であり、その(苦)からの解脱がテーマの宗教とされている。仏教とは、お釈迦さまと呼ばれる(ゴータマ・シッダールタ)という実在の人物が見出した気付きを元に経典化され、衆生に布教されたという経緯を持つ。
そのため、宗教というよりはむしろ哲学であり、苦しみの輪廻の中から抜けるための考え方、行動の方法を問う、実践的な方法論を知ることができるという性質がある。
人生には、大きく四つの苦しみがあると定義され……
1.生
2.老
3.病
4.死
生老病死の四つの苦しみとどう向き合うかを問うというテーマの宗教なのが仏教だ。
また、四苦八苦と呼ばれる言葉の通り、さらに四つの苦しみがあると定義され……
1.愛別離苦(あいべつりく)
2.怨憎会苦(おんぞうえく)
3.求不得苦(ぐふとっく)
4.五蘊盛苦(ごうんじょうく)
この四つの苦しみとの向き合い方を問うこととなる。
これらは、自身のコントロール下にはない苦しみであり、どのような行動、思考回路、捉え方をすることができれば、これらのコントロール不能な(苦)からの解脱を達成することができるのかを問うことが仏教のテーマとされる。
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人生には、その人に必要なイベントが用意されている。運命と呼んでもいいのかもしれない。そして、人生を変える運命とは、出会いの中に潜んでいる。
苦しみの中にあったから、出会えたご縁がある。
苦しみの中にあったから、気付けたご縁がある。
今に集中をして過ごすことを意識していると、ふとこの出来事が、あの時から続いていた因果の法の中に則っていたということに気付く時がある。
その気付きを得た時、真っ黒だったオセロの盤面が、一気に白にひっくり返るかのように、過去の捉え方が変わる瞬間がある。
過去に起きた出来事自体は変えられないが、今を生き続けることで、過去の出来事に対する意味付けを変えることはできる。
人は、変わることができる。
僕が女体山の山頂で読んだ退職日の日記を、まるで他人が書いていたかのように感じたように。
人は、出会いを通じて運命が変わる。
そして、その出会いは、苦しみから抜け出したいという願いによって、互いの運命が引き寄せ合う。
必要な人とは、必要な時に出会うように世界はできている。
ただ、その必要な出会いに気付くことができるかどうかは、自分自身に素直に生きているかどうかが肝心となってくる。
自分に嘘をついて生きていると、必要な出会いを見逃し、効率や打算といった欲望を元にした出会いに引き寄せられていく。
将来の自分にとって有益かどうかだけで、人との関わりを持つようになってしまう。
自分の心に正直になり、ただ、法則に則り。
帰依仏、帰依法、帰依僧。
過去も未来も見ず、期待もせず、後悔もせず、長生きしたいとも願わず、死を嫌悪することもなく。自然の中で、自分の正しいと思う道を進む。目の前の一歩だけを見て、もう一歩だけ踏み出してみる。その繰り返し。すると、見上げた空は輝いていて、振り返ると、思った以上に高い場所まで来ていることに驚くことだろう。
その積み上げた一歩一歩が、表面上の評価ではない、揺るぎのない自信となる。世の中の常識を疑い、自分と向き合ってみる。
自分の人生を生きる。
必要のないモノを手放し、手放しても手放しても残るモノを大切にする。
自然の中の一要素としての自分を実感し、資本主義の中における自分のランキングの位置に気をとられなくなる。
目の前の人を、偏見なく見る事ができるようになる。
どんな人からも学びを得ることができるようになる。
すると、生きることが喜びに変わる。
どんなモノからも学びを得ることができるようになる。
生老病死の苦しみすらも、学びの機会と捉えることができるようになるのではないだろうか。自分に正直に、素直な気持ちで、あるがままに目の前を捉え、生きる。
ただ、それだけでいい。
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自分のやりたいことは、本当に心の底から自分がやりたいことなのか?
それをした結果、得られる名声や賞賛の声を得たいだけなのではないか?
企業のマーケティング戦略に乗せられた、操られた理想なのではないか?
人は生まれてから今のこの瞬間まで、膨大な刺激による影響によって、今の価値観が形成されている。
資本主義の世の中で、年収や資産高のランキング、職業のイメージに左右され、世間や発信された情報から得た刺激を元に、自分の理想像を形成しているのではないか?
頭で考えた理想像には、必ず欠陥があると思っている。
自分が後悔しない理想像とは、自身が五感で体験して、本能的に良いと感じたモノを追求する姿だと思う。
それが、世間からのイメージとしてあまり良くないモノでも、資本主義の上位ランカーになれる可能性の少ないモノでも、自分が取り組んで意義を感じ、得られた結果に満足感と充実感を感じたのなら、それが本当に自分のやりたいこと、そして、やるべきことなのではないか。
目の前の課題に対して、自分が取り組み、改善のための結果を出す。
そして、その改善の結果、喜んでくれる人がいる。
喜んでくれた人が、自分のことを大切にしてくれる。
尊敬の念を互いに持ち、誠実に向き合う姿勢のある人同士というのは、それだけで大きな財産となる。
経験が浅くても、突出した技術がなくても、学ぶ姿勢を持ち、目の前の人になにかを提供したいと思う心を持つ人との出会いは、どんな資産よりも大きな意味を持つ財産となると思う。
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日々の生活に一生懸命向き合っている人を蔑視するつもりはもちろんないが、目的や理想がないと、あまりにも自分の感情に素直に生きすぎてしまうという側面はあると思う。
生きていると、なぜこんな目に合わなければならないんだと思うこと、理不尽なことに見舞われることなんて多々あると思う。
その時、理不尽な出来事の原因となったモノに対して、感情のままに怒りをぶつけたり、悲しみで自分の心を濡らしてしまうことになるのは、人間としてあまりにもったいない。
人間は、意志のチカラ、出来事と行動の間に、思考を挟むことができる生き物である。出来事への捉え方を変え、すべき行動を起こすためには、自分の生きる目的がないと難しいのではと思う。
正しい行いを続ける自分を、いい年して良い子ちゃんですね。と笑う人。
真面目に取り組む自分を、つまんねぇ奴だな。とバカにする人。
その声や嘲笑に流されて、気持ちが萎え、長きに巻かれ、楽な快楽に溺れるのか。それとも、それでもなおと心でつぶやき、自分の正しいと思う行動を貫くことができるのか。
その出来事と行動の間にある思考、捉え方を決めるのは、自分が成し遂げなければならない使命であったり、生きる目的なのではないかと思う。
辛い時期に優しくされたことが、すごく嬉しかったから。
どんな時でもどんな場所でも、掃除を徹底していたあの先輩がカッコイイと思うから。
想像を絶する過酷な訓練を経て、プロフェッショナルとして大きな責任の伴う役割を求められる場所に居ながら、謙虚でどんな人からも学ぶ姿勢を持ち、余裕を感じる佇まいを放つ人に尊敬の念を感じたから。
様々な人との出会い、出来事を通じて、目の前の出来事に対してただ反応をするのではなく、それでもなおと、自分の振る舞いを貫く強さを見せるためには、生きる意味を持つ必要はあると思う。
生きる意味を持たなければ、環境次第で、出会う人間次第で、その時の出来事次第で、流れるままに落ちていってしまうと思う。
どんな環境にいても、どんな出来事に見舞われても、どんな人と出会っても、それでもなおと自分を肯定する行動を起こす勇気を持つには、生きる意味、人生の目的のようなモノは、必要なのではないかと思う。
毎日を一生懸命生き、生きる意味や目的など持たず、目の前の課題と向き合い続けている人を蔑視することなどまったくない。
ただ、どんな環境でも、自分を肯定し続け、自分を愛し続けるためには、それでもなおと主体的な行動を起こすための燃料となる、目的や生きる意味というモノは、必要なのだと思う。
そして、生きる意味や人生の目的とは、尊敬できる人からの言葉ならぬ背中から感じられるメッセージによってもたらされる。
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Dear 龍光さん
エアコンの効かないサンバートラックの中で、30㎞以上を歩いた後に、資本主義についてなど、超抽象的な今後のビジョンについての評価など、高負荷な相談に乗って頂き、ありがとうございました。というか、いや、本当にすみませんでした。
年商100億円を超える企業を運営し、スタートアップを軌道に乗せてバイアウトをさせ、超高額なリターンを得る、資産を積み重ねるという資本主義のゲームをいわば攻略してしまった龍光さんが、なぜ、悩み、虚しさに苛まれ、そして、現在の姿があるのかということを知ることができました。
人は、目の前のことに一生懸命になれ、ひとつひとつのことに感動をすることができた青春という時代があり、そして、大人となり、資本主義のゲームの中で様々なアラートを無視しながらゲームの攻略に没頭していく。
次第に本当の自分の追い求めた姿よりも、世間や周りが望む姿を自分が体現することに尽力をしていくことになる。綺麗な家に住み、美味しいモノを食べ、良い車を楽しみ、不自由なくお金が使える生活を夢見る。
しかし、本当に人間が幸福を感じる瞬間とは、物欲を満たした先にあるのではない。
美しい朝日が昇るこの地球に居られることを実感した時、自然な笑顔で挨拶を返してくれる人との関わり、自分が求められ、なにかをしてあげたいと人を思いやり、その人のために行動を起こすこと自体に、幸福感のようなモノが沸き上がる感覚があるのだと思います。
ただ、まだ僕は、旅の半ば。
まだまだ欲しいモノがあり、経験したいことがある。
理想とするライフスタイルがあり、現状で満ち足りているという感覚は嘘になる。
まだまだ僕は、資本主義のゲームの中で、するべきことがたくさんあるようです。
お金を得ることに虚しさを感じることもない。
新しいモノを迎えることに、刹那的な虚無感を感じることもない。
良い車に乗れれば、シンプルに嬉しいし、たぶんずっと大切にする。
出費を気にせず買い物ができれば、稼ぐことの虚しさよりも、安心感のほうが大きいと思う。
時速300㎞出るバイクが好きだし、構築したビジネスが当たった瞬間のドーパミンに溺れる感覚も好き。
まだまだ僕は俗世の中で、資本主義のゲームの中で、快楽ホルモンの奴隷として苦しみと向き合いながら生きていく必要がありそうです。
これから先、もっともっとと追い求めた先に、虚しさを感じる瞬間があるのかもしれない。
高額な報酬を得ても、時速300㎞でバイクを飛ばしても、美味しいモノを食べても、何を買っても、手に入れても、虚しさを払拭できない瞬間が訪れるのかもしれない。
その時、龍光さんと共有した空間の意味を、知るのだと思います。
僕自身がお遍路をした時のことですが、一番札所を出て歩き始めた時に見た景色と、結願を果たしてお礼参りとして一番札所を目指して歩いて見た景色。
たった40日ほどしか経っていないので景色に変化などないはずなのですが、五官で得られた刺激から訪れる自身の反応が、まったく違って感じられたことを覚えています。
一周回ったからこそ、得られる気付きがある。
資本主義のゲームに、没頭したからこそ、気付くことがある。
捨てる生き方というテーマの本を読んで、まだまだ得ていく余地があり、必要があるということを感じたことは若干失礼な気がするのですが(汗)
得ていく過程で、膨張していく感覚に苦しさを感じるようになれば、龍光さんと香山リカさんのお話の本質に気付くのだと思います。
その段階まで旅路が進めば、また、空間を共有して頂ければ嬉しいです。
その時は、真夏のエアコンの効かないサンバーの車内ではなく、もう少しちゃんとした場所をご用意できるようになっているかな(笑)