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【インド】女性サドゥの頂点と覇気
サドゥエリアのあちこちの路地に入るうちに、一つの路地が女性サドゥ(サドゥイ)たちのテント村になっていることに気がついた。
男性サドゥのテントと違い、居間が外に向けてオープンな空間にはなっていないし、テントの前に聖なる火を燃やしておくドゥナという竈(かまど。女性器に見立てた囲炉裏の枠の上に男性器に見立てた大きな1本の薪を置く)もない。そのテントの間を女性サドゥがたくさん出歩いている。
ゆっくりと路地に踏み入って歩いて行くと、すでに通り過ぎた入口に近い大きいテントから「Hello! Hello!」と誰か飛び出して追いかけてきた。
振り向くと、若い女性サドゥだった。まだ10代かもしれない。
手に持った紙皿に載せられたお菓子とサモサを見せながら、「Eat!Come on!」と呼ぶ。
お言葉に甘えてお邪魔することにした。
男性サドゥとは違い、モンゴルの草原遊牧民のゲルみたいな広くて円いテントだった。恐らく会場が用意したものではなく持参したテントだろう。
中央に祭壇。壁には様々な模様の布が掛けられ、床には絨毯が敷かれている。
入って右側に高座が作られ、そこに女性サドゥのグルジ(師匠。女性なのでマタジとも呼ぶ)が座っていた。男性グルジとは違い全身に炎色の衣を纏(まと)っている。
堂々たる威厳に圧倒される。
跪(ひざまず)き、浄を示す右手で足に触って敬意を示し、胸の前で手を合わせてお辞儀をして参拝する。女性グルジは睥睨(へいげい)し、私の膝をついた様子をにこりともせずじっと見下ろす。そのうち、私の頭に右手を置いてくれた。ホッとする。認められたということだ。
そばに控えている、母性いっぱいといった感じでにこにことしたボブヘアのNo.2のおばちゃまサドゥと、ヒョウ柄の布で頭を包み、でんと座っているどこかファニーなNo.3のおばちゃまサドゥにも順番に敬意を示し祝福を受ける。これでOKだ。テントの隅、末席に移動して座る。
テントの端から見ても、No.1の女性グルジの存在感が凄まじい。何をする訳でもなく高座でゆったりと寛(くつろ)いでいるだけだが、まるでそこに山が鎮座しているかのようだ。テントの中の重力が全て彼女に集まっているかのような錯覚を覚える。空間を歪ませるほどの威圧感。
これを、覇気、と言うのだろう。
この覇気は、以前、一度だけ触れたことがある。サウジアラビアのスポーツイベントへの出展で政府ビザを取得して訪問し、その主催者だったリーマ王女にお目にかかってお話ししたときだ。スポーツ庁の副長官を務め、血統も権威も手にして、女性の運転免許解禁などじっくりと社会改革をしていた。
私がグルジ(これからビッグマザーと呼ぶことにする)に認められた様子を見て、私をテントに招き入れた若い女性サドゥは安心したのか雰囲気が緩んだ。激甘のお菓子とサモサ、それにペットボトルの水を出して、自分はウマギリだと名乗った。
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テントの中には他の女性サドゥもいたが、みな相当な年配ばかりだ。ウマギリが抜きん出て若いが、他の女性サドゥに指示を出している。次に若いのはビッグマザーかもしれない。年齢は関係ないのだ。
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テントには男性サドゥも入れ替わり立ち代わりやってきてグルジに参拝していく。
そのうちに、米国からやって来たというヒンドゥー教徒の男性がガイドを二人連れて訪問してきて、ビッグマザーに捧げる歌を唄った。ビッグマザーはそれほどの格を持ったグルジなのだ。
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サドゥの世界では、女性サドゥはもちろん、近年LGBTQサドゥも認められて一つのグループを作っている。
サドゥが帰依するのはシヴァ神、一部ヴィシュヌ神でどちらも男性、シヴァ神に至っては男根の神様だ。信仰と相反する存在となる女性やLGBTQは、それでもサドゥのコミュニティで様々な話し合いを経て徐々に認められていったようだ。
そういった懐の深さ、包摂(ほうせつ)、定義は存在するもののより本質を重んじる考え方が、何もかもあるがままとして呑み込んでいくヒンドゥー教らしい。それに、カースト制度を超越して受け皿になるというサドゥの出家の側面からすると、裾野を広げれば救われる人たちは増える。
ジェンダーは何であれ、自己と向き合い神に帰依する精神面に違いはない、とサドゥたちは柔軟に考えているのかもしれない。
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