そもそも…なぜ冒険するのか
雇われ社長(俗にいうプロ経営者)として2社、FMラジオ局と旅行会社という楽しい事業の経営をしてきたのだが、その最終的なミッションは利益を増加させて会社そのものを売却することであった。
経営において、社員一人ひとりが自分たちの仕事の社会における意味を大切にできるようにし、お客さまとの心のつながりを意気に感じて仕事をしてきたが、残念ながら資本主義の論理の下でそれがまかり通らない場面にしばしば遭遇した。それには最終責任者として悔しい思いがある。
もちろん、売上は社員みんなとその家族の生活の糧になるし、社会をより良い方向にしていくには事業の成功と継続性が必要で、それには資本主義のルールに則るのが手っ取り早い。
ただ、もっと他のやり方もあるのではないか。自分が至らないのではないか。これで本当に“豊か”と言えるのか。そもそも経済のとらえ方から違うのではないか?
そんなことを考えていた。
実は2社の経営の合間に、働く人の精神の安定をテーマとした起業を考えたことがある。あれこれ考えて、行きついたのは宗教だった。
これを読んでくださっている方は、ちょっと怪しいぞ、と思い始めたと思う。書いている自分でもそう思う。ただ、少し我慢して読んでいただけたら嬉しい。
2007年に日本を出て放浪したとき、他国における宗教の浸透に心底驚いた。
例えば、当時の私は2001年の同時多発テロ以来イスラム教徒に怖いイメージを勝手に抱いていたが、中東を旅すると、ローカルの人びとの心の安定や前向きに生きる意味づけにいかにイスラム教が貢献しているかを痛感した。
人びとは、優しく、人懐っこく、明るかったが、それはアッラーの神ゆえ、イスラム教の教義ゆえなのだと分かって仰天した(興味津々で一緒に1か月断食をして、イスラム名を頂いた)。
イスラエルでユダヤ教徒の皆さんとシャバットを過ごしたり、ブッダが悟りを開いた仏教の始まりの場所に行ったり、アフリカでエチオピア正教のクリスマスを祝ったり、南極ではロシア正教の教会を訪問したりして、目から鱗の連続だった。
一方で日本は宗教観が薄い。みんな、ほぼ無神論者だと自認しているのではないだろうか。
だけど、心が安定しているようには見えない。そして心の拠り所が少ないからか、会社に精神を依存させてしまっているように見えたことがよくあった。仕事で鬱病になる人が多すぎる。これも、宗教観が薄いことが関係しているのではないだろうか。
そこで、ソフトにみんなの心の支えになり、決して儲けや権威を追求しないような新興宗教を起業してみたら楽になる人が増えるのではないかなと思ったが、調べてみたらハードルがかなり高かった。
それなら、といろいろ聞いて回ったら、中国人が日本の神社を多く買っていることが判明した。ショックだったが、会社の買収のように宗教法人を買収して再建したら目的に沿うし、それは私の得意分野だとも感じたわけだ。
ただ、これは頓挫した。いくつかの神社をピックアップしてどのように買収額を算定しようかと思っていたとき、神道に通じていらっしゃるとある一族の子孫の方から「待った」がかかったのだ。神道の真髄は君が思っているよりも深く難しいから、やめておきなさい。私が理解しえない神聖な領域があるのだろうと感じ、このときはきっぱり諦めた。
とはいえ、生きづらさや苦しさが伴う人生というものには、信じるに足るストーリー、物語が必要なのだと感じている。それが、世界的に見ると宗教なのだと思う。
とはいえ、宗教は扱うのが難しい。宗教自体、権威の基盤や統治の手段になり得る危うさが常につきまとい、戦争やテロの引き金になってしまうこともある。
では、自分自身との向き合いや自分を好きになることの本当の意味、真の豊かさや幸せは何かということを、世界の宗教を参考にして理解し、伝えることはできないだろうか。
私自身は恥ずかしながらそこまで仏教に詳しくない仏教徒であり、日本の神道の良さや清らかな神社を参拝する際の気持ちよさも知っているという程度だが、この辺りの理解も深めていくこととして、同時にもっと宗教を幅広に見て、宗教が意味している長所そのものを取り出して表現することで、生きやすさというものに繋げられないだろうか。
それに何より、自分は冒険が好きだ。めちゃくちゃ好きだ。
自分は運動が好きで体力がある方だと思っていたが、どうもいつもエネルギーが有り余っている。旅しているつもりが、ハタから見ると奇異に見えるのか(自分ではそう思っていないのだが)、冒険といった方が近いような形になりがちだ。
この地球を構成している多様な要素は面白くて飽きることがない。まだまだ自分の知らない場所に行ってみたい(宇宙だって行ってみたい)。未知の世界観で暮らしている人たちに興味が尽きない。その人たちの多くが従っている宗教観とその物語性(narrative)を感知したい。そこから地続きになっているはずの豊かさや幸せの形を改めて発見してみたい。そしてそれを伝えたい。
社長を2社務めてある意味の限界を感じ、本当の“豊かさ”とは何かを考え始めた私は、今、そんな冒険を始めている。
(2025年1月時点)