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【インド】自己解放のためのサドゥ修行
ヒマラヤで修行をしているサドゥは、時にその一端を見せてくれたりもする。
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頭には花で作られたリンガ。
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全身の菩提樹の瞑想に寄与するといわれる。
ひと目見た瞬間にハードな修行をしていると分かるサドゥもいる。
片手を上げ続け、死ぬまで決して下げないサドゥたち。腕が瘦せ細り、爪が伸び放題で指は変形している。これは、彼らが崇拝するシヴァ神が大切にする牛を攻撃しません、という意思表示であると同時に、身体性を離れて精神と対話するための修行らしい。どこか遠くを見る目つきをしている。
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ずっと立ちっぱなしで、死ぬまで座らないサドゥ。おそらく倒れてしまうからだろう、テントに下げたブランコに上半身を寄りかからせて立っている。澄んだ目で、両腕、両足に彫ってあるヒンドゥー教の神々を順番に見せてくれた。
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足の指の間に金具を取り付け、痛みを忘れないと共に自らが踏みしめる大地を常に意識しながら歩くことを課している修行をしているサドゥ。最初は怖かったが挨拶を交わすうちにテンションが上がってきたようで、陽気だった。
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サドゥには実は特に決まりはない。修行をしたければすればいいし、したくなければしなくてもいい。ハードコアにやってもいいし、やり方は人それぞれ。
最も大事にしているのは、「自由でいること」。
唯一行うのは、自由でいるために、己を見つめ続けること。
自己解放のために、ヨガや瞑想、ときには身体性を束縛するような修行が役に立つようであれば、それを行うのである。
自分がしたいと思ったこと、自分が決めた信念にのみ従い、その信念の中には自分が帰依したいと思ったババジ(師匠)に弟子入りをすることも含まれる。クンブ・メーラでは剃髪して沐浴し、正式に弟子入りする儀式の日もある。
サドゥに参拝するこちらとしては、サドゥの「自由」を尊重し、不躾(ぶしつけ)に質問をするのはご法度だ。その質問がサドゥにとっての自分自身との対話を妨げる場合があるからだ。話しかけた人が、サドゥに怒鳴られたり無視されているのはよく見かける。
私が特に聞いてはいけないと感じるのは、「なぜサドゥになったのか」という質問だ。これはサドゥの心の根本に関わることで、必ず何かしら浮世で受けた痛い心の傷に直結している。そのプライバシーには決して触れられない。その傷と向き合うのは本人だけであり、私が侵害していい類ではない。
サドゥの自己解放のプロセスを妨げたくない。
今回は穏やかな目をした子どものナガサドゥにも二人会った。恐らくだけれど、親との関係で何かあったのだろうと想像する。気にはなるけれど、絶対に聞きはしない。
一方、サドゥから話したいことがあればじっくり聞けばいい。
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子どもサドゥの穏やかな目。
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インド人にとっては、サドゥは興味深いが、同時に怖い存在だ。自己との対峙を通じて神に近くなっている存在と考えられている。
お賽銭と共に敬って足を触って参拝をし、サドゥから第三の目に灰を塗ってもらい、孔雀の羽で頭を撫でられる(時には直接バンバンと背中を叩かれることもある)ことで煩悩を取り去ってもらい、右手を向けてもらって祝福を受ける。
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サドゥは俗世を捨てているし、素性も分からないし、カースト制度でどこにいた人たちかもわからない。それでも、俗世を捨てて神に近い存在になっていることで、怖がられると共に尊敬されているのはなかなかに粋だ。
サドゥはすでに自分を死んだことにしている人たちで中には葬式や死亡届提出を経てから山に入ったりもするため、いったい何百万人存在しているのか全く把握できないそうだ。ナガサドゥだけでも物凄い数がクンブ・メーラに来ている。無数にある彼らのテントの前を歩きながら、なんとなく心を惹かれる、なんとなく感じるものがある、そんなサドゥのところに立ち寄って、参拝をする。サドゥの方も何かを感じるのかその場合はたいてい応じてくれる。とはいえ、そんな素振りもなく、早く立ち去れという雰囲気を出されることもゼロではない。
時にはそのまま、写真を撮らせてくれたり、なんとなくチャイに誘われたり、月餅のようなお菓子やクッキーの袋をくれたり、いくつもの飴ちゃんをくれたり、パパイヤを切ってくれたり、色々と話をしてくれたりする。
これもそれも、基準は一瞬のその場の縁と、いうなれば好き嫌いだ。だって、自由だから。
自由でいることってそういうことでしょう?とサドゥは暗に示してくる。
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