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マッカーサー3原則と政府見解(精巧なガラス細工)について
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Nさんが引用したマッカーサー3原則の第2原則は、昭和21年2月1日に松本案がスクープされ、その保守性に業を煮やしたマッカーサーが民生局長(GS)のホイットニーに示して憲法改正草案の作成を急がせたものです。
それから2月13日に松本丞治大臣に手交されるまでの間に改正草案が作成されるわけですが、民生局での議論を経て、9条から「さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも」の部分が削除されました(ゆえに、日本語文からも消えています)。
https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/nishi.pdf/$File/nishi.pdf
この削除は、当然、マッカーサーも了解していると解されます。松本丞治大臣に交付された9条の英文草案において削除された部分は
and even for preserving its own security. です。
自衛権は放棄していないとする政府見解の根拠の1つが、マッカーサー3原則から上記の部分が削除されていることにあります(同旨、佐々木惣一、覚道豊治、佐藤幸治、大石眞など)。
第2の根拠は、日本が締結したサンフランシスコ平和条約に「固有の自衛権(個別的自衛権及び集団的自衛権)の保持を確認する」とあること。
第3は、文理解釈ですが、2通りあります。1つは、2項に「前項の目的を達成する為」との芦田均が挿入した限定節があることです。いわゆる芦田修正説。この説は、自衛の為の軍隊は持てるとする(芦田均、佐々木惣一など)。
第3の文理解釈の2つ目は、1項の「国権の発動としての戦争」と「武力による威嚇又は武力行使」を分け、「国際紛争を解決する手段として」は、「武力による威嚇又は武力行使」にかかると読み、「自衛のための武力行使」は放棄していないとする(覺道豊治、佐藤幸治など) 。
第4に、砂川事件最高裁判決は、日本が固有の自衛権を保有していることは自明のことだとしています。
政府見解(第3の2)(限定的武力行使可能説)は、独立(1952年)から70年も維持され、今は安定しています。法学部の学生やエリート官僚はこの解釈を習いますが、なかなか技巧的な解釈です。僕は、70年間に亘ってエリート官僚がつくりあげた「精巧なガラス細工」といっています。
しかしながら、NさんやYさんのような読み方も当然あるわけであり、それが東大憲法です。吉田茂のように、1項は自衛戦争を否定していないが、2項で軍隊を放棄することで、自衛権も放棄したと解する説(宮沢・清宮)と1項の国権の発動としての戦争に自衛戦争も含む見解(芦部)とがあります。
そこで「自衛隊を保有を認める」条項を付加する安倍元総理案は、自衛隊は合憲であるが「違憲の疑い」を否定できないため、この疑いを完全に払拭する為の改憲ということになります。
京大憲法学は、自衛権の放棄を否定しています。その根拠として、このマッカーサー3原則で示された第2原則と憲法9条との明らかな違いを指摘しています。自衛戦争を認めた国連憲章との関係において日本が国連に加盟できなくなるという懸念が表明されたことがGHQで憲法改正草案を作成したハッシーとラウエルが語っています(憲法調査会資料)。彼らは吉田茂の自衛権放棄演説を聞いて驚いたと証言しており、芦田修正(念の為に挿入)に続きます。
僕は、第2原則の議論よりも、第1原則の表現の変化に注目しています。左派は、天皇は象徴であって元首ではないと主張しますが、第1原則には元首であることを明記しています。この部分についてGHQ 内で議論があったという記録はありません。その趣旨は変えないで、英国における象徴という言葉の意義に至高存在と元首の意味が含まれていることに着目してより、洗練された表現にしたと考えられます。「たかが象徴」「されど象徴」です。
以上
(R4/11/30 MLでのやり取りから)