発達の凸凹はあってもいい。今、必要なのは昭和の適当さ? 2週間チャレンジ⑬
「それって、あなたの意見ですよね」
最近、息子に何か注意をすると、すぐにこうやって言ってくる。あぁ、腹が立つ。どうやらクラスにこう言ってくる子がいるらしく、その真似をしているそう。
その子のことは私も知っていて、昔から頭の回転がよくて、屁理屈をこね、最後は口で大人を打ち負かすタイプ。先生が手を焼いているのも何度か見たことがある。こだわりも強いため、集団の中では浮く時もあるが、本人はまったく気にしていない。長いものに巻かれやすい息子は、その子の「俺は俺」という感じがまたいいんだと言う。
その子は小学校に入る前、発達障がいのグレーゾーンと言われ、小学校に入ってからは一時期支援級に通っていたこともあった。なぜ?と周囲は不思議に思っていたが、こだわりの強さを専門家に指摘され、親の考えで支援級に入れることにしたという。結局、途中から普通のクラスに戻って、頭の回転の良さを見事に発揮し、今は好きなものに対するものすごい集中力で、好きな教科はめちゃくちゃできるそうだ。
その子は周りに何を言われようがへこたれないメンタルの強さがあって、自己肯定感をくじかれている感じはないけれど、多くのグレーゾーンの子どもたちが幼少期から10代で自己肯定感を周囲によって下げられているそう。
この間参加した発達障がいのフォーラムで、発達障がいの子は11人に1人という調査結果の話題が上がっていた。ここ数年で急増していると言っているけれど、そもそもそんなに急に増えるはずはないと専門家の方は話していた。昔から多くの子どもに発達の凸凹はあり、それでも家庭や保育園・幼稚園、地域などでゆったり、肯定的に育てられ、愛着形成がしっかり行われてきたことで、大きくなってからも苦手なことをうまく避け、得意なことを伸ばして生きていっていると。近年、これだけ発達障がいと言われる子どもが増えたのは、幼少期の愛着形成ができていない愛着障害、保育園・幼稚園・学校での集団適応の強制や否定的な指導による適応障害が原因ではないかと言っていた。これは納得のいく話だった。
発達障がいの有無に関わらず、これだけ個性だの多様性だの言っているわりに、保育園・幼稚園・学校・会社という集団や組織では、まだまだ集団適応の強制や否定的な指導がたくさん行われている。いろいろなことがマニュアル化されすぎて、教室や職場でもマニュアルから外れると問題視される。多様性なんて言葉を聞いたこともなかった昭和時代のほうが、多少ズレても「いいよ、いいよ」という大らかさがあった。気持ちにも余裕があって、心地よい「適当」があった気がする。
話はズレるけれど、昭和時代は買い物をしたときに「おまけ」がいろいろあった。「5円、まけとくわ」とか「おつりの1円、いらんわ」とか、八百屋に行けば「リンゴ1個多く入れとくから」とか、豆腐屋に行けば「豆乳持っていき」とか、そんなやり取りがあった。近所に住んでいたバスの運転手さんなんて、たまたまバスに乗り合わせたとき、運賃箱に手を置いて、お金を入れなくていいと目くばせしてくれたこともあった。本当にそういうやり取りがよくあった。でも、なんでも機械化されている平成後半から令和時代は、レジのお金や在庫の数のミスはなくなったけれど、「おまけ」という余白や余裕もなくなってしまった。
便利になったはずなのに、窮屈感を感じてしまう今の世の中。もうちょっと「適当」でも、「いい加減」でもいいんじゃないの?と思ってしまう。本当に世の中は多様性社会に向かっているんだろうか。マニュアルや規則を気にしすぎて、学校や職場でも余裕のない人たちが多い気がする。ちょっとくらいはみ出してもいいじゃない(ミスチルの昔の歌でもそういうのあったよね)。子どもたちにも余裕を持って接することができる大人が増えたらいいのにね。
「それって、あなたの意見ですよね」とまた息子に言われたら、「適当」にあしらおう。あぁ、でもきっと腹は立つだろうな(笑)。