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【エッセイ】桁違いの父のこと 2
破天荒で桁違いの父のことを書いてから、気付けばもう2年も経っていた
(破天荒ぶりの一部はこちらをご一読ください)。物書きを生業にしている私にとって、亡くなった父の話は面白いネタでもあり、父のエピソードから社会勉強をさせてもらっているような気もする。そして、父のことを思い出すたび「自分の人生、好きに生きなさい」と言われているような気もするのだ。
久しぶりに父のことを書いてみようかと(久しぶりすぎるか…)思ったのは、年末に受けた友人の「ベーベー福の神ワーク」という占いのようなセッションがきっかけだった。
そのワークは、自分のことだけでなく、親やご先祖さま、子どものことなども併せて見てくれるもので、どんな使命・天命を持って生まれてきたかを数字から読み取るものだった。
「お父さん、ちゃんと数字通りに生き切ったんだね。数字に破天荒ぶりが出てる」
はちゃめちゃぶりはあらかじめ決められていたようで、父はその人生を全うしたのだそう。悔いなく亡くなったに違いないと思っていた私は、それを聞いて「やっぱりね」と思った。
子どものころ、この世に未練を残さずに生き切った人は化けて出てこないと聞かされたことがあり、そういうものだと思っていた。だから、父は亡くなったあと、一度も私の枕元にも母の枕元にも現れていない。あるいは妻も子どもも多すぎて、出てくるのが面倒なだけかもしれない…。
そう思っていたのだが、セッションの終わりごろ、友人が突然「お父さん、きた!」と言って、断片的にメッセージを伝えていると教えてくれた。友人はそういうメッセージをキャッチできる体質の人なのだ。
「2年後、待ってろ。包み隠さず。恥ずかしいことはない」
なんじゃそれ。「包み隠さず、俺のことを書いていいぞってこと?」と聞くと、「そうみたいだよ」と友人。そうか、じゃあ書こうかな。書く、書くと言い続けて、行動に移していなかったから。というわけで、前置きが長くなったが、また書くことにした。きっかけを与えてくれた友人に感謝だ。
今日は、父との思い出について少し書こうと思う。父と過ごした時間は、すべてを足し算してもトータルで1、2年といったところ。記憶にある範囲でいえば、幼稚園に入ったころには月に1、2度しか帰ってこなかったし、家にいるのも1日か2日。小学校に入ると、さらにその回数は減り、1年に数回帰ってくる程度だった。そんな生活を母が当時どう思っていたかは分からないが、不平不満は一切聞いたことがない。生活費はきちんと入れてくれるし、幼稚園や学校の行事があるとき、何か相談ごとがあるときは、会社に電話をすれば、だいたい折り返し電話をくれるし、タイミングがあえば家に直接帰ってきてくれた。むしろ、父が毎日いないほうが、のんびり屋の母にとっては快適だったのかもしれない。
父はたまに家に帰ってくると、私をめちゃくちゃかわいがってくれた。ムツゴロウさんが動物を撫でまわすようなレベルで、ワシワシとかわいがってもらっていた。幼稚園に入る前か入ってすぐの頃の記憶(4、5歳のとき)では、お風呂も一緒に入っていたし、家の中でもずっと遊び、一緒の布団でも寝ていた。私はパパ大好きっ子だった。アルバムをめくると、赤ちゃんの私に頬ずりする父の写真や動物園へ行ったときのもの、七五三で平安神宮へ行ったときの写真などがあった。とにかく一緒に過ごした時間が短いので、父との思い出も断片的で数も多くはない。だからこそ、余計に一つひとつが強烈に印象に残っている。
一生のうち、私が父に怒られたのは一度だけだった。しかもそれは4歳くらいのとき。
その日、久しぶりに家に帰ってきた父は、ランニングシャツにステテコ、裸足という出で立ちで、「ナマコォ、ガオォ」と四つん這いの怪獣になって、私のそばへやってきた。白目をむいて、変な顔をして、首を振り回しながら近づいてくる。幼い私は、「キャー」と言いながらも喜んで逃げたり、父の背中を叩いたり、よじ登ったりしてじゃれていた。
子どもというのは加減を知らない。楽しさと嬉しさが相まって、私はハイになっていた。父がヘトヘトになっていることなど知る由もない。立ち上がって「もう、おしまい」と言う父にぶら下がりながら、「もっとー!」と私はしつこくせがんだ。
「もっとー、もっとー、怪獣もっとー」
「もう、パパ、しんどいわ。ちょっと休ませて」
「もっとー!怪獣」
近くで見ていた母が言うには、私は相当しつこかったらしい。母も「もうやめとき」と制したが、テンションが上がっていた私は「怪獣やってー!」と父にまとわりついていた。
「ええ加減にせえっ」
ブチ切れた父はイスにドカッと座り、私をうつ伏せにヒョイと抱えて、尻を叩き始めた。私は驚いて、一瞬声が出なかったのを覚えている。
「しつこいんや! パパかって疲れてるんや」
何発か叩かれ、痛みを感じ、私は初めて父が怒っていると気付いて、恐怖のあまりワンワン泣き始めた。記憶のある中で、人に怒られて泣いたのはこれが初めてだったと思う。
今度は父の怒りが止まらなかった。「ごめんなさい、ごめんなさい」と泣きながら謝ったが、父の尻を叩く手は止まらなかった。母が途中で止めに入ったが、父は叩き続けた。百叩き状態だった。今なら、虐待で通報されてもおかしくないレベルだったかもしれない。
叩くという行為は、叩くほうも手が痛い。しばらくして父は手を止め、泣き続ける私を下におろし、ゼーゼー肩で息をしながら、服を着始めた。
「会社戻るわ」
父はそう言うと家を出ていった。せっかく帰ってきてくれたのに、自分が怒らせてしまったせいで父が出て行ってしまったと、私は悲しくなって、また泣いた。お尻の痛さと悲しみで涙が止まらなかった。
母は濡らしたタオルで、おサルのように真っ赤に腫れあがった私のお尻を黙って冷やし、溢れ出る涙をエプロンで拭いてくれた。
私の涙が止まりかけたころ、家の電話が鳴った。母が出ると、父からだった。
「ナマコ、大丈夫か? よう、冷やしたってくれ。やりすぎた。堪忍な」
父の手も腫れていたと思うと母は言っていた。母は「痛いなぁ。ナマコちゃんもパパも痛いなぁ」とポツリポツリ言いながら、タオルを何度も取り替えてくれた。
後にも先にも父に怒られたのはこれだけ。1カ月ほどして帰ってきた父はもう怪獣ごっこはしなかったし、私も「怪獣やって」とは言わなかった。ただただ、ムツゴロウさんと動物のように転がってじゃれ合っているだけになった。
今振り返ってみると、親が完璧な存在ではないというのを認識した最初だった気がする。大人になって、このときの話をすると、母は「あんた、びっくりするくらいしつこかったもん。それにしても、お尻ってあんなに腫れるんやって思ったわぁ。お父さんの手の形がくっきりついてたし」と面白そうに語っていた。そして、「お父さん、電話かけてきたとき、ものすごい心配そうな声やったんやで。女の子やのに叩いたあとが残ったらどうしようって。残るわけないやんな」とニコニコ笑っていた。そのときの父のおろおろしている様子が目に浮かぶようで、私も笑った。そう、父は強面でやることも破天荒なのだが、やさしくて小心者でどこか憎めない一面もある人だった。