凸凹あって当たり前。みんな偉いし、みんな偉くない
先日、母の付き添いで大学病院へ行ったときのこと。母の代わりに窓口で会計の手続きをしていると、窓口の医療事務の女性が小難しい医療制度の名称を言い、そのために必要な書類について説明してくれました。書類の名前もなんだか私には小難しく聞こえ、結局、医療事務の方が、母の持ってきた書類の中から必要なものをササッと取り出してくれました。そのテキパキとした対応+小難しい言葉が頭に全部入っているのを見て、「私にはできない。すごいなぁ」と思いました。
昔、医療事務をやっている女性が「専門学校にでも行って、ちょっと勉強したら誰でもなれますよ」と話していましたが、「私はたぶん、そこに行ったら落ちこぼれだろうな」と思っていました。同じようなことは、経理関係、法律関係にも言えます。苦手なんです。そういう方面の取材のときは、事前に勉強していきますが、取材だからいいんです。分からなくても、取材ということで、たいがい教えてもらえるので。ただ、医療、経理、法律を仕事にするのはムリだなと思うのです。
この間、発達障がいのフォーラムに仕事で参加した旨を書きましたが(https://note.com/tokunamako/n/nc4e82dc8f704)
それ以来、その時に聞いた話を思い出すことがちょいちょいあります。
フォーラムで基調講演をされた野澤和弘さんという元毎日新聞社の記者だった方のお話。とてもいいお話をたくさんされていたのですが、大学病院の窓口で思い出したのは次のような話でした。
「多くの子どもにもともと凸凹はあるし、発達障がいと呼ばれる傾向を持つ子どもは昔もたくさんいた。ただ、昔の子たちは、小さい頃に家庭や地域、保育園などで、肯定的にゆったりと、寛容な環境の中で育てられたことによって、成長の際に必要な愛着形成がきちんとできあがり、多少の凸凹はあったとしても、自己肯定感を下げることなく、その後は苦手なことを上手に避けたり、ごまかしたりしながら、好きなことや得意なことを伸ばして生きていくことができている」
ご自身も新幹線で原稿を書くと集中しすぎて、駅を降り過ごしてしまうことが何度かあり、これも発達の凸凹だよねとおっしゃっていました。また、同じ記者の後輩にも発達障がいの傾向のある人たちがいたそう。確かに私が過去にお会いした新聞記者の方の中には、傾向が強い人が多かった気もします(たまたまかもしれませんが…)。
そう考えると、確かに誰にでも凸凹はあります。私自身、子どもの頃、できないことや苦手なことがたくさんあったなぁと思い出しました。時計の針を読めるようになったのは小学校の高学年だったし、中学に入ってからの数学はいくら教えてもらってもちんぷんかんぷんなままだったし、大人になった今も小難しい言葉が出てくる書類関係はアレルギー反応が出ます。知らない場所に行ったとき、大きな声で知らない人に話しかけるのも苦手です(初めて行く取材先の第一声はいまだに緊張する)。でも、なんだかんだうまくごまかしたり、上手に避けたり、誰かにやってもらったりして、無難に生きてきた気がします。ごまかすという言葉はあまりいい印象ではありませんが、でも、自分が生きやすくあるための手段だったんだと思えば、悪いことではないと思います。そして、できないことがいろいろあっても、ずっと好きだった「書く」仕事に二十年以上携わることができています。
だから、できる・できない、得意・不得意があっていいと思うのです。あって当然なのです。今の子たちは、「できないこと」ばかり指摘され、学校で注意を受けていることが多い気がします。少しずつ「できること」にフォーカスしましょうという雰囲気もありますが、でもまだまだそれは一部な気がします。大人自体が、無理矢理「こうでなくてはならない」と押し付けたり、縛り付けたりしているようにも見えます。一方で、一部にはマルチに何でもできてしまう子たちもいます。それはそれでいいと思います。世の中にはそういう人も必要です。でも、誰が偉くて、誰が偉くないじゃなく、みんな偉いし、みんな偉くないと思うのです。
大学病院の受付で待っている間、そんなことを頭の中でグルグルと考えていました。