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盲者のアート鑑賞を通して ー 「誰のためのアクセシビリティ?(田中みゆき著)」を読んで1

この本の表紙を描いている画家が好きで、彼がInstagramでこの本を紹介していたので、ふと手に取った。

どの章も興味深く、ぜひnoteで紹介したいと思ったのだが中身が濃く多岐にわたるので、特に興味を持った章から少しずつ紹介したい。
多岐に渡ると書いたが、そのメッセージは一貫していて「身体性の問題、生きられた経験の違い」について述べられている。私とあなたは違う身体を持っている。そして違う経験を生きている。そこが出発点であり終着点でもある。一見当然のことのようだが、実際当然のことなのだが、実は私たちはそれを見落としていることが多い。

盲者、晴眼者たちのアート鑑賞

著者含む6名の盲者・晴眼者たちが共にアートを鑑賞するワークショップが開かれた。

まず、そのアートが何を描写しているかAI(Be My AI)が説明してくれる。このAIはこの本を読んだりネット上で調べた情報を見る限りかなりの精度を持っているようだ。が、果たしてAIは「アートを鑑賞する」助けになるだろうか。「今回の」AIは主観をほとんど排除し、見たままを語る。(ただしAIの解釈もそれまでに学習した内容によって「偏り」や「間違い」が生じるのでAIだから客観的に正しいだろうという思い込みも現段階ではまだ危なっかしそうだ。)

次にAIの言葉を検証しながら複数の晴眼者がアートの解釈をそれぞれに行う。AIが見たままを語るのに対して、晴眼者は絵からイメージしたものも自由に語る。(例えばある抽象画を見て「龍みたい」「蛙の卵」「お正月っぽい」など自由な連想が始まったりする)盲者からは晴眼者の解釈を聞いて初めてイメージが膨らんだという意見があった。

だがワークショップを終えた後、ある盲者からは「最初に口火を切ったのがAIで良かった。忖度なく受け取れるから。誰かにずっと解説してもらうと「ありがとうございます」がまず先に来る。誰かに何かを贈られ続けると苦しくなる」というような意見もあった。

AIが代わりに見てくれるというのはやはり盲者にとって精神的負担が少ないのだろう。晴眼者から「これは〇〇っぽいですね」と言われたら「ありがとうございます」とそれをひとまずはそのまま受け取らなくてはならない。こういうワークショップの場でなければ他の晴眼者の意見を聞いてみるということもしにくい。私だったらそれを不自由だと感じるだろう。AIの活躍は意識するしないに関わらずできあがりがちな「健常者が障害者に与えてやるという図式」から容易く逸脱できる点で期待できると思う。

AIという選択肢も出てきた現代のアート鑑賞において、盲者はそれでも晴眼者の助けがあった方が良いのだろうか。
正直わからない。

私はアート鑑賞を人に邪魔されたくないタイプなのだが、私が盲者となった時も同じ感覚を持つだろうか?AIの話を聞いて素直に感動することができるだろうか?
私が盲者となった時、アートから受け取るインスピレーションは一緒に見てくれる晴眼者が受け取ったインスピレーションを源泉として生まれるものである気がする。そして一緒に見てくれる晴眼者が複数いるとそれはより立体的なものになるだろう。例えば晴眼者と盲者のやり取りがもっとオープンに行えて、盲者が自分にとってのお気に入りの描写者に出会えるようになると、そこには新しい対話が生まれて、盲者・晴眼者ともにより豊かな体験ができるのではないだろうか。

しかし、この感覚はAIにまだ不信感を持っている世代だから起こるのかもしれない。見る人にカスタマイズされた描写を行うAIが登場した時(するだろう)、まだアート鑑賞において他の晴眼者が必要なのかどうかはわからない。

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