【『さみだれ』冒頭公開!】暴力描写の限界に挑んだ戦慄の任侠時代小説!
時代小説の旗手、矢野隆さん渾身のヴァイオレンス時代劇、『さみだれ』が8月27日に発売されます。「抜きたい、斬りたい、殺したい」。凶悪なる欲望を抱えた謎の博徒を主人公に据えた衝撃作。発売に先駆けて、冒頭を公開します。時代小説史上、もっとも残忍な男(!?)にご注目を!
一
何事もなく無人の野を行くかのように。
歩む。
眩いほどの月明かりを背に受けながら、男たちが立っている。
誰にも気づかれず、目の前に迫った男の背中を。
貫く。
肋の下、腰骨よりも高いところ。背中から入った刃が、臍の脇から飛び出している。心地よい肉の弾力を柄を握った掌に感じながら、腸をかき混ぜるように素早く手首を回す。なにが起こったのか解らぬまま腹を裂かれた男の口から、ごぼごぼと音を立てて血の泡が湧き出している。
呻くだけで精一杯。言葉を吐くことはできないようだ。男が呻いたおかげで、他の奴等が気づいた。
「誰だ手前ぇっ」
叫んだのは刺された男の仲間だ。
皐月雨の晋八は、腹に潜り込ませた刃をゆっくりと抜きながら笑ってやった。刃を抜かれた男が、震える手で晋八をつかもうとする。腰を引いてかわすと、男は前のめりになって倒れた。
晋八に助けを求める男の血と涙で汚れた目玉を、笑みのまま刺す。手首に力を込めて一気に頭骨まで貫くと、脳を抉られた男はいっそう激しく震えはじめる。
久方振りの殺し。
足の先から脳天まで震えが駆けあがってゆくのを抑えられない。心の臓が脈を打つたびに血を溢れさせる男を見下ろし、晋八は恍惚の笑みを浮かべる。
見知らぬ男。遺恨はない。己が手に握られた刃によって繋がった泡沫の縁である。
「なにしてんだ手前ぇっ」
無粋な声が晋八を穢れた現世に引き摺り戻す。震えが収まりつつある頭から長脇差を抜き、小刻みに震える背を踏んで、男の仲間たちへと歩み寄る。満月に照らされた晋八の薄い唇が、怪しく吊り上がった。
一人を五人が取り囲んでいるところに出くわした。あまりにも分が悪い。嬲り殺しは好きじゃない。それだけの理由で晋八は、長脇差を抜いて卑怯者の背後に忍び寄り、腹を刺した。
新手の登場に驚いた残りの四人が、いっせいに長脇差を抜く。
悲鳴とともに、一人の男の左の肩口がばっくりと裂けた。
「急ぐからそうなる」
男たちの前に立ち、晋八はささやいた。
肩が裂けた男は、晋八が突然現れたことに驚いて焦って抜いたものだから、鞘を斜めにすることを忘れたのだ。勢い込んで抜いた切っ先が、己の肩を斬り裂いたのである。なにが起こったのか、斬った本人すら解っていない。解っていないのは無事に抜刀した三人も同様だ。誰に斬られたでもなく、一人でのたうち回っている仲間を見下ろし、固まっている。
隙だらけ。
「馬鹿ばかばかばかばか……」
晋八は笑顔のままつぶやく。血に濡れた刃を右手にぶらさげ、両手をひらひらと振る。そのまま一人に狙いを定め、跳ねるようにして歩き出す。囲まれていた男が、晋八とは別の一人にむかって駆け出していた。手には懐に忍ばせていたのであろう短刀が握られている。
短刀を握っている男の脇をすり抜ける時、声が聞こえた。
「どこの誰だか知らねぇが助太刀かたじけねぇっ」
早口で言った男は、敵の懐に潜り込んだ。そしてそのまま頭を突き上げるようにして、敵の躰を上に押す。もちろん敵の腹には短刀が根元まで入っている。
「い、石松っ。て、手前ぇ……」
腹を刺された敵が、顔をくしゃくしゃにしながら男の名を呼んだ。晋八が助けに入った男の名は石松。恐らくではあるが。
「巧いねぇ」
跳ねながら晋八はつぶやいた。
石松の躰の使い方に感心している。感心しながらも、しゃがみ込んで敵の視界から消え、目の前にある脛を斬りつけた。
「がら空きだよ、ここ」
にこやかに告げながら、石松のことを目で追う。石松は敵の腹を抉りながら、ぐいぐいと自分の躰を押し上げている。短刀のような短い得物を扱う場合は、懐に潜り込むのが一番だ。肋のない柔らかいところに突き刺したら、そのまま躰ごと上に押し込んで抉る。刺したままだと運がよければ、腸を避けて浅手となる。思い切りが悪ければ肉を破ることができない。半端な刺し方では、刃を腹にんだまま相手は動くことができる。躊躇していると、刃を抜かれ長い得物で斬り裂かれてしまう。だから間合い深く潜り込んで、一気に抉るのが一番なのだ。
慣れている……。
わずかな動きだけで、石松という男がどれほどの腕か晋八は見切っていた。
刀を抜いた喧嘩で、大上段から斬り下げるような真似は絶対にできない。袈裟斬りなどという上等な技も決まりはしない。戦がない世になって二百数十余年。侍が人を殺すなど皆無に等しい。
正眼に構えてじっと見合うなど、絵空事なのだ。
悠長に構えていれば相手の牽制や誘いにあっさりと釣られ、動いた手足を斬られて終わり。それが本当の喧嘩だ。
命がけである。泰然自若など、どれだけ修練を積んだ者でも望めぬ境地だ。牽制につぐ牽制、数え切れぬほどの誘いの末に、やっと手足を切っ先で掠めることができる。
斬ってしまえばこっちのものだ。痛みを堪えて十全に動けるような者はいない。かならず隙ができる。後は突くも斬るも、思うがまま。
脛を斬られて情けなく転んだ敵の胸を踏みつけた。笑みのまま見下ろし、晋八は言葉を投げる。
「死にたくねぇだろ」
涙ぐむ男が口を堅く結んで、何度もうなずく。傷つけられて踏まれ、それでも刃向かって来るほど気骨のある者はそうはいない。
「こっから消えてくれたら、助けてやるが、どうする」
「わ、解ったから……」
「駄目」
足元にある首に晋八は刃を突き立てた。首には太い骨がある。骨は歯より柔らかいが、はずみで切っ先が欠けることもある。だから、喉仏を見極める。刃先が骨を逸れるように、その下あたりを突く。引き抜くと、心の臓の拍動に合わせて血が噴き出す。返り血など御免だ。刃を抜くのと、躰をひるがえすのは同時である。少しでも躊躇すれば、裾が血飛沫で赤黒く染まってしまう。そんな無様な汚れは、晋八には耐えられない。
「やるじゃねぇか」
腹を抉った男を突き飛ばし、石松が笑う。
一人残された敵が涙目になっている。それもそのはず。哀れなことだと、晋八は思った。
日頃どれだけ博徒だ無宿だと威張っていたところで、こんなにばたばたと人が死ぬような喧嘩など目の当たりにしたことはないはずだ。数十人が混戦乱戦躍起になって戦って、その末に五つか六つの屍が転がっているというのが、こいつらの喧嘩である。それが、刀を抜いたかどうかといううちに、すでに三人が殺され、一人はみずから肩を斬ってのたうち回っているのだ。しかも殺った者は、笑いながら語らい合っている。一人残された敵はたまったものではない。
晋八は震えて今にも泣きそうになっている敵にむかって笑う。
「どうしたい、そんな顔して。なんか悲しいことでもあったのかい」
首を傾げて問うた。
隣に石松が立つ。
「お前ぇ等、卯吉んとこの若い者だろ」
気迫の籠った声に、敵が震える。
「おい、そんなに怖ぇ声出したら可哀そうだろ。怖がってんじゃねぇか。なぁ、あんた」
会ったばかりの石松を笑みのままたしなめてから、晋八は敵に目をむける。その時、震える男の背後で声が上がった。
「どしたっ」
歯をがちがちと鳴らす男の後ろから、大勢の男たちが駆けて来る。それを肩越しに見た男は、怯えを張りつかせていた顔を悪辣なまでに歪めながら悪態を吐く。
「調子に乗ってられるのも今のうちだぞ、この野郎」
十人ほどの新手が、男の左右に並ぶ。そして、そちこちに転がる味方の骸を見てから、晋八たちへ殺意みなぎる目をむける。
「おい石松っ、お前ぇ自分がなにやったのか解ってんのかっ」
新手のなかでもひときわ大きな男が叫んだ。縦にだけではなく、横にも大きい。
「相撲取りか」
剣な気配に似つかわしくない飄々とした声で、晋八は言った。すると先刻叫んだ巨漢が、石松から目を逸らして晋八を睨んだ。
「なんだ手前ぇは」
「うっるせぇなぁ……。耳ぃおかしくなっちまうだろが。そんなに叫ばなくても聞こえてるっつぅの」
小指の先を耳の穴に突っ込んだ。それを横目で見て、石松が短く笑い、目の前の大男に声を投げる。
「この人ぁ関係ねぇ」
「だったらそいつぁなんだ」
晋八が右手にぶら下げている血塗れの長脇差を男が指さす。
「あぁ、これ」
さされた刃をひらひらと振りながら、大男の足元に転がっている骸を顎で示す。
「そいつと」
はじめに腹を抉った骸を示す。
「そいつの血で濡れてんだ」
満月に照らされた大男の四角い顔に、月の微かな光でも解るほどに太い血の筋が幾重にも走った。
「お前ぇ、なにをやったか解って……」
「だから相撲取りなのか、お前ぇはって俺が先に聞いてんだから、答えろよ」
「ぶふっ」
うつむいた石松が、唇の隙間から息の塊を激しく噴き出した。それからすぐに、今度は腹に手をあてて思いきり仰け反った。
「がははははははっ」
大きな口を広げて天を仰ぎ、盛大に笑う。晋八はこの時はじめて気づいたが、石松の左目は塞がっていた。閉じた瞼の上に無残な傷痕が残っている。
「手前ぇ」
巨漢が苦々しげに言った。ひとしきり笑った石松が、右目の涙を指先で拭いながら、巨漢に告げる。
「この人ぁ何度も聞いてんじゃねぇか。さっさと答えてやれよ」
短刀の切っ先を巨漢のほうにむけ、石松が晋八を見る。
「俺もこいつ等と面とむかって話すのははじめてなんだ。だから良く解んねぇ。が、どう見ても相撲取りだよなぁ、こいつ」
「太ってるもんな」
顎をきつつ、晋八はつぶやく。
また石松が笑った。
「お前ぇ等、生きて帰れると思うなよ」
「やってみろよ」
「舐めた口利きやがって。親分の仇、きっちり取らせてもらうぜ」
「だから、やってみろって言ってんだろ」
石松と男が言い合う。
面倒だ。
「面倒面倒めんどうめんどうめんどうめん……」
問答なんかしてどうなる。
喧嘩なのだ。
晋八はおもむろに石松と言い争っている男へと歩む。その動きがあまりにも気が抜けたものだったから、晋八の動きに目をやった者は皆無だった。
晋八はするすると間合いを詰める。恐らく力士上がりであろう男が気づいた時には、晋八は長脇差を振り上げていた。
「ぬっ、抜けっ」
己に迫る刃を見て、力士上がりの男が悲鳴同然に叫んだ。十人の仲間がいっせいに腰の柄に手をやる。
「遅ぇよ」
にんまりと笑って晋八は長脇差を振り抜いた。大上段からの一撃など絶対に決まらない。だがそれは時と場合による。これほど無防備な愚か者が相手ならば、晋八ほどの腕ならばやれぬこともない。
が……。
軽んじていた敵にも、見どころがあった。
「ひぃっ」
分厚い肉に覆われた男の顔が、面白いほど歪んでいる。今からそれが真っ二つに割れるのだと晋八が笑いながら思っていると、いきなりなにかが己にむかって飛んできた。昔取った杵柄。さすがの膂力である。命の危機を察した男が、考えるより先にかたわらにいた仲間のひとりを放ったのだ。大上段から振り下ろしていたから、刃の間合いがいつもより遠い。投げられた男が胸元に飛んできたせいで腕が男の躰で止められ、長脇差は虚空で御された。そのままの体勢で、投げられた男もろとも数歩後ろに仰け反る。舌打ちをひとつして勢いよく皆に背をむけ、男を振り払い、そのまま走り出す。あまりのことに皆が動けずにいる。
十分に間合いを取ると、晋八は足を止めて再び振り返った。
「もうっ」
右足で地面を蹴った。
「なんだあいつぁ」
力士上がりが、目の前に立つ石松に問う声が聞こえる。
「会ったばかりだから解んねぇよ」
石松が答えるのを聞き流しつつ、晋八は敵にむかって走り出す。
晋八がなにをするのか見極めようと、敵は長脇差を構えたまま微動だにしない。
どれも硬い。切っ先を晋八にむけたまま固まった肩が、異様なまでに上がっている。人を斬るということは、斬られるということ。相手を斬ろうという想いよりも、斬られるのではという不安が大きくなれば、斬られまいとして躰は硬くなる。いま目の前に並ぶのは、臆病風に吹かれて固まった石塊の群れであった。
硬くならないために、晋八は常に型に囚われずに動く。故に傍目から見たら奇怪な動きに見える。が、その動きが敵に恐れを生み、晋八が柔らかくなればなるほど、何をしでかすつもりかと恐れる敵は、硬く硬く凝り固まってゆく。
思いっきり駆け、一人の敵の前で止まった。男のかちかちの肩がびくんと大きく上下する。晋八は解りやすく長脇差を振り上げた。眼前の男が晋八の斬撃を受けようとして、掌中の刃を頭上に掲げる。
脇腹ががら空きになった。
ぎこちない受け太刀に思い切り大上段から振り下ろすのは下の下である。だからといって大上段の構えを牽制にして、横薙ぎに腹を斬ろうとするのは、喧嘩慣れしていない者のすることだ。がら空きだからと飛び込めば、どれだけ気にまれた者であってもとっさに動く。頭に血が昇っていればいるほど、そういう時の動きは乱暴で、己が身のことすら考えない力任せなものになる。己を守らんとするあまり、敵味方の別もない粗暴な一撃を繰り出してしまうものだ。巻き込まれれば避けようがない。
だから、がら空きの腹は狙わない。
上げた長脇差を、今度は素早く中段に持って来る。敵が、晋八の動きにつられて中段に構えた。いっさいの気を込めずに無の心地で、切っ先を敵の手許に静かに差し出す。いきなり視界の端に飛び込んで来た刃に驚いた敵が、構えていた刀を振り上げ、手許に迫った刃を払い除けようとする。そっと長脇差を引いてそれをかわす。敵の刃が空を斬るのをにやけ面のまま見送ってから、返す刀で手首を下から斬りあげる。柄を手放した掌が宙を舞い、満月を横切ってから地を叩く。
短い悲鳴とともに、敵が長脇差を落として斬られた手首を押さえる。晋八は骨まで断った感触を掌の裡に感じながら、膝から崩れ落ちて涙を流す男の前に立ち喉を斬った。
甲高い笛の音が、飛沫の水音と混ざり合う。
「これこれ」
返り血を避けるように首が裂けた骸を蹴り倒し、晋八は満面の笑みのまま悠然と敵の前に躍り出た。手並みの鮮やかさに、男たちが固まっている。
力士上がりであろう巨漢に、晋八はにこやかに語りかけた。
「終わりなんて寂しいこと言わねぇよな。な」
巨漢の小さな瞳が、石松をとらえる。
「おい、石松」
まだ問答をするつもりか。
面倒。
晋八は駆ける。
「ちょっ」
話しかけられていた石松が戸惑いの声を上げるのを無視しながら、顔と胸の肉に埋まった首めがけて横薙ぎに刃を振るう。男には閃きにしか見えなかっただろう。
蹴った。さすがに力士を彷彿とさせる堂々たる体躯である。蹴ったくらいではびくともしない。だが、躰から離れてしまった頭はそうもいかなかった。強かに胴を揺らされ、あんぐりと口を開いたまま斜めに傾く。肉の間に隙間が生まれ、血潮がほとばしる。己の血の勢いに押され、頭が転がり落ちた。
「おっ、お前っ」
血飛沫から逃げるように、石松がひょいと跳ねて膝から崩れ落ちようとしている巨体から退いた。
そんな物、晋八は見てもいない。
男の首が地に落ちるよりも先に、残っている敵のほうへと駆け寄っている。あまりにも呆気なく一団の頭らしき男が殺されたことで、敵が慄く。
「まだまだまだまだ」
首をゆるやかに横に振りながら、晋八は笑う。
「終わりなんて言わせねぇよ」
目の前の男が涙目で長脇差を中段に構えるのを確認してから、ぐっと腰を落とし、地面すれすれに切っ先を走らせ右の逆袈裟で斬り上げる。中段に掲げていた男の腕の肘から先が柄を握りしめたまま宙を舞う。歪みのない真っ直ぐな切り口に満足しつつ、晋八は腕を失った男の顔を真一文字に斬り裂く。
「まぁだだよぉ」
誰に言うともなくささやいて、新たな骸の脇に立ち震えている若者に目をやる。
幼い頃から威勢が良かったのであろう。細い眉の間に刻まれた縦皺と、涙をにじませながらもなお晋八を睨みつける鋭い眼光に、貫禄を感じる。
「勿体ないねぇ」
「くっそがぁぁっ」
恐れを振り払おうと若者が叫ぶ。
「俺に会わなけりゃ、良い博徒になったんだろうねぇ」
顔を引き攣らせ、長脇差を振り上げ、若者が大きく踏み込む。策のない無謀な動きである。
「はい駄目ぇ」
吐き捨て、臍の下辺りに力を溜め、晋八は両足で地面を踏みしめた。
「きえぇぇぇっ」
大きく振りかぶった長脇差を、力一杯真っ直ぐに振り下ろして来る。肩に力が入り過ぎて、剣先の動きが面白いほど遅い。晋八は笑みのまま、踏ん張った地面から腰、背骨、肩、両腕へと伝わる力の流れを長脇差へと注ぐ。そのまま自然な流れで、柄を天にむかって振った。
二つの刃が虚空で激突する。恐らく若者のほうが力は強い。一撃に注いだ量も違う。
なのに。
弾かれたのは若者の刃のほうだった。素直に振り上げた晋八の長脇差は、若者の刃を弾き飛ばして緩やかに宙で止まった。
「剣を振るのに」
言いながら天を仰いでいた刃を返し、地にむける。
「力はいらねぇよ」
晋八は、ささやきながら若者の首の脇から刃を滑り込ませ、脇腹から抜いた。はだけた衣の下から腸が零れ落ちる。糞と生臭い血が混ざり合ったなんともいえない臭いを放ちながら、若者が天を仰ぐ。
「固まれっ」
どこかから声が聞こえる。
敵が一個に固まった。
ばらけているところを一人ずつ狙われる愚を、ようやく悟ったようである。が、たしかに固まられると厄介であった。こちらは二人。相手はまだ六、七人は残っている。刃の数が違う。立て続けにかかって来られたら、どれだけ乱暴な太刀筋の剣でもさすがに避け切るのは難しい。
「弱ぇ奴はよく群れる」
欠伸まじりにつぶやき、右手に持った長脇差をぶら下げ、鼻の頭を袖で拭う。
敵は明らかに晋八を恐れている。自分たちからむかって来ようとはしない。ひと塊になってこちらに切っ先をむけ、隙を見せない。
「斬りたりねぇが」
弓形に歪んだ目で石松を探す。どうやら石松も何人か片づけたらしい。足元に骸を転がし、肩で息をしながら固まった敵を睨んでいる。
「あぁあ……」
欠伸をしながらしゃがみ、骸が手にする長脇差をぎ取る。
「手前ぇっ、なにしやがるっ」
亀のようになった敵のなかから声が飛ぶ。それを無視して、敵の長脇差を左手に持って立ち上がった。
群れにむかって左手の長脇差を投げた。いきなりのことで、敵が散って避ける。
晋八は石松めがけ駆けだしていた。
「逃げる」
「なっ、なんだっ」
石松が戸惑いの声を上げた。いちいち答えている暇はない。
短刀を握ったままの手首をつかんで、晋八は思いっきり引っ張った。石松は勢いに負け、晋八に引かれるようにして走り出す。
「追えっ、逃がすんじゃねぇぞっ」
敵が叫んだ時には石松も、晋八の意を悟ったらしく、つかまれていた手を振りきって己で走り出した。横に並んで月夜を駆ける。案外、石松は足が速い。ぐんぐんと敵を引き離してゆく。
晋八は笑いを抑えられない。
「ひひひひひ」
「なんだよ気味が悪ぃな」
息を切らしながら石松が晋八を睨む。
「腕も確かで喧嘩の見切りも速ぇ。少し何考えてるか解んねぇが、そこんところはどうにかなるか」
隻眼の博徒が何事かをつぶやいている。
「おい」
「ん」
声をかけられ、月夜に浮かぶ石松の顔を晋八は見た。右目を見開いた博徒の面が青白くておぞましい。
「お前ぇ、どこの者だ」
「親はいねぇよ」
「旅の博徒か」
「まぁ、そんなとこだな」
行く当てなどない。着の身着のままの一人旅である。
「今日はどこに泊まるんだ」
「別に」
本当に決めてなかった。ふらふらと歩いて疲れたらそこらへんの社に潜り込んで寝よう。そんなことを思いながら歩いていたら、石松たちの喧嘩に出くわした。
「なんなら、これから駿州に来ねぇか」
「駿河か」
「駿州清水だ」
「遠いな」
「追手がどこにいるかも解んねぇから、どっかで野宿しながら、着くのは明後日ってところか」
二人は甲府にいる。富士川を下るようにして駿河に入り、途中から興津川へと進路を変え清水港までは二十里あまりというところだ。三日もあれば十分に着くだろう。
「清水に来りゃ、宿と飯の心配はしなくていい。言うなりゃお前ぇさんは俺の命の恩人だ。親分も悪いようにはしねぇ」
「親分」
「おうよ」
石松が胸を張る。
「清水の次郎長。それが俺の親分よ」
「次郎長……」
「そうよ。まぁ、まだまだ売り出し中だからあんま名前ぇは売れてねぇけどよ」
「ふぅん」
晋八は行く末をぼんやりと眺めながら、欠伸をした。とにかく眠い。
「どうでぇ、清水に来ねぇか」
「行く」
即答すると、石松が足を止めた。
「もう振りきっただろ」
膝に手を置いて肩で激しく息をする石松の隣で、晋八はまた欠伸をした。一里あまり駆け続けだったが息は切れていないし、疲れてもいない。
「凄ぇな、お前ぇ」
石松の顔に浮かんだ無数の汗の粒が、月光に照らされ輝いている。
「とにかく、お前ぇがいると心強ぇ」
「ん、なにが」
「こっちの話よ」
言って石松が腰に手をあて大きく背を伸ばす。
「お前ぇ、名前ぇは」
「え」
「俺ぁ、あの面倒臭ぇ挨拶が嫌ぇなんだよ。手前生国は遠州森町村で云々ってやつな」
「あぁ」
仁義を切るのは博徒の礼儀の第一である。それを面倒だという石松を、晋八は好ましく思う。なぜなら晋八も仁義を切るのが苦手だからだ。生国も親分も姓も名もどうでも良いではないか。晋八はふたつの足で、ここに立っている。それ以上でもそれ以下でもない。
「皐月雨の晋八」
「妙なふたつ名だな」
「俺といると雨が降るって、よく言われんだ」
「誰に」
「いろんな人に」
「だから皐月雨か」
「あぁ」
石松が突き立てた親指で己の顔をさした。
「俺ぁ、森の石松ってんだ。森ってのは」
「遠州森町村だろ」
先刻、石松が言っていた。
「そうそう、それそれ」
二人して笑う。
「とにかく清水で親分に会ってもらおうか」
清水の次郎長という名には聞き覚えがある。
あの男が言っていた。
晋八は邪に笑う。
まさかこんなところで、その子分に出くわすとは思わなかった。ただの気まぐれが、妙な縁を引き込んだということか。
渡りに船ってやつか……。
晋八は心中でほくそ笑んだ。
(「二」に続く)
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