1人の人間がエンジニアになるまで

@tokuhiromです。東京でエンジニアをしています。

誕生〜幼稚園

私は生き馬の目を抜く東京で育ちました。幼稚園はキリスト教系のところでした。幼稚園のときになりたい職業は大工だ、と言っていました。

小学校

ゲームは好きでしたが、自分のゲーム機は持っていませんでした。しかし、親父がゲーマーだったので、ちょこちょこやってました。でも、親父が買ったゲームをやるだけで、自分でゲームを買ったことはありません。

PC-1262(だったかな?)という SHARP のポケコンを親父からもらったので、BASIC でプログラムを書いていました。親父が新卒の頃に使ってたやつかなんかで、ディスプレイに表示できるのはカタカナとアルファベットのみで、二行しか表示領域がありませんでしたが、当時は非常に面白かったと記憶しています(その当時すでにwindows95の時代です)。

中学

中学校のときは、ニューメディア研究部という部活をしていました。過疎っている部だったので、2年のときに部長になった気がしています。同級生はもう二人しかいなかったんじゃないかなw Windows 95のパソコンを放課後にさわって遊ぶという部でした。特に何かをする目的はなく、ただ漫然とパソコンをさわる部でした。生徒が自由に出入りできたので、部員以外も普通に出入りしていた。

他の人は基本的にソリティアやマインスイーパーの技能を磨いていたが、一人で HSP を勉強していた。HSP は主にはゲーム作成を行っている人が多かったと思うが、僕はなんか拡張の DLL を作るのが楽しいなぁ、と思った。その感性は、Perl 時代に XS を書くのが楽しい、というところにも引き継がれている。

高専

なんか高専という変なやつがあるという噂を聞いて、中二病精神を発揮して入ってみた。実家は金があるほうではなかったので、「大学に行くなら国立にいくか奨学金借りていけ」と言われ続けており、大学行かないで済ませられるならそれはそれでいいな、と思ったのだった。

親父が、昔使っていたパソコンをくれたが、EPSONのPC-486EXだかなんだかってやつで、EPSON の PC98互換機で windows 3.1 が動いた。LSI-C 86試食版で C を学んだ。VZでFD派だった。当時 windows 98 の時代だったが、3.1 で頑張っていた。

その後、さすがに windows 3.1 はきついので、マクドナルドでバイトして金をためてパソコンを買った。Visual C++ とか Visual Basic とかでプログラミングをしていた。エディタとかアーカイバとかそんなのをつくって遊んでいた。マクドナルドのバイトは半年ぐらいでやめて、その後は学童で子供の面倒をみるバイトをしていた。

高専は電子系の学科で、なんというか、ICを作ったり電気回路を作ったり組み込みプログラミングをしたりする学科だった。学校の授業はわりと休講が多くて、休講になるたびに学校図書館に行っていた。図書館には様々な技術書がそろっており、電子系の本ももちろんのことプログラミング関連書籍もたくさんあったので、たくさん読んだ。5年間のうちにめぼしい情報系の本は読んで、どの本がどのあたりにあるのかだいたいそらで言えるぐらいになった。bit の過去分がたくさんあったので、1巻から順番に読んだ。ナノピコ教室とか面白かった。Linuxマガジンの過去ログもたくさんあったのでいろんなLinuxをたくさんインストールした(当時は vine が一番使いやすかったと思う。Kondara はなんかかっこよかった)。

毎週実験のレポートを出す必要があるのだが、一人だけ latex で出していた。という記憶がある。

学校にUNIXマガジンもあった。UNIXマガジンでは当時、高林さんの連載がのっていて、これに感銘をうけてテキスト処理などにのめり込んでいった。

ICPC というものがあることを知って、友達を誘って出場した。アジア予選まで行けた。旅費を学校が出してくれてよかった。同好会にして、二年ぐらい活動した。

PTT というものがあることも知って通っていた。情報科学若手の会にも参加するようになって、色々参考になった。

高専時代にプログラミングの能力が高まったが、学校の授業でスキルアップしたのではなく、高専時代わりと暇だったのと学習リソースが豊富だったのでプログラミングスキルが高まったというだけである。

5年生になった頃には LL イベントのスタッフ募集を見かけて、LLイベントのスタッフとなって、そのときに takefumi san と知り合った。

百式田口さんと橋本さんがやってた無敵会議とかにもちょいちょい行ってて、たつをさんとか

就職

母校においては、就職台帳というものがあって、その中からわりと良さそうな大手 SIer への就職を決めていたのだが、卒業までの1年ぐらいまでのあいだに SIer の闇、みたいなことを悪いおじさんたちに吹き込まれたみたいなことと、web 屋さんが楽しそうだなー気持ちが高まりすぎてわりとすぐやめてしまった。

M社時代

takefumi san に誘われて、わりと好き勝手にやらせてもらった。

ガラケー向けのサイトを主に開発している会社だった。

脆弱性があるのを見つけて直しまくったり、過負荷で毎晩アラートが上がっていたのを index はったりクエリを直したりして安定運用に持っていくなどした。

ガラケー向けのアフィリエイトサイト、ポッドキャストサイト、リスティング広告、ブログプロモーションサービス、ツイッタークローン、セカンドライフ用サービスなど、様々なサービスを開発した。

2年ぐらいたった頃、会社に停滞感があった頃に転職した。

E社時代

フォトストレージサービスの iアプリクライアントを作った。windowsクライアント/macクライアントのメンテもしたが、結構書き直さなくちゃいけなくて大変だった。windowsアプリとかC#で書けばいいのにゴリゴリの C++ で書いてあった。

その後、iphoneアプリとかソシャゲとか作った。

Perl 用のWebフレームワーク/ORM/Template engineの開発などもしていた。YAPC::NA にいかせてもらったりなんだりして、良い経験をさせていただいた。

会社の資金が尽きたので会社都合退職とあいなった。

L社時代

いろんなサービスを実装した。Perl で書いていたが、ちょうど僕が30歳になる頃に、Java で実装しようという機運が高まってきたので、Javaエンジニアになった。色々あってマネージャーとなった。

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